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アキバ事件のマスコミ報道について
 加藤某がターゲットにしたのがアキバの歩行者天国だったこと。
 犯行声明から犯行までの進行を携帯サイトに送信していたこと。
 投稿された「ワイドショー独占」の文字。
 そしてなにより7人という犠牲者の多さ。

「秋葉原通り魔事件」は間違いなく日本の犯罪史に残るだろう。
犠牲者と遺族の方々のことを思うと、こんな野次馬的なブログを綴るのもどうかとは思うが、どうしてもマスコミ報道のあり方に怒りを禁じえないので書いておきたい。

 翌日、出勤の仕度をしながら流し見しているワイドショーには、泣き崩れる遺族の姿。
夜討ち朝駆けのマイクが容赦なく両親や兄弟に向けられ、無数のフラッシュが焚かれる。
犠牲者のうち新社会人になったばかりの女性の写真は、急いで卒業アルバムから抜いたのであろうセーラー服の姿がテレビ画面の中で微笑んでいた。
そこに、社会学者や大学教授からそれらしくもありきたりなコメントが続く。
「格差社会が生んだ悲劇」
「バーチャルなネット社会の病理が作り出す劇場型犯罪」
確か酒鬼薔薇事件の時は「共同性の崩壊」とかいわれていたか。
要するに悲しみにくれる遺族の姿と、有識者の解釈は事件報道の必須アイテムなのだ。

 「とても優しい娘だったのにこんなことになるなんて…」
という被害者の遺族の言葉は、尊い命が一瞬のうちに奪われる運命の不条理を演出し、
視聴者に犯人への恐怖と憤りを掻きたてるのには効果的なのかもしれないが、
自分の身に降りかからなくて良かったという安堵感を潜在的に植えつけるものでもある。
左に傾いた有識者のコメントは根本的な悪を犯人ではなく現代社会に求めることで結果的に犯人を擁護しているようにも聞こえる。
ゆとり教育を推進した元官僚に至ると「ゆとり教育を受けていれば救えた」などと持論を展開する。まるで火事場泥棒みたいなものだ。
中でも紹介記事で愕然としてしまったのは「派遣制度のせい」だと言い切った反貧困ネットワークなるNGOの代表の弁。
マスコミの使命はいつの間にか「世論をすくい上げる」ことではなく「世論を誘導する」ことに傾いてしまったようだ。

 そもそも車でホコテンに突っ込み、ナイフで斬りつけた犯人は狂人であって、
人間として徹底的にダメな奴である。その前提を外して社会悪もへったくれもない。
この事件が明治初期の寒村で起こったとしたら、それは「たたり」と呼ばれのだろうが、
ある意味、狂人を鬼畜として扱うだけ、今よりマシではないかとさえ思ってしまう。


 どうしても気色悪いのが、こういう事件に際してマスコミが掲げる「正義」の姿だ。
このたびの事件では、救急隊が被害者を手当てしている最中に無数の携帯写真のシャッター音が鳴り響いていたことが報じられている。
簡単にいえば野次馬たちが写真を撮りまくっていたということなのだが、
多くの新聞、週刊誌がそこのことを取りあげて撮影した者を批判している。
「現場に無造作にレンズを向けていた彼らの姿からは、被害者の痛みに対する想像力は感じとれない。自分や家族が刺されたかもしれないという恐怖感も伝わってこない。どこか異様な風景だった。」(産経新聞)
そして、このことにも有識者のもっともらしいコメントが紹介されている。

 「ネット上のバーチャルな世界が本来の自分の姿だと錯覚するようになると、生きている重みを実感しづらくなってしまう」
 「喜怒哀楽に心を揺さぶられない人が増えてきた。自分のことでなければ心が痛まない、災難が降りかからなければいいという『傍観』の立場が許されるのが最近の風潮。その一端が今回の事件には顕著にうかがえる」

