- 『 フォロー・ミー 』 が帰って来る!!
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2010.01.29 Friday
映画の話を続ける。
シネコンのTOHOシネマズ系で【午前十時の映画祭〜何度見てもすごい50本】と題したイベントが開かれる。
2月6日より週替わりで午前十時に一年がかりで50本の名作を上映。
何よりもニュープリントでの上映というのがすごい。
ラインアップは以下の通り(五十音順)。
◎ 明日に向って撃て!
◎ アパートの鍵貸します
◎ アマデウス
◎ 雨に唄えば
◎ アラビアのロレンス
◎ ある日どこかで
◎ ウエスト・サイド物語
◎ 裏窓
◎ 映画に愛をこめて/アメリカの夜
◎ エデンの東
◎ お熱いのがお好き
◎ 男と女
◎ カサブランカ
◎ クレイマー、クレイマー
◎ 刑事ジョン・ブック/目撃者
◎ 激突!
◎ ゴッドファーザー
◎ ショウほど素敵な商売はない
◎ ショーシャンクの空に
◎ 十二人の怒れる男
◎ スタンド・バイ・ミー
◎ スティング
◎ 戦場にかける橋
◎ 太陽がいっぱい
◎ 第三の男
◎ 大脱走
◎ チャップリンの独裁者
◎ 追憶
◎ 鉄道員
◎ 天井桟敷の人々
◎ 眺めのいい部屋
◎ 2001年宇宙の旅
◎ ニュー・シネマ・パラダイス
◎ バベットの晩餐会
◎ 薔薇の名前
◎ パピヨン
◎ 羊たちの沈黙
◎ 昼下りの情事
◎ フィールド・オブ・ドリームス
◎ フォロー・ミー
◎ ブリット
◎ ベン・ハー
◎ 北北西に進路を取れ
◎ ミクロの決死圏
◎ ライトスタッフ
◎ ライムライト
◎ レインマン
◎ ローマの休日
◎ ロミオとジュリエット
◎ ワイルドバンチ
実は、50本全部観てやろうかと思っている。
全国25館でローテーションの上映をするのだが、幸い住処から30分の場所に上映館が2館ある。
一年間のスパンならば週末や祝日をやり繰りすれば、旅に出る余裕くらいは作れそうだし、
そもそも休日の午前中を劇場で名作鑑賞という趣向は悪くなく、乱れまくっている生活のリズムも少しはマシになるに違いない。
あとはプロ野球のデーゲームとの兼ね合いをどうするかということだが、工夫すれば何とかなる。
自分はこういう計画だけはやりきってしまう性質ではあるのだ。
さて、このランイアップ。
かつての映画青年だといっても、ヤクザ映画とロマンポルノ専門だったと思われがちだが(苦笑)、さすがにここまでの名作となると大概は観ている。
ざっと数えた時は40本近いなと思ったが、テレビ放送やビデオ鑑賞だったものもあって、正確に記録と照らし合わせてみたら劇場で観たのは34作品だった。
私の場合、絶対に曲げられないこだわりがあって、スクリーンで観ていない限り、その映画を観たとはいわない(ビデオ屋を11年やっていたにもかかわらず)。
その34本は封切り時に観たものもあれば、リバイバルや名画座で観たものもある。
しかし殆どが十代、二十歳代の頃に出会った映画ばかりで、とくに80年代後半からの公開作品は「穴」の時代にあたり、それらの未見の作品と出会えることは大いなる楽しみだ。
50本のラインアップを選考したのが、高井英幸(東宝社長)、品田雄吉、襟川クロ、おすぎ、三谷幸喜、弘兼憲史、戸田奈津子、小泉今日子という面々。
西部劇ならジョン・フォードやマカロニ・ウエスタンも観たかったし、『ウエスト・サイド物語』なら『サウンド・オブ・ミュージック』。『鉄道員』なら『自転車泥棒』。『ブリット』なら『ダーティ・ハリー』か『フレンチ・コネクション』だろうという思いもある。
007シリーズや、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティが一本もラインアップされていないのも寂しい。
確かに三谷幸喜が「50本は少なすぎる!午前10時は早すぎる!」とリーフレットでコメントしている通り、50本程度の枠ならば不満をいえばキリがなく、ニュープリント上映ということを考えれば贅沢はいえない。
もちろん敬愛するビリー・ワイルダー作品が3本もラインアップされていること、
チャップリンではたまたま劇場未見だった2本をやってくれること、
いつか劇場に行くつもりで未見のままにしていた『ショーシャンクの空に』『フィールド・オブ・ドリームス』をようやく観ることが出来るのは本当に有難い。
しかし何といっても『フォロー・ミー』に再会できることが無上の歓びだ。
