RSS | ATOM | SEARCH
映画 『 濡れた唇 』

 1972年製作。神代辰巳の記念すべき日活ロマンポルノデビュー作だ。
『恋人たちは濡れた』への再見をあえて堪えた私ではあるが、この未見のデビュー作を観られる機会だけは外すことは出来ない。仕事帰りに夜9時15分開始のユーロスペースでのレイトに駆けつけた。
私がロマンポルノを観てきたピークは高校から、浪人、大学時代の前半。当時、名画座を探していても『濡れた唇』の上映はそれほどなかったように記憶している。
何せこのジャンルは当時は一週間3本立てのローテーションでフル回転状態だった。
映画館が新作、準新作の上映だけでプログラムを埋められるだけのポテンシャルは十分に備わっており、確か入場料1200円ほどの日活の封切り館があって、新作落ちをかける二番館があったとすれば、私は更にその下の300円3本立ての三番館以下に通っていたのだから、そのランクの客にあえてプリントが消耗した小難しい神代辰巳の初期作品を観せるという発想はなかったに違いない。
私がその当時から感じていたことは、優れた女性映画を男の観客たちが独占していることの矛盾と、映画雑誌などで絶賛される神代辰巳と、それを上映している小屋の空気感とのギャップだった。

s_kuma.jpg 主演は絵沢萌子。調べてみないとわからないが、唯一無二の主演映画なのではないかと思う。ロマンポルノに関わらず広く一般映画でも活躍し続けた名脇役だといってもいい。
神代辰巳のデビュー作と書いたが、正確には日活がロマンポルノに移行する以前の一般映画で監督デビューを果たしており、『濡れた唇』はあくまでもロマンポルノ第一回監督作品。その一般作デビュー『かぶりつき人生』があまりにも不入りだったため神代は日活の怒りを買って何年間か干されていたのは有名な話で、ロマンポルノ路線に踏み切ったことで、水を得た魚のように躍動したことはどの神代辰巳プロフィールでも紹介されていることではある。
そして日活ロマンポルノは究極のスターシステム路線だったのだから、主演が当時33歳の絵沢萌子であるという時点でこの第一回作品はまったく期待もされない添え物扱いだったことも窺える。

 材木屋で働く金男はコールガールの洋子を見て一目惚れし、洋子のもとに転がり込む。しかし洋子のヒモが現れ、もみ合っているうちに撲殺してしまった。金男は洋子の故郷に逃亡するが、幼なじみの清からすでに警察が来ていると知らされる。清と恋人の久子が加わり、四人での逃避行が始まった・・・。

 絵沢萌子はもともと芝居が上手く、彼女の存在感だけで最後まで引っ張られてしまうのだが、正直、内容はロマンポルノ以前の日活ニューアクションで原田芳雄、藤竜也、梶芽衣子たちが織りなした不良性感度の高い反体制の青春ものから、権力への激しい怒りを抜いた軟弱で牧歌的な仕上がりだったという印象だった。
一応、全共闘の熱気から取り残されたシラケた空気を感じさせる場面など、後の『青春の蹉跌』の萩原健一と桃井かほりの道行を彷彿とさせ、逃避行で辿り着いた田舎の風景で姫田真佐彦のロングショットなど「ほう」とさせるカットも散見される。
しかし全体的な作りの甘さは如何ともしがたく、思わず苦笑してしまうこところもあった。
評判の夜汽車でのセックスシーンも、その後の神代映画で観てきた濃密度からはまったく及ばすといった具合に、神代辰巳を狂信する先輩方には申し訳ないが、中途半端に神代ロマンポルノに被った世代には、神代辰巳が助走している過程の映画という資料的価値しか見出すことは出来なかった。
それでも絵沢萌子が全編で口ずさむ春歌の情感など、その助走ぶりは悪くない。感銘もなく面白くもなかったが、誰が見ても神代辰巳のリズムであることは納得できるのではないか。
何よりもこの映画の次に撮ることになったのは日本映画の金字塔ともいえる『一条ゆかり・濡れた欲情』なのだから。 
 
 
 
2012.9.21 渋谷ユーロスペース
 
 
 
author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 四畳半襖の裏張り しのび肌 』

 「男も女もアレしかないんよ、バンザイ」
芹明香がぶっきらぼうに叫んで、映画はぶつ切れのように幕を下ろす。
渋谷・円山町、23時 ------。
映画館の暗闇からいきなり若い奴らの嬌声がかまびすしい道玄坂へと放り出されるのが嫌で、ラブホテル街から裏道を通り抜け、京王線の神泉から道玄坂に戻って渋谷駅のターミナルに辿り着く。
太鼓持ちを目指し猥歌の練習に励む正太郎の「ででんでんでんでん」というリズムがまだ耳に残っていて、それが眩い都会の光に邪魔されずに済んだのが心地よかった。

s_kuma.jpg 1974年製作日活ロマンポルノ『四畳半襖の裏張り/しのび肌』。初めて観る。
何の気なしに渋谷駅で途中下車した段階では、まさかこの映画を観ることになるとは思ってもいなかった。
渋谷のユーロスペースの前で「今夜21時15分レイト上映」の小さな告知をよくぞ見つけたものだと思う。
監督・神代辰巳。この人の映画を最後に映画館で観たのは『恋文』以来ではないだろうか。そうなるとほぼ30年近くの邂逅となる。
いや、ここで神代辰巳を、日活ロマンポルノを懐かしむ方向へ流れ出すとキリがないので止めておくが、要はノンポリのバスケ少年を中途半端にドロップアウトした大人にさせた張本人のひとりだということはここに書き残しておきたい。

