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「雑途往還」ブログ 阪神タイガース+映画・演劇+戯言---超自己満足主義<br />
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2014-01-03T09:45:55+09:00
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叔母のこと
年末に脳血栓で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれた叔母について。
両親とも大家族なので、私には大勢の叔母、叔父が大勢いる。
大勢いると近い人と遠い人、顔も知らない叔父、叔母もいるのだが、
先日、脳血栓で病院に運ばれた叔母には幼い頃からずっと付き合...
年末に脳血栓で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれた叔母について。
両親とも大家族なので、私には大勢の叔母、叔父が大勢いる。
大勢いると近い人と遠い人、顔も知らない叔父、叔母もいるのだが、
先日、脳血栓で病院に運ばれた叔母には幼い頃からずっと付き合ってもらっている。
幼い頃どころか、大雪の日の難産のとき姉である母親に付き添ってくれたのが、当時高校生の叔母だった。
つまり自分が産まれたときに立ち会ってくれた人。
叔母ではあるが今でも「まっちゃん」と呼んでいる。ずっと姉のような存在だった。
そのまっちゃんは十人兄妹のうちで唯一、恋愛結婚をした人だ。
婚約中の伯父とのデートに子供だった自分はよくお邪魔虫をした。
田舎者ばかりの中で都会的な雰囲気のまっちゃんことは好きだったし、
まっちゃんも随分と可愛がってくれた。
結婚式のときもよく憶えているが、父親が長期不在なのが最適だったのだろう、従弟を産むときに我が家に滞在たことがあり、勉強も見てもらったことを思い出す。
一番ありがたかったのは、自分が高校のときフラフラしているのを、出産のとき苦しんだ母親のことを手紙にして、たしなめてくれたことなのだけど。
しかし勤め人だった伯父が身体を壊して職を失うと、一念発起して墨田の玉ノ井で焼鳥屋を開業。
玉ノ井は昔遊郭が軒を並べた「ぬけられます」の赤線地帯。
都会的センスに溢れたまっちゃんがいきなり下町向島の焼き鳥屋の女将となった。
たまにそのことをぼやいていたが、夫婦は懸命に激務をこなしていたと思う。
その甲斐もあって常連客もついて、店は繁盛して増築もした。
早くも開業して35年を超えた。従弟も立派に二代目として厨房に立っている。
身内の贔屓目としても、この店のつくねは大変美味い。
軟骨からレバーまで肉の旨味をギュッと凝縮して、ここのつくねを味わってしまうと、ちょっと他のは食べられないんじゃないだろうか。
残念なことに伯父もまっちゃんも身体が丈夫とはいえず、
二人して交互に病院に担ぎ込まれることもしばしばで、危篤の報せを受けたこともあった。
血管病は母方の家系病で、母親も十年前に大きな手術をして人工動脈が埋められているが、まっちゃんが病院に運ばれるのは今回で三回目だ。
今夜、BSの人気番組「吉田類の酒場放浪記」でまっちゃんの店が紹介された。
画面の中で手製のぬたを「ワカメとネギと鮟肝で和えて・・・」と吉田類に差し出すと、
「味が練れている。練れているということは味が洗練されている。こういうのが下町の奥の深いところ」との評価を貰って、何とも嬉しそうだった。
これ、いつの収録だったのだろう。
まっちゃんも伯父も従弟もオンエアを楽しみにしていたことだろう。
画面のまっちゃんと病床のまっちゃんとがオーバーラップして、
一層、急の病魔が本当に恨めしくてならない。
見舞いに行ったとき、伯父がスプーンで流動食をまっちゃんの口に運んでいた。
夫婦水入らずの機会もそうはなかったろうから、何十年ぶりかのお邪魔虫だ。
まだ70前なのだからこれから辛いリハビリにも耐えてくれることだろう。
身内のことながら「頑張ろう!」の一言を。
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戯言
2013-01-07T23:59:00+09:00
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さて、このブログどうしましょう?
友人たちがやっているブログが、軒並み更新の頻度が減ってきている。
それは仕方がない。更新が滞ってしまう事情はおおよその察しはつく。
始めた頃は話題も豊富で楽しい。それが閲覧者が増えると次第に義務化する。
新鮮味がなくなると宿題が溜まってしまう。
ブロ...