高校生の時に観て以来、私の生涯の洋画ベストワンだと喚き続けた作品(笑)。
しかし何故か一度もビデオにもDVDにもならないまま現在に至り、もう一生観ることは出来ないものだと諦めかけていた。
ジョン・バリーの名曲に乗ってロンドンの街をさまよい歩くベリンダに、ニュープリントで逢うなんて、こんな嬉しいことはない。
この辺境のブログを読んだ方々にも『フォロー・ミー』だけはお近くの映画館でぜひ観てもらいたいと思う。
心のこもった愛の物語です。お薦めします。
すでに上映スケジュールはカレンダーに書き込んだ。
せっかくの機会なので、HPに鑑賞記録を新設しようなどとも考えている。
再鑑賞が多くなるが「何度見てもすごい50本」というのは間違いないのだから、
今年は久々に映画に心躍らせることが出来そうだ。
- 映画 『ディア・ドクター』
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2010.01.26 Tuesday
どうやら昨年度の各映画賞は、洋画ではクリント・イーストウッド監督・主演『グラン・トリノ』、邦画では、個人的に前作『ゆれる』を見逃して悔しい思いをした西川美和監督の『ディア・ドクター』が作品賞という趨勢になっているようだ。
もはや映画好きを名乗る資格を問われかねない私ではあるが、やはり趨勢は抑えておきたい。そこで近郊の二番館を調べてみたところ、公開していたのが三軒茶屋シネマ。
今夜が最終日で、その最終回の上映に仕事帰りに駆け込んだという次第。
いわゆる「名画座」といわれる場所に足を運んだのはいつ以来のことだろう。
冗談抜きで浪人時代は一年の半分は名画座で過ごしていたなんてこともあった。
( めいがざ とキーを打っても名画座と変換されない。もはや死語か?)
この三軒茶屋の名画座に最後に訪れてから一体何年経ったのか。
テケツで入場料700円を支払う。固い椅子。お世辞にも綺麗といえないホール、緞帳、開巻ブザー、映写機のフィルムを送る音。何もかもが懐かしく、切なかった。
そしてまた、作品から醸される雰囲気も懐かしくも切ない。

山間の小さな村に着任して以来、村人から絶大な信頼を寄せられている医師・伊野治。研修医としてやって来た青年・相馬も献身的に接する伊野の姿に次第に共感を覚えていたが、一人暮らしの未亡人かづ子を診療することになったことで、伊野は次第に追い込まれていくことになる…。
伊野に笑福亭鶴瓶、相馬に瑛太、かづ子に八千草薫。
この映画が映画賞を独占するほどの秀作であるならば、その功績はキャスティングの上手さに拠るところが大きい。
切ないという感覚には哀しさや寂しさがあるが、滑稽であったり、愛らしかったりという要素も含まれるのではないか。
スターシステムの映画ならともかく、登場人物に観客が思い入れようとした場合、演者が無色であればあるほどベターであるはずで、本来、鶴瓶のようにテレビをつければ日常的に顔を出しているような芸人の起用は避けたいところではあるのだが、これが見事にはまった。
西川美和が脚本を起している段階から鶴瓶を意識していたのかどうかは知らないが、おそらく伊野を演じるのが鶴瓶でなかったとしたら、こんなにも切ない映画にはならなかったのではないだろうか。
確かに鶴瓶が目尻を垂らして笑うと、見ている方もつい釣られ笑いをしてしまうものの、意外と隠れた瞳は笑っていないというイメージがある。
高座でひとり何役もの人物を演じ分ける落語家にとって演技はお手のものなのだろうが、鶴瓶をキャスティングした西川美和の眼力はただ者ではないことを窺わせるものだと思う。
大袈裟にいえば、鶴瓶がスーパーカブに跨ってチンタラと農道を走るだけで映画になってしまう。その姿が妙に可笑しくて哀しくて滑稽で、つまりは切ないのだ。
映画のキャッチコピーは “ その嘘は、罪ですか。”
物語のネタバレはしたくはないのだが、実はこの伊野という医者は無免許医だったことが判明し、失踪者が逃亡者になってから映画のトーンは変調する。
伊野はニセ医者ではあるが、間違いなく僻地の村では絶対的な信頼を受けている。
西川美和は「四国の僻地で白タク運転手が逮捕されて、お年寄りが病院へ通えなくなったという記事を読み、僻地医療に興味を持った。見捨てられた辺境の地で正義とは何かを探りたかった」と製作意図を語っている。
その意味でもこの映画は社会的な側面を持つのだが、個人的には無医村の問題をこの映画から提起されたとは思っていない。