 舞台は大正末期から日中戦争が勃発する昭和初期まで。
同じ旦那を持つ染八から赤ん坊を連れ去り、関東大震災のどさくさで自分の子として育てるところから物語は始まる。
「ちょっと旦那さん、あんまりじゃありませんか・・・」と蓮っ葉に拗ねる宮下順子の台詞回しにまずゾクっとさせられる。蚊帳越しの蒲団に包まっての情交は何でもありのAVとは比較にならないスケベを感じるのは、私がおっさんになってしまったからなのか。
とにかくそのものズバリがいとも簡単に閲覧できる時代にあって、ロマンポルノの秘められたエロチシズムのなんと芳醇なことだろう。
なにより画面の随所にこれがメジャーな撮影所で生まれた劇映画である実感に満ちている。
メインタイトルのバックである桟橋のロングショットを名カメラマン・姫田真佐久が目を奪うような構図で捉えれば、昭和初期の置屋のセットや調度品など美術、小道具など、活動屋たちの丁寧な仕事には感動を覚えるぐらいだった。

 さて、正太郎と名づけられた子供は置屋の息子として育っただけに早熟。
他の芸者の布団に潜り込むが、皆「まだ子供だから」と黙認しているうちに、芸者の小ふくお腹が膨らみ、手を焼いて預けた映写技師の奥さんの腹も膨らましてしまう。
小ふくは子供を産み育てるため、花清の旦那である小宮山に水揚げしてもらうことを決意し、花清はまたも心穏やかではなくなる・・・。

 こんな展開で、中島丈博の脚本は全体的に艶笑喜劇という体裁をとっているのだが、神代辰巳は戦火が広がる不穏な時節に男と女の情欲の高まりを通して時代を炙り出していく。
そして田坂具隆監督の『土と兵隊』の戦場で泥まみれで闘う兵隊の映像を背景に、とんでもないスケベを描くという、かなり大胆な領域まで突き進んでいく。
一見するとキワモノとも、崇高な反戦映画とも思えてくるが、戦場を駆け巡ろうがなんだろうが、結局、男と女のスケベで人間は成り立っているのだという神代テーゼがすべてご託を凌駕してしまっている気さえしてくる。
確かに性描写自体は何でもありの今とは比べるべくもないが、おそらくセックスの大らかさを戦争と対比して相対化してしまう手法は現在では許容されないのではないだろうか。
自分の実感からも確実に70年代は今より遥かに自由だった。

 ついでにいってしまえば、私が原田芳雄の遺作となった坂本順治『大鹿村騒動記』を全然評価していないのは、土着の「生」や「祭り」をテーマにしながら、「性」をまったく描けなかった点にある。
 
 
 
2012.9.10 渋谷ユーロスペース


author:ZAto, category:映画, 23:28
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 あなたへ 』

 高倉健6年ぶりの主演最新作。
十代の頃からずっと健サンを観続けてきた身として、“ 高倉健80歳 ” という現実にまず打ちのめされてしまう。さらに今の私が 『 居酒屋兆治 』の頃の健サンと同じ歳で、あの映画が30年も前の映画なのか思うともう眩暈がしてきそうだ

{

 思えば、当時の健サンの新作と名画座で仁侠映画を同時に味わいながら、フィルモグラフィを縦断する形で、「高倉健」が年代や年齢を超えて私の中で存在し続けた事実があり、それゆえに80歳という健サンの実齢を容易には受け入れ難いものがあった。
しかし健サンは主役しかやらない(できない)大スターであり、いわゆる健サンのブランドは「高倉健映画」というジャンルにまで昇華してしまっているので、そのつどの年齢に応じた健サンの変遷を辿ることは根本的に無意味なのではないかとも思うのだ。
おそらく80歳の健サンでも『 居酒屋兆治 』 は可能だし、50代の頃でも 『 あなたへ 』 は十分に成立する話なのだろう。
 
 富山刑務所の指導技官・倉島英二のもとに、妻が遺した絵手紙が届く。
そこには「故郷の海を訪れ、散骨して欲しい」との想いが記されていた。
妻の故郷を目指すなかで出会う多くの人々。彼らと心を通わせ、彼らの家族や夫婦の悩みや思いに触れていくうちに蘇る亡き妻との何気ない日常の記憶の数々。
様々な想いを胸に目的の地に辿り着いた英二は、遺言に従い平戸の海に散骨する。
そのとき、彼に届いた妻の本当の想いとは……。

 そもそもこの映画は、亡き妻の遺言を果たすため、長崎までキャンピングカーで旅に出る80歳の老人という話にはなっていない。
劇中の誰もが「倉島さん」とよび、決して「おじいちゃん」とは呼ばない。
いかめし販売員の草剛に実演販売までも手伝わされる羽目になる場面も、決して若者にこき使われる老人という絵にはならないし、台風の夜にキャンピングカーで寝泊りするのを客間に誘う余貴美子や綾瀬はるかも80歳のご老体を労わるという場面にはなっていない。
比較しても意味のないことだが 矢口史靖監督の 『 ロボジー 』で老人を演じた五十嵐新次郎(ミッキー・カーチス)よりも健サンは6つも上なのだ。
そもそも刑務官の定年退職が60歳で、嘱託で再雇用されるのもせいぜい5年ほどだと考えると、『 あなたへ 』への倉島の設定年齢は80歳であるわけがない。
つまりは80歳の健サンがどんな形でリアルな主役を演じるのかという期待は見事に裏切られたといってもいい。
なにせ「さよなら」の意味に「これからは自分の時間を生きよう」というメッセージが込められていたという決着なのだから。