それは仕方がない。更新が滞ってしまう事情はおおよその察しはつく。
始めた頃は話題も豊富で楽しい。それが閲覧者が増えると次第に義務化する。
新鮮味がなくなると宿題が溜まってしまう。
ブログに書きたくて始めたことが、実はブログに書かされてしまう。
もしかしたら、ブログにアップするのが目的で何かしらの行動をとる場合もあるかもしれないが(そのこと自体は否定しない)、そこまでのやる気も時間もない。
まぁ大体そんなところだろう。山守のおやっさん、、、ワシもおんなじじゃ。
改めて我がブログをスクロールしてみると、殆ど映画と野球のことしか書いていない。
もともと広く閲覧される努力をまったく放棄した勝手気ままなブログだとしても、
そもそもHP「雑途往還」に映画も野球のページがあるのだから、
果たしてこのブログって必要だろうか。
自分の場合、自由に使える時間が人よりも圧倒的に多いはずだとしても、
書き始めてからアップするまで(文字量が増える悪癖もあって)人の何倍もの時間がかかってしまうとなると、アップ予定の映画評も溜まり、消化するまで観賞を自粛してしまう。
何だかもの凄い本末転倒だ。
野球の試合評(一応ね)も、今日の勝利を称賛するつもりが、翌日にボロ負けされると途端にキーを叩くのが億劫になる。
結局、消化出来ずにシーズン終盤に失速し、金本知憲引退というトピックスも手がつけられず放置したまま年を越してしまう。
そもそも書くことより画像を作ることにエネルギーを使ってしまうのが良くない。
仙台、北海道と旅したことも結局は賞味期限を切らしてしまった。
(旅について書かないブログってなかなか凄くないか)
さらに、日常のあれやこれやを綴ることも「日めくり」で充足されているとなると、
自分にとってブログの存在意味は殆どないのだ。
それでもブログは書く方からすると楽は楽だし、スマホから閲覧、編集もできる簡便性も捨てがたい。
いっそ「日めくり」をブログに移管してしまうかと何度考えたことか。
まず今後はこのブログに通常の映画評と野球観戦記は書かない。
何かトピックスがあればそれだけを書く。
映画についてはHPに「映画観賞記録」を新設した。
野球についてもこれから考える。
従ってブログの方は一層、更新頻度が減るだろうが、
アップしたらHPの「更新履歴」で必ずお知らせするので、
「日めくり」に行ったついでにクリックしてしていただければ無駄足を踏まずに済むはずです。
って、私は閲覧して戴ける方々に何を指示しているのでしょうか?
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戯言
2013-01-05T11:19:00+09:00
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年賀 平成25年
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時事
2013-01-01T00:00:00+09:00
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映画 『 007/スカイフォール 』
自分としては『ダイ・アナザー・デイ』以来の007シリーズとなる。
あの時も随分と久々だったが、さらに十年が経っているのだから驚きだ。
この機会に少々007シリーズの思い出話に触れてみたい。
初めて劇場で見たのが中学3年のときの正月映画『黄金銃を持つ男』だっ...
自分としては『ダイ・アナザー・デイ』以来の007シリーズとなる。
あの時も随分と久々だったが、さらに十年が経っているのだから驚きだ。
この機会に少々007シリーズの思い出話に触れてみたい。
初めて劇場で見たのが中学3年のときの正月映画『黄金銃を持つ男』だった。
その時は遅れてきたボンドファンのつもりでいたが、何てことはない、あれも今やシリーズ前半の作品になっている。
シリーズを世代別に分類すると、私はロジャー・ムーア世代ということになる。
しかし、その当時から「ジェームズ・ボンドはやっぱりショーン・コネリーだ!」という声が圧倒的だった。
そこで「コネリーこそボンド」と堂々といえる資格を得ようと、TVで見ていたのでは駄目だという規律を勝手に科して、名画座やリバイバルを駆けずり回りコネリー版の初期作品は早々にすべて劇場で観た。
おかげで以来のボンド映画の見方が、コネリーだったらどんな感じに演じ、どんな仕上がりになるだろうかと想像する偏狭な癖が身に着いてしまった。
しかし、何だかんだいってシリーズもロジャー・ムーア以降、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経て、現在のダニエル・クレイグになって、新生ボンドもこれで3作目になる。
もはや「コネリーこそボンド」なんて言い草はオヤジの証明でしかなく、当然、イアン・フレミングの原作もとっくの昔にネタ切れとなって、往年の宿敵スペクターとの対決のバックボーンだった東西冷戦も終息。
母国イギリスもリトル・ハリウッド化して『007は殺しの番号』などというベタな邦題がつけられた時代から50年が過ぎて、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』などと英語音痴を嘲笑うかのように原題がそのまま使われるようになっていた。
そもそも“ゼロゼロセブン”ではなく“ダブルオーセブン”という呼び名が定着した時点でひと世代変わったのかも知れない(嗚呼、淀川長治さんの“ゼロゼロなな”というトークが妙に懐かしい)。
そして『ダイ・アナザー・デイ』を観たときに思った。
オールドファンにはもうレンタルで十分かも知れない、と。
そこにはイギリス野郎のユーモアとダンディズムの欠片もなく、完全にノー天気ハリウッド・エンタティメントが堂々と罷り通っていた。
冒頭、嵐の大海原をサーフィンしながら朝鮮半島に乗り込むボンドの姿は、『オースティン・パワーズ』以上におバカに見え、むしろあっちの方が初期シリーズのテイストを踏まえて微笑ましいぐらいだと感じた。
(消えるボンドカーなど、オースティンでもやらん!)