ただホンモノであることとウソであることに境界線を引くことの意味とは何だろかとは思った。
その境界の象徴が伊野の脱ぎ捨てた白衣だったのではないか。
現実に白衣の威力は大きい。
伊野にとって白衣はウソを担う格好の仮面ではあるのだが、「偽りの正装」の重さは時間の経過とともにズシリと身を縛っていくし、村人にとっては一着の白衣がもたらす安堵感は計り知れないものであり、畦道を歩く白衣姿、土地に暮らすことへの不安感を払拭する安全装置になっている。
そんなアンバランスな均衡を虚実皮膜というのかも知れない。
登場人物たちはそれぞれが過度に自分を説明しようとしないので、それほど親切な映画だとはいえないのだが、観客はスクリーンいっぱいに映し出される山間のカラッとした陽気や、村人たちの屈託のなさに素朴さを見出しながら、野分に波打つ稲穂に伊野の心象が揺れていく様を見守っていくことになり、その辺りの風景の切り取り方がとにかく絶妙だったのではないか。
上記の三人以外に、看護士の余貴美子、製薬会社の香川照之、刑事の松重豊。
なんとも私の好きな役者たちが脇を固め、全員が演技賞ものだった。
2010.1.22 三軒茶屋シネマにて
- 映画 『アバター』
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2010.01.22 Friday
かつて淀川長治さんが一本の映画作品を擬人化して、男性・女性に選別しながら人格に見立てるという遊びをしていたことがある。
確かにひとつの映画を親のように思ったり、教師、恋人、友人、あるいは自分自身のことに見立てたりと、様々なイメージを膨らましてみると、なかなか面白い。
個人的に恋人や自分の映画がすっかり無くなってしまい寂しい限りなのだが、その例えでいうと話題の超大作『アバター』は、一言で「他人」の映画だった。
他人と書いてしまうとよそよそしい印象になってしまうが、招待状に誘われて赴いた豪奢なパーティの主催者と、シャンパングラスを片手に談笑している気分だったといってもいい。決して身内の気分にはなれないが、エンディングまでずっとリッチで楽しい気分を満喫させてもらえる。
ジェームズ・キャメロンの映画にはいつもそんなお得感があるのだが、今回はかなり極上な気分だった。

二十二世紀、地球から遠く離れた惑星パンドラへとやってきた元海兵隊員ジェイクは、自らの分身となる“アバター”を操り、先住民ナヴィと交流するが、やがて鉱物資源を巡って勃発する人類とナヴィとの戦争に巻き込まれていくのだが…。
『アバター』のストーリーを「インディアンと騎兵隊もの」と定義させてもらうと、どこか懐かしい匂いのする映画であるといえる。
アメリカ合衆国の建国と繁栄が、「開拓と侵略」という二律背反によってもたらされ、それが現代でも継続されているという世界情勢の中で、こういう映画を生み出し続けるのがハリウッドの懐の深さなのかもしれないし、意地悪くいえば偽善性なのだろうか。
そもそも「国家」とは体制の区別なく全体主義に行き着く化け物だ。
私が冒頭で映画を擬人化したように、「国家」を擬人化することは出来ない。
そういう絶対的運命の中で「個」とは何であるかを問い詰めていくことが、「文化」であるとするならば、間違いなくジェームズ・キャメロンは文化の担い手として『アバター』を製作したのではないか。
この作品、第一義的には先住民族のアイデンティティを賭けた闘いを描いている。
しかし本質的には資本を背景とした物量的侵略に対抗するものとしての「個」を突出させた映画だ。
その個が昇華していく先に「自由」があり、その象徴として現実世界では半身不随の海兵隊員ジェイクが、分身では自由自在に大地を闊歩してみせる場面が用意されているのだが、
私はジェイクが自由のために闘うのではなく、闘うことで自由を確信していく過程のイメージを具現化することに、この映画の最新テクノロジーのすべてが投入されたのではないかと思っているし、その志向そのものを「文化」と呼ぶことに些かの躊躇もない。
立体映画自体は私が生まれる前から存在し、とくに新しい試みではないが、既存の3D映画はディズニーランドの『キャプテンEO』からしょうもないホラーやピンク映画に至るまで「飛び出す」ことのみに腐心しすぎていた。しかし3Dアートなどを見ればわかるように、立体映像の本来の魅力は遠近感であり、奥行きにある。