 旅があって、過去の出来事がフラッシュバックで現れる。
もう何度も観てきた高倉健映画だ。
主人公に絡んでくる登場人物たちが、何らかの事情や過去を抱えていて、それらを総花的に見せることで「あれも人生、これも人生」の人間模様が形成され、その中心に眉間に皺を寄せた健サンが存在する。
いつもの降旗康男による、いつもの高倉健映画の域から一歩たりとも出ようとしないのは少し頑な過ぎるのではないかと思った。
本当に亡き妻の配役が娘ほどの田中裕子で良かったのだろうか。倍賞千恵子、いしだあゆみ、加藤登紀子・・・みんな歌は上手いのだが。

 しかし考えてみると、等身大の80歳の心境を演じる健サンの姿を本当に観たかったのかといえばどうなのだろう。
シルエットはとても80には見えなかったものの、アップになると往時を知る者として枯れたなという印象は否めない。
いや、80歳の老人なのだから枯れるのは当たり前で、111分の上映時間の中で健サンが出ていない芝居が殆どないくらい、ずっと出ずっぱりで、それで最後まで画面を持たせてしまうことこそが素晴らしいことだとファンなら思うべきなのか。
そう、若干の不満を抱えつつも、健サンが健サンであったことに安心していた自分もいたのだった。

 それにしても、これから先も健サンは高倉健を通していくつもりなのか。
美学を貫いて今回でお終いなどということはないだろうか。
希望としては降旗康男が監督でも構わないので、クリント・イーストウッドが 『グラン・トリノ』 で見せたような決着を、ぜひ健サンにもつけてもらいたいと思っているのだが。



2012.8.25 TOHOシネマズ上大岡


author:ZAto, category:映画, 22:37
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 ザッツ・エンタテインメント 』 〜午前十時の映画祭 Series2

ザッツ・エンタテインメント MGMミュージカル200作品から75作品の名場面だけを厳選、フランク・シナトラ、ジーン・ケリー、ミッキー・ルーニー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー、エリザベス・テイラー、ジェームズ・スチュアートら11人の大スターのナレーションによって、総勢125人の至芸が紹介されていく。

 さて、震災での上映延期などアクシデントに見舞われて、去年の夏以来途切れてしまった感のある『午前十時の映画祭』。
実はまだ100本完遂の意志は折れていない。
少なくともスケジュール的には完遂の余地は残している。
みゆき座で夜の上映もあるので、しばらくは日比谷に足を延ばすことになるだろう。
その日比谷について4/24付けの「日めくり」で以下のことを書いているので引用してみる。

   もう考えるのも億劫なくらい、本当に久々に日比谷の映画街で映画を観た。
   少なくとも仕事帰りに日比谷に寄るなど二十数年ぶりのことではあるまいか。
   『ザッツ・エンタティメント』は往年のMGMミュージカルを蘇らせるのだが、
   この映画そのものも公開されて、そろそろ40年近くが過ぎる。
   フレッド・アステアとエレノア・パウエルのタップシーンは今見ても十分に凄く、
   そしてジーン・ケリー、ジュディ・ガーランド、フランク・シナトラが躍動する。
   彼らのリアルタイムを日比谷の街は当然知っていると思うのだが、
   有楽座もスカラ座もみゆき座も名前だけを残し、
   すっかりと様変わりしてしまった。
   彼らのリアルタイムを日比谷の街は当然知っていると思うのだが、
   何故、久々に訪れる街は昔の面影を留めてくれていないのだろう。

 『ザッツ・エンタティメント』は松竹系のピカデリーでの封切りだったので、
この東宝王国ともいうべき日比谷では上映されなかったのだろうが、
MGM全盛の時代はどうだったのだろう。
少なくとも今も昔も日比谷は東京宝塚劇場、日生劇場も擁するショービジネスの中心地であることには間違いなく、ここで『ザッツ・エンタティメント』を観ることにはある種の感慨がある。
もちろん、かつて独立していた超大作の有楽座、文芸作品のスカラ座、女性映画のみゆき座がシネコン化してしまった「時代」というものを噛みしめてのことなのだが・・・。

 このアンソロジー映画が製作されたのが1974年で、日本公開は1975年。
封切られたときの反響はよく憶えている。
とくに『雨に唄えば』のジーン・ケリーや『水着の女王』のエスター・ウィリアムスの演技は繰り返しTVスポットで放映されて、「うわ、すごいな」とは思っていた。
結局、未見のままになってしまったのは、最大の見せ場をスポットで観てしまったことで、すでに観たような気になってしまったことと、MGMミュージカルへの回顧への興味がまだ中学生では熟成に至っていなかったということだろう。
結局、『雨に唄えば』 『イースター☆パレード』 『バンドワゴン』 『踊る海賊』をリバイバルで観たのは成人になってからで、今更、こんな話をしても仕方ないのだが、中学生の分際でもあの当時に観ておけば良かったと思っている。 

 冒頭から、様々なシーンで歌い継がれてきた“Singin' in the Rain”が紹介され、1929年の『ブロードウェイ・メロディ』がMGMミュージカルの幕を開ける。
改めて『雨に唄えば』という映画を作ったジーン・ケリーの熱い思いには感動してしまうのだが、1936年製作の『巨星ジークフィールド』の信じられないような豪華なセットを見ると、改めてハリウッドの、いやアメリカの国力に打ちのめされてしまう。
ありきたりな言い方だが、アメリカを相手に戦争を仕掛けた(仕掛けられた?)我が国の政治家、軍部が途方もない暴挙だったのだ。
 そして “タップの女王” エレノア・パウエルがアクロバチックなダンスを披露する『ロザリー』を見せておいて、彼女がフレッド・アステアとコラボする 『踊るニューヨーク』へと繋げる編集の巧みさ。
エレノアとアステアのタップダンスの場面を観ていると、中学の時に『雨に唄えば』と『水着の女王』が最大の見せ場などと決めつけていたことが、今さらながら恥ずかしくなってしまうではないか。