 さてどうだろう。正直、私がその現場にいたとして携帯に手を伸ばさないと言い切る自信はまったくない。少なくとも写真に撮っておきたいという葛藤はするはずだ。
当事者意識というのはまったくいい加減なもので、
仮に自分の実家が火事を起こしたとして、家屋が燃え落ちる様を野次馬が写真を撮っていたとすれば、「ぶざけるな!」とばかりに携帯を奪い取って地面に叩きつけるだろう。
そういう自分の姿は容易に想像出来る。
しかし、一方でどこかの家の火事現場に遭遇したときに野次馬に紛れて写真を撮ってしまう自分の姿も想像出来てしまうのだ。
マスコミが気色悪いと思うのは、こういう場合に「自分の実家の火事」という立場に簡単に立ててしまうことだ。
現場での通行人による無言のシャッター音を批判した「週刊現代」だったが、
その週の「フライデー」は路上に血まみれで倒れる被害者たちの写真が掲載していた。
おそらく記者が撮影者から幾らかの謝礼を出して写真を入手したのだろう。
「週刊現代」も「フライデー」もどちらも講談社だ。
上で述べた有識者のコメントを真に受けるならば、
そういう社会を作った責任の一端はマスコミにあるといっておきたい。
一方で「負傷者救護に協力した市民17人に対し、万世橋署長の感謝状を贈呈した。対象者は計69人に上る見通し」というニュースの扱いのなんと小さいことか。
センセーショナルな事件を報道する以上、センセーショナルな事象以外は排除するといわんばかりではないか。

 先月、江東区のマンションで殺害された女性がバラバラにされトイレに流された事件。
記事こそ「彼女の尊厳は何処にあるのか。遺族の悲しみは想像を絶する」と締めているのだが、電車の中吊り広告には太字で堂々と“ミンチ殺人”と表現していた。

 その表現を目にした遺族の悲しみを、私は想像することが出来ない。







author:ZAto, category:時事, 03:41
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命の値段
 中国四川省を襲った大規模な地震による死者1万人超。
 なおも数万人が生き埋めとなっていると報道されている。

 その行方不明者が無事であることを切に願うのみだが、こうした報道の常として死者の数だけが各紙が競合するようにカウントアップされていくことには不快感を禁じえない。
とくに駅売りの夕刊紙を顕著として「フジ」が新刷で死者1万人とつけると、間髪入れずに「ゲンダイ」は1万2千人とやる。
それではまるで旬を競う魚介市場の風景と変りはないではないか。
夕刊紙だけではない。今朝の三大紙、日経、産経の一面はすべて四川省の地震だったが、どこも似たようなもので他紙が死者数千人ならば、“死傷者”3万人超という表現を使いながら、とにかく大きな数をつけようとする。
被災者の数をまず表示して被害の甚大さを訴えるのは紙面の構成として当然なのだろうが、どうしても大きい数字を打つことが単に「最新」であるというアピールになっていると思えてならないのだ。

 しかし死亡者数の大小はニュースを享受する者には大きな魔力を発揮するようだ。

 忘れられないのが阪神・淡路大震災のとき。
常にテレビ画面の一角に死亡者の数がテロップ表示され、カウントアップされていく数字が次の大台に乗るのを固唾飲みながら注視することで、我々にセンセーショナリズムな興奮がなかったかというと嘘になり、あれは一種の催眠であり、最後は酩酊に近かったのではないかと思う。

 こういう災害ほど当事者はもとより、被災地に家族が居るものとそれ以外の者とでは天と地ほど止め方が違うのは当然の話だ。
しかし地震に敏感であるはずの阪神間の被災者でも、三年のスパンで起きた新潟県中越地震と新潟県中越沖地震の区別を把握している人が一体何人いるだろうか。
安政の大地震から関東大震災と、私が住む首都圏もいつ大地震が起こっても不思議ではない周期にあるが、少なくとも今、中国四川省からすれば安全地帯である。
加熱する死者数のカウント報道が安全地帯からのセンセーショナリズムであるということを我々は少し自覚するべきではないだろうか。

 さらに別の見方をすると、ミャンマーを襲ったサイクロン。死者2万2千人超、行方不明者4万人以上という大惨事だったが、果たしてこのニュースは被災そのものの報道がどこまで成されていたかが非常に疑問だった。
アウン・サン・スー・チーの名前やら軍事政権の救援物資の受け容れにシフトしてしまい、報道は恐ろしいほど命を軽く扱ってしまったのではないか。
これではまるで、中国ならまだしも、それほど馴染みのないミャンマーだから仕方ないのだといわんばかりではないか。一体、ミャンマーと中国四川省と日本からどれだけの距離が違うというのだろう。