『アバター』は奥行きを見せることにイマジネーションを集約されたことで、初めて立体であることの必然性が生まれたのではないだろうか。
ただ私は、映画が「どう描かれたのか」ではなく「何を描きたかったのか」というのが大事であると思うので、必然は感じたとしても立体映像の凄さが『アバター』の凄さとは思っていない。
3Dといっても所詮はスクリーンに投影される二次元映像であるに過ぎず、これをトーキー、テクニカラーに次ぐ映画の革新だとは思えないのだ。
その昔、『2001年宇宙の旅』を今はなきテアトル東京の大画面シネラマで観た時の感動には到底及ぶものではなかった。
2010.1.13 109シネマズグランベリーモールにて
- 小林繁
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2010.01.17 Sunday
小林繁が亡くなった。
急死だったそうだ。
しなる右腕を正面から見ながら歯軋りしていた高校時代。
帽子を飛ばす力投を背中から頼もしく見ていた大学時代。
小林繁を見てきた時間がごっそりと蘇る。
しかし、いつもこういう時間は訃報とともにくる。
子供の頃からずっとタイガースファンだったにもかかわらず、
何故か小林繁だけが切り取られて別の場所にいるような気がする。
猛虎の縦じまを身に纏っていても、何故か孤高の人だった。
甲子園の喧騒も小林繁が立つマウンドを素通りしていた錯覚があった。
あの最多勝も、球団の歴史に刻むことなく小林繁ひとりの栄光のように思えた。
何であんなに孤独に見えてしまったのだろう。
絶対に忘れることの出来ない虎戦士であることは間違いないのだけど。
ふと思う。
小林繁の目に当時のタイガースはどう映っていたのか。
紳士然とした佇まい、甘い声、スタイリッシュな身のこなし。
それと相反するように、常に土壇場に身を置いているような緊張感。
伝え聞かされた人生の辛酸。
ありきたりの言葉。
心からご冥福をお祈りします。
でも何で追悼の相手が小林繁なのだろう。
こんなことでもないと多分出て来ない言葉。
縦じまに袖を通してくれて有難う。
- 禁煙十字軍が来た!
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2010.01.04 Monday
サウナで汗をかき、露天の湯気と身体からのぼる湯気に包まれながら、一服。
それが冬空の中、肺腑を循環して吐き出される煙が湯気とシンクロしていく至福。
こんな露天のベンチに灰皿を置いている銭湯に感謝しつつ、この至福を知らない人たちがいることを心の底から気の毒に思う。
……以上、半分は冗談です(汗)。
でも半分の本気というのがあって、その半分の思いに対して、嫌煙家からのバッシングがいよいよ熾烈を極めてきた。
去年、このブログにて「神奈川の禁煙条例について」という駄文を綴った。
そしてどうやら横浜市、相模原市、東京都町田市と隣接する我が住処の○○市が、その先駆として名乗りを上げたようだ。
それにしたって、いち早く家庭ごみ排出の有料化に踏み切り、県内有数の財政難にして行政サービス最悪といわれる○○市において、禁煙運動にかける財政支出についてはモノもヒトも随分と大した大盤振る舞いではないか。

そもそも「吸殻のポイ捨てから街の美観・環境を守る」というお題目のもとに、市内の駅前、繁華街に立てられた尋常ではない膨大な数の幟や地面のプレートは、限りなく美観を損なうばかりか、私にいわせれば殆どヒステックであるとしか思えない。
そもそも幟や旗印を立てて追い詰めるなどというのが、三国志、十字軍の昔から侵略者の発想そのものではないか。
駅通路の狭間の辺鄙な場所に申し訳程度に設置された灰皿。
住処の最寄り駅は私鉄2路線が乗り入れる小さなターミナル駅なので、
それなりに乗換え客も多く、この小さな喫煙エリアでは落ち着いてタバコを吸うことなど不可能。
さらに驚くなかれ、灰皿の前に白線が引かれており
「喫煙は白線の内側でお願いします」ときた。
一体、何から何を守ろうとし、何を防ごうとするつもりなのか。
以前、高田馬場駅のターミナルにある喫煙所の前で「禁煙キャンペーン」が繰り広げられていたことがあった。
ようやくタバコが吸えるエリアに辿り着いたサラリーマンが、
憩いのひと時を味わっている背中から大音量のスピーカーでタバコの害をアジる無神経さ。これには本当に腹が立った。
こうなると立派な人種隔離政策だ。