 MGMの全盛を語るナビゲーターとして登場する老境のスターたち。
フランク・シナトラ、ジーン・ケリー、ミッキー・ルーニー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー、エリザベス・テイラー、ジェームズ・スチュアート、ドナルド・オコナー・・・。
彼らは故人となっていたクラーク・ゲーブル、ジュディ・ガーランドたちを語っていくのだが、その背景には朽ちかけて今にも取り壊されつつあるスタジオがあり、次々と紹介される煌びやかなフィルモ・グラフィとのギャップはそれだけで栄枯盛衰の感慨を誘う。
彼らが、1974年現在から1930年代〜1950年代にかけてのMGMの栄光を語りながら、過ぎ去りし金字塔を懐かしむ以上に、『ザッツ・エンタティメント』の製作から時間は流れ、想い出を語るスターたちもライザ・ミネリを除く殆どが既にこの世を去っている。
そして『ザッツ・エンタティメント』を郷愁を以って喝采の拍手で迎えたであろう観客の多くも、鬼籍に入ったことだろう。

 そう思うとこの映画は人生そのものではないかという気がしてくる。



2012.4.24 TOHOシネマズみゆき座



author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 ドラゴン・タトゥーの女』
 
 スティーグ・ラーソンの原作『ミレニアム』は、現在三部作目を絶賛読書中だ。
先に本国のスウェーデンでは映画化済みということで、本作はデビット・フィンチャーによるハリウッドリメイク版ということになっている。
実は細かいカットを矢継ぎ早に繋いだ予告編を観たときに、へんてこりんなアレンジの「移民の歌」が流れているのを聴いて一抹の危惧は抱いていた。
何というか、Zepのスピリットをガチャガャに混ぜたようなサウンドがこのハリウッド版のキワモノ感を象徴しているような気がしていたのだ。
ドラゴン・タトゥーの女 ミカエル・ブルムクヴィストにダニエル・クレイブ、リスベット・サランデルにルーニー・マーラーという配役。
原作のイメージからするとダニエル・クレイブのミカエルはない。
私は原作を読んでいてミカエルのイメージは(年代は違うが)ずっとマイケル・ジェイストンのイメージだった。
本来のミカエルはピュアだがジャーナリストとして熱い正義感を持つ明るいキャラクターであり、ダニエル・クレイブにはその間逆のイメージがある。
もちろん映画は必ず原作小説を忠実に踏襲する必要はないし、加賀恭一郎=阿部寛とは違って、私が現在進行形で読んでいる『ミレニアム』のミカエルにダニエル・クレイブの面影をちらつかせてしまうこともない。
もともと映画は映画としての世界観をしっかりと持つべきであるというのが持論だ。
原作のミカエルとリスベットの取り合わせは文系と理系のアンバランスさが妙な雰囲気を醸し出しているのだが、映画はストレートにダニエル・クレイグのクールな佇まいとエキセントリックなリスベットを対比させて静と動のコントラストを演出する。
その狙いもわからないではない。従ってダニエル・クレイブの起用もありだとはともいえる。
もちろん「ミレニアム」編集室の作りも編集長のエリカもイメージとは程遠いし、リスベットをレイプする破廉恥な弁護士はあんなデブとは違う。
ミカエルが絶体絶命の危機に陥る拷問部屋のイメージはもっと暗かったはずだし、ましてリスベットの上司、アルマンスキー社長は恰幅のいい禿げ頭でなければならず、『ER』のDr.コバチが出てきたときにはズッコケたりと、そんなことを気にしていてはキリがない。
こんな具合になまじ原作から映像を作ってしまうと映画とのギャップが気になってしまうもので、本来なら映画を観るときはきっぱりと原作を忘れて臨むのが正しいのだろう。

 しかし私が本当に危惧したのは、果たしてデビッド・フィンチャーの資質が長編の原作ものにきちんとアジャスト出来るものかどうかにあった。
実際、文庫本レベルで1000ページ超の原作を158分の尺でまとめるのは難しい。
下手をするとストーリーだけを追いかけたダイジェスト版みたいな映画になりかねず、MTV出身のデビッド・フィンチャーだとスピード感を信条とするあまり、そういう拙速極まる絵にしてしまう恐れも十分にあった。
そんな悪い予感は当たってしまったということだろうか。
『ベンジャミン・バトン』は見逃しているが、ここには『セブン』の革新も、『ファイトクラブ』の創造も、『ソーシャルネットワーク』の独善もなく、『ドラゴン・タトゥーの女』は妙に匂いのない映画に仕上がってしまっている。
結果的には原作の大きな魅力であったジャーナリズムの高貴な精神性と、スウェーデンへの土着と負の歴史のパートをすっぽりと飛ばし(ついでにオーストラリアへのロケも止めて)、ミステリーの部分だけをかろうじて完結させたような映画になってしまった。
 しかし『ドラゴン・タトゥーの女』そのものが二部、三部への伏線として、キャラクターの紹介に徹したとすればこういう作り方も納得できないではない。
これからリスベット・サランドラを全面に押す映画にするつもりならば、ルーニー・マーラーの出だしは悪くないと思った。
 
 余談だが、エンドクレジットで分かったのだが、ミカエルに事件を依頼するヘンリック・ヴァンデル老人をクリストファー・プラマーが演じていたことには驚いた。いわずと知れた『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐ではないか。
映画館から離れていると思わぬ人と出会って面食らうことがしばしばあるものだ。