かつての007には荒唐無稽の中に “情勢”があり、“政治”があった。
あの時、シリーズからショーン・コネリーの面影を追う必要がなくなったのを痛感したのだった。
そしてダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが誕生する。
ファッション誌の表紙モデルになりそうなブロスナンからガラリと趣が変わった。
残念ながらクレイグの前2本は観ていない。
それほど『ダイ・アナザー・デイ』の印象が良くなかったのだが、スチル写真で見る限り無味無臭のロジャー・ムーアやブロスナンのボンドと比べて、クレイグのひと癖ありそうな風貌にはある種の期待感はあったし、そこに製作者側の新生007へのアプローチも感じていた。
これは期待できるかもしれない。実は前2作を見逃したのを後悔もしていた。
そして何よりも『スカイフォール』の監督はサム・メンデスだ。
オスカー受賞監督を起用することの意味に興味をそそられたのも、劇場へ足を運ぶ十分な理由になった。
全世界に散らばっている諜報員たちのリストが奪われるという極めて危険な事態が発生。ボンドはリストを取り返すべく追跡する過程で、味方の誤射により橋から落下し姿を消した。さらにはイギリス情報部本部が何者かによってハッキングされ、爆破される事件が発生する!
確かにクレイグの007はブロスナンとはまったく違うシリーズかと思った。
まずテーマ曲に乗ってボンドがピストルを撃つ有名なオープニングが出てこない。
それより以前にコロンビア映画の自由の女神のトレードマークにも軽く驚いていた。
007といえば我々の世代ではユナイトのイメージが強かったのだが、いつからソニーの映画になったのだろう(そういえば劇中に出てくるノートパソコンもソニーのVAIOだったが)。
メインクレジット前のトルコでの車、オートバイ、列車を駆使した大チェイスはCG満載のド派手なもので、それ自体は時代の流れで仕方がないにしても、誤射されたボンドが海底に沈んでいくイメージから、九死に一生を得て、自暴自棄になって女や酒に溺れ、場末の賭博場でやさぐれる姿に、面喰ってしまったのも正直なところ。
ここまでテイストを変えてしまったことには驚かされっぱなしだった。
シリーズ50年。東西の冷戦が終結し世界情勢がすっかり変質した中での007。
これは否応なしにイギリス情報部の存在理由の矛盾も問われることになり、それがこの物語の根幹にもなっている。
かつてアイディア満載の新兵器をボンドに提供していた「Q」も世代交代し、ITに長け、諜報部員には無線機だけを渡して、あとの行動はすべてこちらがコントロールするという合理性を追求する若造になっていた。
イギリス情報部という組織にも、忠誠を誓った国家にも疎外されようとするボンドは、
アイデンティの揺らぎに苦しみながら、生まれ故郷のスコットランドの生家で敵を迎え撃つことになる。
まさかシリーズでボンドの「自分探しの旅」を仮想体験させられるとは思わなかった。
もはや超人的なスパイがスマートに世界を駆け巡る王道に胡坐をかいてる時代ではなくなっているということだろうか。
このように『スカイフォール』は既成の007とはまったく構成を異としているのだが、
このことの是非を問われれば、私は「是」だったと答えたい。
シリーズの存在証明はワルサーPPKとアストンマーチンで満たされれば結構で、
007が抱える矛盾を堂々とテーマに持っていた勇気は評価されるべきではないか。
イギリス野郎のユーモアは、ボンドガールを落とし込む軽妙なセリフなどではなく、
このIT犯罪全盛の時代に、あえてショットガンひとつで敵を待ち受ける 『真昼の決闘』 ばりのシチュエーションを現出させたことにあるような気がする。
そして、エンディングでようやく有名なボンドがピストルを撃つイメージが流れる。
何だかんだと書いてきたが、これには少し「ほっ」とした。
2012.12.2 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-12-21T00:16:00+09:00
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映画 『 北のカナリアたち 』
〔東映創立60周年記念作品〕
と銘打たれていた。
思い出すのは30周年記念作品が 『やくざ戦争・日本の首領』 だった。あの時 “東映、男の30年” のキャッチが踊っていたことを思うと、吉永小百合主演の60周年には隔世の感がある。
いや、実際に隔世と呼んでも可笑し...