 ニューヨークのテロなどはその典型で、9.11は誰もが知る日付となり、毎年その日には追悼の模様が報じられ、消防士たちは英霊となり映画にもなった。
しかしその報復としてのアフガンやイラクでどれくらいの犠牲者が出たのかというと私は詳しい数字を知らないままなのだ。

 おそらくアメリカ人の命とイスラムの人々の命とでは同じ民間人であっても値段が違うのだろう。
米英やイスラエルの攻撃はあくまで「戦闘」であり、イスラム側が仕掛けると「テロ」になるという区別などはほとんど洗脳に近い。
そして最も命が値踏みされるのが天災による被害であり、私自身がおそらく明日、テレビをつけたとき、最初に知ろうとするのが死亡者数なのだと思う。

 ブログにこんな青臭い駄文を綴りつつも、どうにも私自身が傍観者的センセーショナリズムの呪縛から逃れられないでいるようだ。

author:ZAto, category:時事, 01:59
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神奈川の禁煙条例について
 私は子供の頃から一度も虫歯になったことがなく、高校時代は「よい歯コンクール」の出場候補となりながら、歯科医による予備検査でタバコがバレて大目玉をくらったという経験があり(苦笑)、「衣」「食」「住」「煙草」くらいの勢いで、30数年のキャリアで喫煙を愛し続ける、45年以上も神奈川に住むヘビースモーカーであることをはじめに断っておく。

 松沢成文、神奈川県知事は神奈川新聞のインタビューで、2008年度中の制定を目指す「公共的施設禁煙条例」をいよいよ段階的に導入していくと応えている。

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  【神奈川県公共的施設禁煙条例】

 受動喫煙による健康影響を未然に防止するため、
 不特定多数の者が利用する公共的施設での喫煙
 の禁止を定め、飲食店や宿泊施設、遊技場、娯
 楽施設も規制対象に含み、喫煙者のほか、施設
 管理者も立ち入り調査などを経て、命令に従わ
 ない場合は事実の公表や罰則の対象とする。
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 最初にこのニュースを聞いたときに真っ先に浮かんだのは、県内にある行きつけのスナックのマスターだった。おそらく渋い面になったに違いないのは、「不特定多数の者が利用する公共的施設」がスナック、居酒屋の類にまで及ぶことで、彼も施設管理者として処罰の対象となるからという狭い了見の話ではなく、ハマの老舗ホテルで花形バーテンダーとして鳴らし、カウンターで紫煙をくゆらせながら美酒に酔いしれる大人に、最良の場を提供してきたプライドを頭から否定された気分になったのではないかと想像するからだ。


 30年近く前にホイットビー博士という人の『タバコは悪くない』という著書を読んだことがある。購入したのは書店ではなく渋谷の「たばこと塩の博物館」だった(笑)。
第一章のタイトルから衝撃的で「何故、タバコは健康に良いか」で始まる。
 本書は英王立医学協会の300人委員会なるものが煽動し、差別思想から十字軍運動を展開したことに禁煙運動の起源を探っているのだが、タバコの効能として「心肺機能の強化」「酸素摂取量増大」「精力増進」「学習能力の向上」「痴呆症(当時)の改善」「長寿効果」を挙げているのだから今の時代としては禁断の奇書だろう(笑)。
 ただタバコの害とされるものが統計的なものでしかなく、医学的に解明されていないばかりか、統計学的にも根拠が乏しいという主張は強く印象に残っていた。

 さすがにあの本を読んでから30年。気にはしていなかったが昨今の嫌煙風潮からして、医学的にも臨床学的にも疫学的にもタバコははっきりと有害であると確定したものだと思っていた。
 ところが『バカの壁』で有名な医学博士・養老猛司が文藝春秋で発言する。

「『肺がんの原因がたばこである』と医学的に証明されたらノーベル賞ものですよ」
「副流煙(受動喫煙)の危険性など問題外」
「低温で不完全燃焼するたばこから発生するので有害、というのに科学的根拠は無い」
「私が解剖した肺はみんな真っ黒。そもそも肺なんて黒いものなんです」
「たばこのパッケージに書かれている“喫煙はあなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます”などの文言を決めたひとりが大学の後輩だったそうで、医者仲間で集まったときに『根拠は何だ』『因果関係は立証されているのか』と彼を問い詰めたらたじたじでしたよ(笑)」(J-CASTニュース)