2012.2.25 109シネマズグランベリーモール




author:ZAto, category:映画, 01:13
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 麒麟の翼』

麒麟の翼.jpg 被害者は腹部を刺されたまま8分間も歩き続けた後に、日本橋の翼のある麒麟像の下で力尽きていた。なぜ、誰の助けも求めず、彼は一体どこへ向かおうとしていたのか。一方、事件の容疑者、八島冬樹は現場から逃亡しようとしたところを車に轢かれて意識不明の重体だった。報せを聞いた八島の恋人、中原香織は、彼の無実を訴えるが・・・。

スクリーンの大きさを掴みきれていないテレビスタッフにありがちな平板な映像。電気的に思えるのは、35mのプリントではないからだろう。
日本の映画会社が映画を撮ることはなく、テレビ局が制作した映画を全国の映画館に配給するのが仕事になって久しい。ポスタータイトルは『麒麟の翼〜劇場版・新参者〜』だが、メインタイトルは『麒麟の翼』。
今や主流となっているテレビシリーズの劇場版で、制作はTBS。映画興行でトントンの成績であれば、後は劇場公開作品の箔付けで放映時にたっぷりと儲けられるという仕組みなのか。
映画会社にとってテレビ局は重要なスポンサーなのだからあまり文句をいってはいけないのだが、それでも以前はテレビ局が出資する映画でもきちんと映画監督が撮っていた。それだけ撮影所にはテレビディレクターにおいそれと足を踏み込ませない結界が敷かれていた。結局、この風潮はデジタル時代を迎え、誰でも映画が撮れる時代となり、昔の撮影所システムが消滅したという証左なのだろう。
・・・それにしてもスクリーンを見つめながら放映時にはここでコマーシャルが入るというタイミングまで見えてしまうのは如何なものかと思うのだが。

 
 それでも無難にエンディングまで観ていられたのは、骨子のしっかりとした原作を得て、ストリーが澱みなく流れていたことと、阿部寛という大画面に耐えうるだけの絵面をもった俳優の力なのだろうと思う。
阿部寛といえば、日本人離れした体躯と甘いマスクで本人曰く「フェラーリで乗り付けるだけの二枚目」から完全に脱皮して、今や日本の演技陣を牽引するほどの活躍を見せているが、その転機となったとされるつかこうへいの舞台『熱海殺人事件/モンテカルロイリュージョン』を昔、パルコ劇場で観たとき、いくらなんでもあんな木村伝兵衛はないだろうと思いながらも、つかこうへいに徹底的に鍛えられ、必死に殻を破ろうとする阿部寛のドキュメンタリーに触れたような鮮烈な感銘を覚えたものだった。
この『麒麟の翼』での加賀恭一郎という刑事役に阿部寛自身がどれだけの手応えを感じているのかはわからないが、上手く映画のトーンに溶け込んでいたことに感心する。喜怒哀楽の少ない役柄で完全無欠の主役というのは想像以上に難しい仕事だったのではないだろうか。これで加賀恭一郎といえば阿部寛というイメージは完全に出来上がってしまった。

 原作はいわずと知れた東野圭吾。加賀恭一郎ものは『新参者』しか読んでおらず、『麒麟の翼』は文庫待ちの状態ではあったのだが、原作を読まずしても東野圭吾のプロットの作り方巧みさは十分に窺うことができる。
日本橋という江戸時代からの中心地でありながら(だからこそか)大都会と古くからの下町情緒が混在する街並みの空気感に、その地ならではの現象と人間模様を巧みに取り入れた物語作りの上手さはさすがといったところだ。
私は東野圭吾の本を読むたびに感心するのは、物や人から浮かび上がるあらゆる要素を物語にしてしまう発想力にある。
この物語でいえば日本橋に翼の生えた麒麟の像があり、周辺には七福神の寺があり、とくに水天宮は安産と水難除けの神様として有名であるという要素が紡ぎ出され、それを組み合わせて感動のミステリーに仕立ててしまう発想は見事だとしかいいようがない。

 監督の土井裕泰はTBSのエースディレクターとのことだが、映画としてのクオリティにはやや欠けたとしても、「原作に忠実に作られていることに感動した」という東野圭吾のコメントにあるように、監督なりの新解釈を盛り込んでやろうなどと妙なヤマっ気を起こさず、原作の流れに任せたのは正解だったのだろう。
どうでもいいような場面に顔の売れている俳優を起用するなど、テレビ局が作った劇場映画らしい悪癖は垣間見えるものの、おそらくテレビ放映時にはもっと完成度があがって見えるに違いない。



2012.1.30 TOHOシネマズ渋谷


author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 J・エドガー』
 
J・エドガー
 レオナルド・ディカプリオが主人公の20代から77歳までを演じ、話題となったクリント・イーストウッド監督作品で、相変わらずスクリーンを見つめる観客たちの息遣いを見計らうように、カットを積み重ねていく手腕はお見事。
しかし『ミリオン・ダラー・ベイビー』や『父親たちの星条旗』、そして何といっても『グラン・トリノ』で観客を魅了してきた近々の諸作品と比べると、やや違和感を覚えてしまったことを白状しなければならない。

 48年間で8人の大統領に仕えたFBI長官のジョン・エドガー・フーバーは、人生の終盤に差し掛かり、部下に命じて回顧録を書き取らせるのだったが・・・。

 当然、イーストウッドのことなので、ジョン・エドガー・フーバーの回顧に合せて画面を作っていくような安易な手法はとっていない。
記憶はFBI誕生以前へと遡り、彼の表向きの経歴が語られるとともに、その裏側の野望、企み、葛藤、苦悩が次第に明らかにされていくといった具合に、時にはフーバーの回顧を裏切るような映像を展開させていく。
決してFBI長官のジョン・E・フーバーの伝記に縛られるのではなく、あくまでもJ・エドガーとして映画は自在に謎多き人物像を突き詰めているのだが、そこで合衆国の近代史を彼の人生を借りて浮かび上がらせようとしたのであれば、それは意図したほどは巧くはいっていなかったと思う。