〔東映創立60周年記念作品〕
と銘打たれていた。
思い出すのは30周年記念作品が 『やくざ戦争・日本の首領<ドン>』 だった。あの時 “東映、男の30年” のキャッチが踊っていたことを思うと、吉永小百合主演の60周年には隔世の感がある。
いや、実際に隔世と呼んでも可笑しくない歳月ではある。
それを思うと第一線で看板女優であり続けている吉永小百合は、隔世を超えた存在だといえるのだろう。
ところが以前、東映作品のビデオの販売会社に在籍していた経験では、とにかく吉永小百合のビデオは当たらないというのが定説になっていた。
実際、劇場の成績はそこそこでも、ビデオソフトは見事にコケまくり、大ヒットメーカーの深作欣ニでさえ 『華の乱』 のセールスは不調に終り、ビデオショップでの稼動も芳しいものにはならなかった。
要するに吉永小百合で劇場に来る固定客の年齢層が、ビデオショップ利用の客層とかけ離れていたこともあったが、仕事帰りにビデオを借りて、寝床に着く前に気軽に観るのに「吉永小百合はちょっと」と敬遠されていたのだと想像する。
吉永小百合なのだから悪い映画はないのだろうけど、良くも悪くも破綻がない。
それは岡田裕介がプロデューサーに就任して以来、定期的に製作されてきた東映の吉永小百合映画全般においての評価なのだと思う。
さて、もうひとつ悲しいお報せとして、『北のカナリアたち』 のチケットが金券屋で450円という廉価で売られていたこと。
まぁ自分も購入しておいてなんだが、〔東映創立60周年記念作品〕が封切りで450円というのは「なんだかなぁ」ではある。
鑑賞券も、二次流通に出回るときは需要と供給のバランスで価格は決まってくるので、
節操なく前売りを発行しまくると供給過多を招き、市場でダンピングが発生するのは市場の原理で、おそらく金券屋にタダ同然で大量に持ち込まれたのだろう。
かつてのブロックブッキングで無敵の王座を保持し続けた東映も、シネコンの興隆ですっかり東宝に水を開けられて久しいが、東映映画を東宝系のシネコンで観ているのだから、さもありなんということか。
日本最北の島・礼文島と利尻島で小学校教師をしていた川島はる。
彼女は20年前にある事件で夫を失ったのをきっかけに追われるように島を出た。
しかし教え子のひとりを事件の重要参考人として追う刑事の訪問がきっかけとなり、はるはかつての生徒たちに会う旅へ出る。
再会を果たした恩師を前に生徒たちはそれぞれの思いを口にし、現在と過去が交錯しながら事件の謎が明らかになっていく。
形式としてはデュヴィヴィエの名作 『舞踏会の手帳』 を彷彿とさせる。
意外といっては坂本順治にも吉永小百合にも失礼だが、結構面白かった。
もちろんまったく破綻が無かったわけではないが、吉永小百合という旗艦があって、その破綻を見せない大女優が狂言回に徹したことが良かったのだと思う。
確かに不治の病を抱える夫との葛藤や、警察官との不倫など、彼女にもドラマは用意されているのだが、離島の小学校教諭という役柄で、子役や若手俳優たち相手の受けの芝居になったことで、ドラマに安定感をもたらすことに成功していたのではないか。
吃音の少年の叫びにオルガンを合わせて「カリンカ」を歌わせる場面はこの映画の白眉。
歌を覚えたことで小さな分校の生徒たちがまとまっていく過程は、実はこの映画の後に、『サウンド・オブ・ミュージック』を観て、コーラスの素晴らしさが符合して何とも楽しい思いをした。
しかし20年の歳月は子供たちを変えていく。
小さなカナリアたちは成長とともに、現実の中で歌を忘れてしまう。
失業する者、不倫をなじられる者、ずっと殻に閉じこもり生きる者、罪を犯して逃亡中の者と、それを追う警察官になった者・・・。
歌詞のようにカナリアは山へ捨てられていたということか。
それが紆余曲折の末、彼らが再び歌を取り戻していくエンディングへの流れは森山未来の熱演も光り、非常に良かったのではないか。
森山未来のキレのあるダンスや歌はYouTubeで観たが、底知れぬ才能を日本の演劇界は得たのではないか。
湊かなえの原作『往復書簡』は読んでいない。