確かにその昔は電車だろうが、飛行機だろうが、野球場のスタンド、映画館の中、高校の部室だろうがタバコを吸っていた。それが許された大らかな時代でもあった。
実際、昔の甲子園球場のチケットに記載された禁止事項に「喫煙」の文字はない。
そんな私でも喫煙についてはそれなりに社会情勢の変化には合わせてきたつもり。
非喫煙者と食事をするときは必ずひと言申し添えることは忘れないし、場所も構わず煙を吐き続け、吸殻をなんの躊躇もなく捨てるような傍若無人のスモーカーではない。
もちろん他人の体内に入り込んで吐き出された煙を嫌うというのも理解している。
実は喫煙者であったとしても、他人のタバコの煙を嗅ぐのは気分のいいものではないのだ。
そんな私もタバコを止める用意はある。
だいたいタバコに年間25万以上の出費は尋常なる額ではない。
この半生でタバコに幾ら遣ったかなどは恐ろしくて考えたくもないが、更なる値上げによってそれがいよいよシャレにならなくなってきた。
そして初めて職場が禁煙となったのを経験したのが、今から15年ほど前。
そこでガタンと仕事の効率が落ち込んだことを憶えているが、当初は「タバコをデスクで吸わせない会社が悪い」などと傲慢にも思っていたものの、最近は喫煙所に行くための離席時間が非喫煙者に比べてあまりにも多く、それが気になり始めてきた。だから申し訳なさから速や吸いをするので喫煙本来の快感にはほど遠い。
因みに現職場での喫煙者はたったの3人。あとは殆どが禁煙成功者となっている。
数年ぶりに会った人たちと飲み会をやれば、必ず何人かは禁煙成功者がいて、そのことで驚くこともなくなったし、タバコを止めたといっても「偉い!」という感覚もなくなった。
気がつけばレストランで喫煙エリアに空席があったりもする。
昨年のこと。自分の意志で禁煙する自信がまったくないので、職場近所の医院で禁煙外来の説明も受けた。
内服薬で喫煙への依存を消滅させるという治療できちんと保険が適応されるという。
晴れて煙草依存は国から「病気である」と認定されたわけだ。
しかし国の保険負担なので、治療を始める以上は途中で投げ出すことは許されない。
院長から「○○さんに絶対にタバコを断つという意志はありますか?」と聞かれ、
「…いや、もう少し考えさせてください」と(笑)。
もともと「タバコが健康に悪い」などと爪の先も思っていないのだ(爆)。
それよりも一番腹が立つのは高額納税者に対する行政サービスの悪さだ。
上記した○○市のような扱いをされると、天邪鬼な私は「誰が止めるかい!」と思ってしまう。
何より嫌煙運動の一部に見られるヒステリーはとにかく煙たい!(爆)
何が腹立つかといえば、「健康を気遣っているのだ」というお題目にある。
それが今度の税率アップの議論で非常に醜悪な形で現れたのではないだろうか。
税収が落ち込むたびにタバコと酒は値上げされ続けた歴史を持つ。
「欧米先進国なみにタバコの定価を上げるべきだ」
「いや、そんなことをしたら、逆に税収の減少につながる」
「産業に従事されている人たちに配慮すべきではないのか」
こういう議論の綱引きはまったく聞き飽きているのだが、某・長妻大臣は言い放つ。
「例え、税収が下がったとしても国民の健康を考慮すべきだ」と。

前回も書いたが、よくいわれるタバコの害について私は懐疑的に思っている。
何故、ずっと昔から「有毒であると疑われる」という見解で留まっているのか。
いつまでパッケージに印刷されているような「疫学的な推計によると〜」なる曖昧な文言をいい続けるのか。
高校の時に読んだW・ホイットピー博士の著書で「何故、タバコは健康に良いか」という衝撃的な定義を目にしてから三十年。
もう世界の医学会もWWFもタバコの有害性を確証する作業を放棄して、
推定有罪で「悪いと思われるものは悪い!」で決着させるつもりなのか。
少なくとも世の中には喫煙者と非喫煙者がいるのだから、副流煙、受動喫煙の臨床実験を正確にデータ化するべきではないだろうか。
それがまったくなされないまま「他人のタバコの煙を○本吸えば、1本吸ったと同じ」といった根拠不明な話が真実であるかのようにプロパガンダされるのは危険極まりないと思っているのだがどうだろうか。
「タバコのどこが有害なのだ!?」
「そんなの常識でしょ」
かくも常識とは恐ろしい。
私は非喫煙者と嫌煙家とはまったく別の人種だと思っている。
幸か不幸か、もし私がタバコを止めたとしても絶対に嫌煙家にはなるまいと思う。
では灰皿が一杯になってきたので、以上っ!(爆)