 ひとつはイーストウッドが巨匠すぎることにあり、大人すぎることにある。
せっかく特殊メイクを駆使してディカプリオが熱演をしているのだから、この題材はもっとポップに跳ねさせてもよかったのではないか。
共産主義を口汚く罵倒し、デリンジャーは俺が仕留めたのだと虚勢を張り、キング牧師を罠にかけようとした男の危うさや狡猾さをもっと前面に出すべきで、引いたところから冷静に人物をフォーカスするのではなく、ディカプリオの完全スター映画になるのも厭わずに、もっと寄って、もっとエキセントリックな映画にすべきだったと思うのだ。
ディカプリオもナオミ・ワッツもかなり頑張っていたのだが、結局はイーストウッドの冷徹な演出の中にスポイルされてしまっている。それが今回の映画に限っては残念だった。
イーストウッドはインタビューで「完璧なエドガー像は、観客の解釈が加わって完成するものだ。同じ絵画を見ても解釈が人によって違うように。観客はこの映画からそれぞれ自分なりの完璧な結論を見い出してくれるはずだ。私は答えを出すのではなく、疑問を投げかける映画が好きだ。」と語っている。
その演出論は裏目に出たのではないかという気がしてならない。

 そして、それ以前の問題として日本の観客にとってジョン・エドガー・フーバーなる人物に殆ど馴染みがないことも恨めしい。
彼の自宅に飾られた無数の甲冑や日本刀。最愛の母を亡くし、強さを象徴する武器に精神的に守られようとしていた心情は痛々しいくらいで、マザコンであり、ホモセクシャルな側面もしっかりと描いているのだが、アイゼンハワー、デリンジャー、ジョージとロバートのケネディ、リンドバーグ、キング牧師、ニクソンと主人公の周辺の賑やかさから、この人物の存在感や影響力を想像していかなければならない作業がなんとももどかしかった。



2012.1.29 TOHOシネマズ海老名




author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 ヒミズ 』

 観終った後、席を立つのが妙に億劫で、掌を見れば汗でぐっしょりになっていた。
久々にこんな映画体験をした。
すでに監督の園子温(その・しおん)の評価はすでに固まっているようだが、何分、すっかりと映画オンチと化してしまった私は初めて園子温作品に触れることとなった。
「 “ヒミズ”とは、トガリネズミ目モグラ科に分類される哺乳類。夜になると地上を徘徊することもあるが、日光が照る所には出てこない。“日見ず”という和名もここに由来する」
Wikipediaのヒミズの説明から連想されるものは、ストレートに日陰のイメージだ。
確かに明るい映画ではない。行き場のない絶望を描いてもいる。
しかしこの『ヒミズ』という映画。単なる日陰者たちの日常を陰々と綴ったものではなかった。
絶望を突き抜けたところから訪れる光を力強く模索した映画となっている。

ヒミズ

 まず冒頭から震災によって壊滅した東北の実景から始まる。
荒涼とした瓦礫の山の中でヴィヨンの詩を朗読する少女。
そこに少年が現れ、自らのこめかみに拳銃をあてる。
実際、津波による被災地の光景の中で展開されるそれらの場面に「不謹慎ではないか」と異を唱える人もいるだろう。
私も少年や少女の心象を瓦礫の中に投影するのは少し違うのではないかと感じていた。
しかし、では2011年の絶望を描こうとしたときに3.11を避けて通っていいのかといえば、それはあり得ないとも思う。
もともと映画は世の中のあらゆる公序良俗の対極にあるものだ。
映画が本来内包していた毒みたいなものを園子温という監督が呼び覚ましたのであれば、それを受け入れて消化するのも観客の選択肢のひとつではある。
そもそも津波に呑まれた瓦礫の風景というものを我々はニュースでずっと見てきたわけで、それをドキュメンタリーならば許されるものがフィクションはけしからんという理屈などあるはずもなく、そこに斬り込むことも映画の使命の内なのかもしれない。
この光景は今しか撮れないし、これをセットで再現しても意味はない。
ましてニュース映像でお茶を濁すのではなく、実際に現地にロケし、そこに俳優を立たせて芝居をされることに意味があるのだろう。
おそらく深作欣二や今村昌平が存命なら、彼らもカメラを回すことを厭わない。

 主人公は中学生の同級生・住田祐一と茶沢景子。
ごく普通に生きることを願っていた祐一は、震災で財産を失った夜野さんや田村さんたちを実家の敷地に住まわせ、愛する人と守り守られ生きていくことを夢見る景子は、祐一に疎まれながら彼との距離を縮めていく。
ところがある日、借金で蒸発していた祐一の父が金をせびりに舞い戻ってきて、祐一を殴りつけ、母親も中年男と駆け落ちしてしまう。

普通の日常を求めたい祐一の気持ちは痛いほどわかる。しかしこの状況で祐一が普通の日常を送ることがいかに現実的ではないのかもよくわかってしまう。
父親は祐一に繰り返しいう言葉は「俺はなぁ、ずっとお前のことがいらなかったんだよ」。
祐一も景子もそれぞれの親が望んでいたことは「死んでほしい」ということ。
それを15歳の二人が普通に受け止める姿は悲惨であり、哀しい。
ストーリーは更に暗転して父親殺しに発展していく。
『青春の殺人者』での水谷豊の父親殺しにはギラギラする青春の迸りがあったものだが、『ヒミズ』はひたすら暗くモノトーンな闇に包みこまれているようなイメージだった。