聞くところによると手紙のやり取りだけで構成した短編だというので、先に映像で観てしまったらまず原作に手を出さない私も、ちょっと読んでもいいかなと思いはじめている。
そういう原作をきちんとした映画に仕立てたのだから、那須真知子も会心の仕事だったのではないか。
坂本順治の演出も20年の過去と現在を流れるような編集の妙味で2時間を飽きさせない。
思えば坂本順治も衝撃的なデビュー作 『どついたるねん』 から23年。
初期の “大阪新世界三部作” の頃から円熟した演出力は持っていたが、とうとう佐藤純弥や降旗康男が登板しそうな大作を任されるようになったかとの感慨もあった。
残念だったのはデジタル撮影では冬の離島の寒さがまるで伝わってこなかったこと。
白波が岩に砕けて海猫が舞うショットなど、木村大作らしい絵を撮っているのだが、そもそも劇映画のカメラマンの仕事はいかに情動を表現することであって、NHKの紀行番組のように風景を額縁にはめることではない。
遠くの地平線や水平線の淵が電気的に思えてしまったのは私だけだろうか。
フィルムで味わうべき映画だったと思う。
2012.12.25 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-12-05T00:20:00+09:00
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映画 『 人生の特等席 』
長年メジャーリーグのスカウトマンとして辣腕を振るってきたガスは頑固一徹の男。
しかし年齢のせいか視力が衰えはじめ、球団本部から契約の打ち切りを打診されていた。
一方、家庭を顧みない父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキーは、弁護士と...
長年メジャーリーグのスカウトマンとして辣腕を振るってきたガスは頑固一徹の男。
しかし年齢のせいか視力が衰えはじめ、球団本部から契約の打ち切りを打診されていた。
一方、家庭を顧みない父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキーは、弁護士としてのキャリアが試されている中、父親の最後になるかもしれないスカウトの旅に同行することを決意する。
監督としてクレジットされていないイーストウッドを観るのは何年ぶりだろう。
アルパソプロの製作であり、プロデューサーも兼任しているので、完全にアクターとして素材に徹したわけでもないだろうが、少なくともイーストウッドが演技者としてガス・ロベルの役を楽しんでいることは画面から伝わって来る。
長年のファンとしてはもうそれだけで満足だ。
確かにイーストウッドの監督作品みたいな人物の深みも、映像の奥行きもやや薄いのかもしれないし、締めくくり方もかなりご都合主義的なところもあったと思う。
妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父に確執を抱いていたわりには、ガスとミッキーの親子関係がよほど親密でなければ成り立たない場面もある。
♪You're my sunshine〜の歌も然り、ミッキーの野球眼と実際の野球実技もそうだ。
6歳の時のある出来事がきっかけに父娘はほとんど没交渉だったのだとすれば、やや矛盾があるように思えるのだがどうなのだろう。
でも、いい映画だった。
アメリカは父性の国だといわれているが、頑固者を描くとき野球は絶好のアイテムだ。
マネー・ベースボール理論が脚光を浴びる現代であっても、アメリカ人にとって打球音が轟く野球のグランドには郷愁があり、父子の絆を確かめる聖域なのだろう。
シネコンの完全入替え制という無粋なシステムさえなければ、もう一度観てもよかったし、何となくグラブの革の匂いを嗅ぎながら、誰かとキャッチボールをしたくもなった。
この感覚は 『フィールド・オブ・ドリームス』 を観終わったときに似ていたようにも思う。
もちろん 『人生の特等席』 は、はっきりと「野球映画」ではない。