 要するに私が30年前に読んだ“奇書”からまったく進歩がなかったということを知る。これはどう考えても医学の怠慢なのではないか。
 驚いたことに、その養老猛司の“過激発言”に激怒した「日本禁煙学会」の抗議内容として「ならばタバコが害にならないという根拠を示せ」ときた。
 まったくこの理屈の幼稚さには失望する。
 養老氏については『バカの壁』が出る以前より前田日明などとの対談でファンになっていたため多少の贔屓の引き倒しはあるのかもしれないが、「日本禁煙学会」の言い分は反論としても最低だ。
 これとよく似た話に戦時中の慰安婦問題で「ならば軍の強制がなかったという証拠を出せ」というのがあったが、それを思い出して吹き出しそうになった。
 一体、証拠を出すことを求められているのはどちらの立場なのかということだ。

 松沢坊ちゃんが「公共的施設禁煙条例」制定の錦の御旗とする受動喫煙の害については、以前から実験段階で疑問視されていることは知っていた。
 あれは濃縮した副流煙を切除された動物の気管に噴きかけてデータ化したもので、大気中で何千、何万分も希釈されることは一切考慮されていないというシロモノだ。
 しかしそこでのデータをもとに、受動喫煙の害として「肺ガンは5倍」「喉頭ガンは50倍」「喫煙者の妻の癌死亡率は2倍」などという話になってしまう。
 要するに肝心なことはなにも解明されないまま、肺ガンから心筋梗塞、脳卒中とスケールだけは拡大していく。本丸が安普請なので、外堀だけは強固にしておこうという意図しか見えてこないのだから、はっきり医学の硬直化、思考停止ではないだろうか。
 そうなると喫煙サイドからは「ファッショだ、ナチズムだ、差別的選民思想だ」という声が挙がる。これまた30年前にホイットビー博士がいう禁煙十字軍説と大差のない、本来の加害者、被害者が無意味に逆転しているだけの話であり、未だに聞こえてくる「タバコは大気汚染のスケープボードになっている」という米英政府陰謀説も含めて、そういったもろもろを医学界が明解に蹴散らしてくれなければ困るのだ。

 私は別に喫煙者の立場から嫌煙運動を相手に闘おうなどとは思っていない。そもそもそんな度胸もない(苦笑)。
 喫煙者が肩身の狭い思いをするのは仕方がないと我慢する。他人の肺を循環して吐き出された煙に近づきたくないと考えるのは当然の話だからだ。

 だから昔ほど、非喫煙者がタバコに大らかではなくなったことも大いに自覚もしよう。
野球場のスタンドで吸えたことも、駅のホームも電車の中でも普通に煙を吐き出していたことも、ゼミの講義が終わると真っ先に廊下に出て、灰皿をてんこ盛りにしてきたことも忘れよう。
 確かに嫌煙運動には差別的な臭いも感じなくはないが、それも気がつかないフリを装うことも出来るし、大好きな彼女がタバコの臭いが苦手であるならば吸わないのも喫煙者のマナーだと肝に命じもする。
 会議の席で部屋に煙が立ち込めていても、非喫煙者がそれほど嫌な顔をしていなかった記憶もこの際だから削除するとしようか。

 もう、そういう時代なのだ。
 例の『ちりとてちん』は名作ドラマだが、ドラマの中に喫煙者は見つからなかった。
「寝床」なんてもっと煙っていた方がリアルだったし、師匠は酒に溺れても絶対にタバコには手を出さなかった。小梅さんなんて粋に煙管でも操れば絵になると思ったし、故郷の小浜に戻った傷心のA子がタバコのひとつもくわえれば、東京での生活を彷彿とさせて、もっと胸が痛くなっただろうとは思う。そのあたりは残念でならないが、タバコなんか吸った日には「子供も観ているのでやめてください」なんて抗議がNHKに届くのだろう。
 もう、そういう時代なのだから仕方がない。

 しかし、そこに酒があって、大人同士がいっときの憩いに耽る場所くらいはそっとしておいてもらいたい。酒の席で相手がタバコを我慢してイライラされたら非喫煙者も楽しくはなかろう。
 松沢坊ちゃんがスタンドプレイヤーであることは重々承知しているが、カッコつけのために善良な県民から条例違反者を量産するようなことは止めてもらいたい。
 マニフェストに挙げて当選したことを「有権者への責任」などといってくれるな。
飲み屋やパチンコ屋まで禁煙にするなんて話は誰も知らなかったはずだから。

author:ZAto, category:時事, 13:36
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年収!年収!年収!