 震災に見舞われた生徒たちを前に教師が「がんばれ」を連呼する。
なぜ頑張らなければならないのか理解できない祐一。普通じゃだめなのかと。
教師のいう「がんばれ」はある種の軽薄さを伴ってひどく空疎に聞こえる。
3.11以降、日本中のあちらこちらから響いた「がんばれ!」「がんばろう!」の大合唱は、醒めた耳には聞くに耐えないものだったのかもしれない。
確かに「がんばれ」の形骸化は私も感じないこともなかった。
しかし形骸化された「がんばれ」に腹を立てるほど私もガキではなく、たとえうわべの美辞麗句としての「がんばれ」であっても、3.11に際して「がんばれ」という言葉の役割りは一応機能していたと思っている。
しかし園子温はうわべの「がんばれ」を否定し、『ヒミズ』を観る者すべてが形骸から突き抜けた本当の「がんばれ」に呼応するように仕向けることに執心する。
少年をどん底に突き落としながら、そのどん底の先にあるものを見ようとした。
15歳同士の純愛物語が突き抜けた「がんばれ」には心が締め付けられる思いだ。
もし入れ替え制のシネコンでなければ、一日中、映画館にいたかった気もする。

 それにしても暴力が全編を覆う。先日見た『スマグラー』も随分と人が殴られる映画だったが、『ヒミズ』にはカリカチュアライズされていない暴力が蠢いている。
こういう絵が撮れる人は絶対に胸中に暴力を内向させているのだと思う。
この園子温という映画作家はどんな若手かと思っていたら、驚いたことに何と私と同じ生まれ年だった。
そうなると今まで生きてきた中で、刺激を受けたもの、唾棄して捨て去ったものに多少の共通項はあるのかもしれない。いや、あるに違いない。
そのひとつにはあの享楽と喧騒だけの80年代に20代を過ごしてしまったことへの世代的な憤りがあるのではないか。
あの年代に対する怨差なくして、50歳になったとき『ヒミズ』が撮れるとはとても思えない。



2012.1.22 TOHOシネマズ海老名


author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 ロボジー 』
 
 弱小家電メーカーの窓際三人の技術者が新型ロボットの開発に失敗し、その場しのぎで中に老人を入れてロボット博に出場したことから巻き起こるコメディ。
もし監督・脚本が矢口史靖でなかったらまず観ないだろうという内容ではある。

 新作の『ロボジー』で目指したものは「工学系コメディ」か。
相変わらずの矢口節とでもいうのか、どこか箍(たが)が外れた独特のユーモア感覚で楽しい映画に仕立てたとは思う。
しかし私が前作の『ハッピーフライト』のレヴューで「そろそろトリビアとは違う矢口のアプローチも観てみたいものではある」と書いた無いものねだりは今度も叶えられなかったようだ。
矢口はこの映画を撮るにあたり「人がひと皮剥くと中はロボットだったという映画はよくあるので、ロボットがひと皮剥いたら人が入ってたという方が良いんじゃないかと、今回の映画が思いついた」と語っている。
ロボジー
 確かに矢口史靖は「怒り」や「悲しみ」といった自身の情動をフィルムに燃焼させるタイプの映画監督ではない。次回作を企画するときも「恋愛の深淵を描く」ことや「青春の焦燥を描く」という発想ではなく「次はどの業界を描こうか」「まだ映画が取り上げていない隙間があるのではないか」といった題材探しに腐心するのだと思う。
あるいは『ウォーターボーイズ』からフジテレビのバックアップがつき、よりコマーシャリズムの先端へと突き進むことに自らの監督人生を確立しようとしているのかもしれない。
まあそれはそれでいいのかもしれない。見つけた題材をいかに面白くエンターティメントに昇華させてヒット作を作っていく才能も十分に個性の内なのだから。

 しかし語り口の上手さは相変わらず冴えている。
偏屈な老人に翻弄される三人組と、ロボットおたくの快活な女子大生に翻弄される三人組。
結局、常にエキセントリックなキャラクターの扇の要には彼ら三人組がいることになる。
すぐに状況に流される彼らは、良くいえばほっこりとさせて微笑ましいが、悪くいえばかなり優柔不断でじれったい。
思うに、実際、弱小電器メーカーの窓際エンジニアは概ねこんな感じなのだろう。
見方によっては彼ら三人の成長物語にもなっているが、それが押し付けがましくなく、木村電“機”ではなく木村電“器”という名称がいかにも白モノ家電を扱っているメーカーらしく、ロボットに名づけられた「ニュー潮風」という名前も洗濯機かエアコンの商品名に相応しい。
鈴木老人が家族や老人会で疎まれながら思いっ切り偏屈出来るのも、葉子が“製作者”の影を気にしないでニュー潮風に恋してしまうのも、彼ら三人組の存在感の薄さの賜物だろう。
でも濱田岳もチャン河合も川島潤哉も脇役ではない。間違いなく主役だった。
こういう引っ込んだ存在感を邪魔にならない程度に前面に押し出す術を矢口は心得ている。