しかし、父と子が絆を取り戻すという語りつくされたテーマの中で、野球へのオーマージュが随所に込められていたのが、個人的には嬉しかった。
おそらく主演イーストウッドであて書きしたような脚本なのだろうが、かといってイーストウッドのワンマン映画にもなっていないのは、知的で負けず嫌いだが、決して大人の女として完璧じゃないミッキーを演じたエイミー・アダムスによるところが大きかった。
今後、作品に恵まれさえすればメリル・ストリープの域にまで成長するのではないだろうか。
今世紀に入ってからそれほど経ったわけではないが、
私は四年前の 『グラン・トリノ』 は今のところ21世紀最高傑作だと思っている。
そしてあれはクリント・イーストウッドの監督・主演でないと成立しなかったという点で、驚くべき傑作だった。
強靭な頑固一徹親父(爺)の幕引きが俳優としてのイーストウッドの幕引きとオーバーラップしてかなり感傷的な思いで 『グラン・トリノ』 のフィナーレを観たものだったが、
そのイーストウッドが人に演出を委ねる形でスクリーンに還って来たのはかなり意外だった。
CSで放映されていた『ローハイド』のクレジットにテッド・ポストの名を見つけたとき、イーストウッドの義理固さに感心してしまったように、『人生の特等席』 で監督デビューとなったロバート・ロレンツが長年、アルパソプロのプロデューサーをやっていたというから、愛弟子の門出に体を張ったのだとしたら、それはイーストウッドらしいと思った。
そう 『グラン・トリノ』 で自らの履歴を総決算したイーストウッドにとって、同じ頑固爺を演じても、それは決してウォルト・コワルスキーの世界観と同じ脈絡になることはない。
あくまでもガスという老人のキャラクターを演じたのであって、そこに自身を投影したわけではなく、だからこそ眉間にシワを寄せて偏屈なガスを演じていてもイーストウッドは随分と楽しげだった。
そう思わなければミッキーに会心の一撃を浴びて、ダイヤモンドを一周する娘に笑いかけた、あのチャーミングな笑顔の説明がつかないではないか。
2012.11.23 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-11-24T23:59:00+09:00
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『 中島みゆき 縁会 2012〜3 』 〜東京国際フォーラム
5、000席を上回る大ホールの二階席の後ろから3列目というステージを見下ろす席で、新調したばかりで慣れない遠近両用眼鏡の焦点を合わせるのに無駄な苦労をしたこと、舞台セットがブロック状に高く積まれたボックスでのバンド演奏のため、サウンドがやけに近くに感...
5、000席を上回る大ホールの二階席の後ろから3列目というステージを見下ろす席で、新調したばかりで慣れない遠近両用眼鏡の焦点を合わせるのに無駄な苦労をしたこと、舞台セットがブロック状に高く積まれたボックスでのバンド演奏のため、サウンドがやけに近くに感じられ、アップテンポの曲は中島さんの歌とバンドが喧嘩しているようで多少耳障りだったことは最初に書いておこうかと思う。
『最後の女神』 『地上の星』 『恩知らず』 『パラダイスカフェ』はとくに残念だった。
そのためかスローな曲ばかりがやけに心に残ったコンサートになった。
さて、晩秋恒例となっている中島さんのライブ。
「 「夜会」という舞台がありますが、あれと違って通常のコンサートの方はいつも宴会気分でやっていこうと思っとります。いっそツアータイトルも 「宴会」 にしまえと考えたんですが、一升瓶を持ってこられても困りますんで 縁が会うと書いて 「縁会」 としてみました」 と、例によってあの凄まじく脱力したトークを炸裂させる。
五年連続となる。もはや時間の流れる早さを茫然と見送るのみだ。
誰かが言っていた。「時間が早く感じられるのは、あなたが遅くなったからだ」と。
確かにそういうこともあるのかもしれない。
例えば前回のコンサートよりも東京国際フォーラムの喫煙所がずっと縮小されて、満員電車状態になっていたことや、終了後のロビーに貼り出されたセットリストに群がっていた携帯電話がスマホになっていたなんて違いにも小さな時の変遷を感じる。