 やっていることは「どこが?」という感じだが、私、基本的にはサラリーマン。
何だかんだ学校出てから四半世紀以上、ひどい目にも遭った。持ち出しもあった。
決算報告書に実印も押したし、自分の代表印が入った有印私文書があちこちに飛び交うという恐ろしい思いもした。
 しかし他人の決済によって給料が決められていたという意味ではサラリーマン以外の何モノでもない。
 それでも何故か「サラリーマンは気楽でエエなぁ〜」などと思ったりもしていましたな。

 「目先の手当てやらに誤魔化されるな」
社会人一年生が先輩から聞く訓辞みたいなもので、昔は基本給を気にしていたものだ。
確かに賞与や退職金のベースになるのが基本給。
 ところが、そんなサラリーマンの指標であった基本給の多い少ないなんて話はすっかりと影を潜め、今やどこもかしこも「年収、年収、年収」の大合唱。
それは小泉・竹中コンビが誕生し、グローバルスタンダードなんて言葉がもてはやされるようになり、外資の進出で年俸制度が日本社会に根付いたため、旧来の給与指標ではもろもろを秤にかけられなくなってしまったということだろうか。

東西線

 問題はいったい何を秤にかけているんだという話。
年収の話に必ずくっついてくるのが「勝ち組・負け組」というキーワード。
早い話が「勝ち組・負け組」という奴をバッサリと決めるのに基本給がどうのこうの、手当てがどうのこうのという眠たいことではなく、ズバリ「年収」と言い切ってしまうことに社会全体が妙な説得力を見出してしまったということ。
 ここに様々な「煽り」があって、マスコミや広告などは一斉に「年収」の2文字に飛びつき、おかげで通勤一時間づつの往復の間に中吊り広告や駅売りの夕刊紙の見出しなどで「年収」の二文字を見ない一週間はないといってもいい。

 “年収上位100社ランキング”
 “年収別、買える家、買えない家”
 “年齢別、年収格差はここまで来た!”
 “年収1000万以上の錬金術”
 “出身大学別年収ランキング”
 “年収200万以下の悲哀人生”
 “年収800万のキャリア転職”

 そして帰宅してパソコンを立ち上げた途端に「あなたの年収は適正か?」などというバナー広告が飛び込んでくる。

 少しばかり異常ではないかと思う。

 なるほど「年収、年収、年収」という大合唱には羨望やら嫉妬やら欲望やらが渦巻くわけで、そこをマスコミは喧しいくらいに煽りながら世情を反映しているのが事実だとすれば、逆説として小島よしおが売れたのもわからないではない。
 年収(稼ぎ)=甲斐性ともなると、私なぞ、つい背中に嫌な汗をかいてしまうのだが、
開き直って社会人としてのステータスを「社会貢献」なんて答えた日にはシュールなギャグになってしまいそうな勢いだ。

 「人間を勝ち組、負け組なんかで区別してはいけない」とする否定発言はよく聞く。
しかし、発言元が“いんなーとりっぷの霊友会”みたいなところばかりではいかにも心許なく、それがときに高所得者からの余裕であったり、低所得者からのやっかみであったり、各々の立ち位置が絡んでくると、結局、誰も説得力を持って肯定も否定出来ていないという硬直感を感じる。
 
 実際「勝ち負け」でいえば、私などは典型的な負け組。
ところが勝ち組を謳歌するような高所得者には問答無用にイラつく一方で、低所得を嘆きながら大した仕事もしていない連中を見ていると張り倒したくなるという性分でもあり、このテーマは私自身の矛盾も晒しつつ、結局、ヒルズあたりの連中とは全然別のカテゴリーのなかで、ちまちまと低レベルなりに同業他社と「勝ち負け」を争っていくのだろう。

 それにしても何ともまとまらない文章になってしまったのは、
「勝ち組、負け組」なんて言葉は年収に限らず、恋愛、結婚、出産も含む人生設計全般にいえることだとすると、ここでもワタクシ、惨敗の体を晒しているからなのかも知れない…。
author:ZAto, category:時事, 01:52
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