 おかげで鈴木老人を演じた五十嵐信次郎と、葉子を演じた吉高百里子はキャラクターが立ちまくる。
意外だったのは矢口の書いた脚本はこの二人をあて書きしたものだと思っていたのが、五十嵐信次郎も吉高百里子もオーディションで選出したのだという。
決してミッキー・カーチスを五十嵐信次郎としてキャスティングするというアイデアありきの企画ではなかったようだ。
考えるまでもなく鈴木老人はロボットの中に入ることで名声を勝ち得たわけではない。
老人会で自慢したくても周囲の苦笑を買うのみだ。
しかしニュー潮風として孫たちと撮った記念写真が人生最後の宝物となる。
正体を明かしたい欲求を抑えたのは正しい大人の判断で、なかなかいい場面になった。
そのニュー潮風に疑問を抱いた葉子が、木村電器の面々の足取りを追跡する場面。
吉高百里子という女優のテンションの高さが画面一杯に駆けめぐる。
あの『ひみつの花園』のヒロイン・西田尚美の守銭奴まっしぐらのテンションを思い出す矢口ファンも少なからずいたことだろう。

 矢口史靖の作品発表のペースを思うと、次回作は2〜4年後になるのか。
次は一体何を狙っているのか興味は尽きない。
しかし、また話を戻してしまうようだが、これだけ語り口の上手い映画作家なのだから意趣返しにシリアスな犯罪ドラマを一発かまして矢口ファンを唖然とさせるというのはどうだろうか。




2012.1.16 TOHOシネマズ渋谷


author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
映画 『 ニューイヤーズ・イブ 』
 
 一昨年から「午前十時の映画祭」に足しげく通った甲斐あって、鑑賞マイレージが6000ポイントを超えたので一ヶ月間有効のパスポートと交換した。
これで晴れてTOHOシネマズのチェーン館での上映作品は1月30日まで見放題。
と思いきや、結局は年末年始の休みには一本も映画を観ることはなかった。
これは私にとってはかなり異常事態だ。何せタダで映画が見放題なのに・・・。
別に忙しかったわけではないし、家にこもりたかったわけでもない。
期待しなかった映画ほど面白かったときの喜びを他の誰よりも知っているつもりだし、観る前からつまらない映画など世の中にはないのだということもわかっている。
しかし、いざ出掛けようと思っても一向に足が映画館へと向かない。
一体、どうしたらいいのだろうかと内心ではかなり焦っていたのだ。

ニューイヤー・イブ

いくらなんでもこの三連休で一本も観ないわけにはいかない。三谷幸喜の監督作品が昨秋からロングランとなっているので、それにしようとようやく重い腰を上げたのだが、今度はカウンターでまごついてしまっているうちに上映が始まってしまう。
仕方なく開映時間が近かった『ニューイヤーズ・イブ』とカウンターに告げて入場券と交換した。
だからこの映画についての予備知識はゼロ。キャストも監督も知らないままに座席に着いたという次第だった。

 結果的にはその予備知識ゼロというのが幸いしてかなり楽しめた。
オープニングにスタッフ&キャストのクレジットが出て来ない趣向は、賑やかな顔ぶれが画面に出て来るたびに「おおっ」と笑いを誘われる。
ヒラリー・スワンク、ミシェル・ファイファー、ハル・ベリー、ロバート・デ・ニーロ、ジョン・ヴォン・ジョビ、サラ・ジェシカ・パーカーなど出るわ出るわでかなり贅沢な気分にさせられる。

 監督はゲイリー・マーシャル。もちろん『プリティ・ウーマン』が代表作だが、私は学生時代にこの監督のデビュー作『病院狂時代』というB級コメディを観ている。
あれは新宿で飲んでいて終電がなくなり、歌舞伎町の映画館で始発まで過ごしたときに上映されていた映画だった。
30年のスパンでこの監督の映画はわりといい加減な気分で観てしまったようだが、肩の力を抜いてリラックスして観るのにはもってこいの映画を撮る人のようだ。

 2010年の大晦日のニューヨーク。ニューイヤーのカウントダウンイベントのため、タイムズスクエアに集まる人々。
一年前に出会った女性が忘れられない男。高校生の死期が迫った老人と看護師の交流。エレベーターの故障で二人きりで閉じ込められた若い男女。偶然再会した元カップルなど8組の男女の姿を描く群像劇となっている。
こういう群像劇はロバート・アルトマンやクエンティン・タランティーノの諸作を取りあげるまでもなく、伝統的なグランドホテル形式のシチュエーションドラマはハリウッドのお家芸ではあるし、今や海外ドラマなどでもすっかりお馴染みの手法ではある。
複数の人間のそれぞれが背負うエピソードをザッピングのように見せて、次第にパズルのピースを合わせていく。最後にどれだけ綺麗に完成させていくのかがキモとなる。
最後の着地点がカウントダウンに湧くタイムズスクエアという絵に描いたような舞台であり、これだけの芸達者が揃っているのだから、それ相応の出来になることは約束されていたのかもしれない。

 しかし敢えて難癖をつけるとすれば、8つのエピソードを同じ方向に向けて走らせるのだから、どうしてもひとつひとつのエピソードは薄味にならざるを得ないこと。
エレベーターに閉じ込められたカップルの話など、ハプニングはハプニングとして、突然、恋愛感情が高まっていくようなアイディアが欲しかったし、女料理人に復縁をせまるロックスターの話も結局、なんだ二度もビンタされるヴォン・ジョビを見せたかっただけかいなとなる。
だからヒラリー・スワンクに感動的な演説をさせ、ハル・ベリーが戦地に赴任している恋人とスカイプで束の間の逢瀬をさせるなど「泣き」のスパイスを効かせたのではないかと思う。
もちろんそこはオスカー女優たちの貫録と、ここにデ・ニーロが加わったスリーショットは豪華そのもの。空気が一気に支配された瞬間があって、そこは贅沢だった。もしかしたらゲイリー・マーシャルもそれを狙っていたのかもしれない。



2012.1.9 TOHOシネマズららぽーと横浜


author:ZAto, category:映画, 02:48
comments(0), trackbacks(0), pookmark
みんなのブログポータル JUGEM