しかし五年なんてケチな話ではなく、今夜のセットリストの内、彼女が二十歳そこそこで作った 『時代』 を歌い、還暦を迎えて発売した 『恩知らず』 を歌う。
休憩後のお色直しでは黒のドレスでJAZZYにブルース3曲を披露するが、『真っ直ぐな線』 と 『悲しいことはいつもある』 という二十歳代の楽曲の間にニューアルバムから 『常夜灯』 を挟む。
40年ほどの時間を一夜のコンサートでパッケージされてもまったく違和感はない。
中島みゆきの世界観が二十歳代で既に完成され、成熟していたともいえるし、
『時代』 『化粧』 『世情』 という楽曲がすでに不変の価値を持っているのかもしれない。
しかし『世情』 などは「めぐるめぐるよ時代はめぐる」で、そういう社会情勢になってしまったともいえるわけで、それを聴いている自分自身に流れた時間も含めて、改めて40年という時の流れを考えてしまった。
『世情』 が今回歌われるのはネットの書き込みで知っていた。
スポーツ紙にも “中島みゆき27年ぶり「世情」!2年ぶり全国ツアーで披露”と載った。
中島さん26歳のアルバム 『愛していると云ってくれ』 に収録されていた曲。
これが一曲丸々 『3年B組金八先生』 に使われて有名になったことは知っていたが、
実は十年くらい前にビデオで初めて観た(何せ金曜夜8時といえばプロレスだった)。
なるほど、公にはもうシュプレヒコールが失われていた時代に、それでも個の中にその衝動はあるのではないかという「声なき声」を代弁した(と勝手に思っている)『世情』 も、こういう使い方があるものだと感心してしまった。
「この曲を書いて歌っていた頃と比べて本当に世の中変わりました。でも変わらないものは何も変わっていないんだと思います」と語りから入った 『世情』。
今回のコンサートにメッセージ性を見出すのならこの瞬間だったのではないか。
確かに、かつての「公」から「個」へと向けられていた曲が、再び「公」へと回帰することになった今の世情は、作られた当時よりも圧倒的に暗くなっている。
しかし 『世情』 で歌われた主人公みたいに、誰もが闇雲に突き進めるわけではない。
休憩前に歌われた 『風の笛』は、我慢し続けている人々への応援歌になっている。
この曲に、まるで初めて 『ファイト!』 を聴いたときのような共感を覚えてしまった。
『風の笛』 はニューアルバムに収録されている曲だが、またひとつ中島さんから名曲が生まれたことを実感する。
中島さんは応援歌という評価に違和感があるというが、激愛から慈愛へと深めていく中島みゆき史の中で、それらの曲に私自身も共感し、癒されているのだ。
同じ脈絡に 『倒木の敗者復活戦』 という新曲もあり、このニューアルバムは結構いい。
何度も聴いて馴染みのある曲をライヴで聴けるのは楽しいが、こうしてまだ耳馴染んでいない曲をライヴで認知していく作業もまた格別ではないか。
2012.11.15 東京国際フォーラム ホールA
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舞台・ステージ
2012-11-17T19:17:00+09:00
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映画 『 悪の教典 』
ハスミンというニックネームで呼ばれ、生徒たちから圧倒的な人気と支持を集める高校教師・蓮実聖司。
生徒だけでなく、ほかの教師や保護者も一目を置く模範的な教師だったが、その正体は他人への共感や良心を持っていない反社会性人格障害者だった。
その異常性格...
ハスミンというニックネームで呼ばれ、生徒たちから圧倒的な人気と支持を集める高校教師・蓮実聖司。
生徒だけでなく、ほかの教師や保護者も一目を置く模範的な教師だったが、その正体は他人への共感や良心を持っていない反社会性人格障害者だった。
その異常性格が発覚しそうになったとき、蓮見はクラスの生徒全員を抹殺する決意を固め、実行していった・・・!
まずは結論をいう。つまらなかった。
何故つまらなかったのかといえば、あまりにも単調すぎた。
何が単調だったのかといえば、全体的に工夫が足りない。
何の工夫が足りないのかといえば、
同じ展開のリプレイを繰り返し見せられて退屈だった。
以上、おしまい。
って、こんなレビューではさすがに「映画化は絶対に出来ないつもりで書いた」と語った貴志祐介にも、「蓮実聖司を愛するものとして」と題して文庫本に解説を添えるほど入れ揚げていた三池崇史にも失礼だろうか。
しかし真面目に三池崇史監督 『悪の教典』 についてのレビューを書こうとすると、
「映画と原作はまったく別モノ」という私の持論を曲げなければならない事態になりそうで困る。
ただでさえ、この週末は原作の映画化作品を三本続けて観て、結局、「原作と映画化」の呪縛から逃れられていない。
『のぼうの城』は「あらかじめ映画化を前提とした」原作があり、『黄金を抱いて翔べ』 は「映画化は考えなかった」原作があり、この 『悪の教典』 には先述の通り、作家が「とても映画にはならないだろう」と踏んで書かれた原作がある。
では「映画と原作はまったく別モノ」なる持論をここで箇条書きにして確認しておきたい。
一、まず大抵の場合において読書に要する時間よりも、映画の上映時間は短い。
ニ、日常の中で割いた時間の大小はかなり評価に影響する。
三、原作を読みながら、既にその人にとって最高の映像が頭の中で作られている。
四、その映像は予算に上限はなく、ありとあらゆるキャスティングが可能となる。
五、長編小説の場合は2時間足らずの枠に収められないので大概は端折られる。
六、原作は読者ひとりひとりの思い入れの中で完結するが、映画は不特定多数を相手に一定の満足度を目指さなければならず、最大公約数的になり勝ちとなる。
七、そもそも映画は小説の挿絵ではない。
以上は「原作と比べると映画は物足りない」といわれることへの反証でもあるのだが、
不思議な話、あまりにも原作に感じたイメージ通りの映画を作られると、かえってつまらなく思う場合がある。
いや、読者は一度頭の中で映画を作ってしまっているのだから、それをなぞられても退屈に思うのは当然か。
映画は原作の再現フィルムではないのだ。
しかし 『悪の教典』 はまず忠実な再現フィルムにはならない。
私が読んだ原作はニ段組700ページのぶ厚い新書版だった。
そのボリュームを2時間にまとめ、しかもクライマックスの殺戮シーンに40分もの時間を割くのだから、脚本も手掛けた三池崇史としては、この原作のどこを捨てるかという作業になる。
ありがちな手として複数のキャラクターを一人にまとめてしまうというのがある。
映画で山田孝之が演じた体育教師がなどはそうだろう。
間引くべき人間は間引いてしまって、登場人物をタイトに絞るのは鉄則だ。
さらに必要に応じてエピソードをスパッと切る。
中途半端につまみ食いするくらいなら丸々切ってしまった方がいい。
吹越満の釣井教諭が犯す妻殺しと校長のエピなどがそれに当るのだろうか。
・・・って、ちょっと待てよと。
さっきから「映画と原作はまったく別モノ」と書いておきながら、思いっ切りそのことばかり書いているではないか。
思えばあまりの面白さに、あのボリュームを一気読みしたのが二ヶ月前。
「別モノ」と割り切つて、真っ白な状態で映画 『悪の教典』 を観るには、まだまだ原作の記憶が生々しすぎる。
逆に、まったく内容を知らないまま、この映画を観る人の気分が想像出来ない。
本当はそういう気分にならなければいけないのだが、多分それは無理だ。
もしかしたら、映画によって 『悪の教典』 に初めて触れたのだとすれば、「単調でつまらない」 「工夫が足りない」などという感想は出てこなかったのかもしれない。
それでは本末転倒もいいところで、「語るに落ちる」とはまさにこのことだ。
しかしそれを割り引いても40分の殺戮場面は退屈過ぎるのではないだろうか。
まず散弾銃で殺しまくる蓮実と、殺されるがままの生徒たちの関係がひどく単純だ。
校舎という階層のある密閉した空間が生かされていない。
階段は出てくるがワンフロアにしか見えないので、生徒の視点からサイコパスがすぐそこに迫っているという恐怖が今ひとつ希薄なのだ。
原作では(と、また書いてしまうが)、机をジグザグに築いたバリケード、エレキギターによる感電、階段に油を撒いた罠、AEDによるドンデン返しなど、とかく単調になりそうな場面を蓮実と生徒たちの攻防をバリエーション豊かに引っ張っていたが、映画ではそこまでやる余裕はなかったのかも知れない。
確かに大勢の生徒たちの弾着をつけての一発勝負は並大抵のことではなかっただろうが、アクションやバイオレンスに定評のある三池崇史にしては、随分とつまらない画を撮ったものだと思う。
ハスミンを演りきった伊藤英明については、サイコパスであっても全編、カッコをよく爽やかでなければならないので、自然演じられる役者は限られてくる。
不気味過ぎても、大芝居になり過ぎても困るとなれば、まぁ適任だったのではないか。
ただ三池崇史の「アンソニー・パーキンスか伊藤英明か」は大袈裟だったと思うが。
2012.11.11 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-11-12T23:59:00+09:00
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映画 『 黄金を抱いて翔べ 』
面白かった。まず間違いなく今年のキネ旬ベストテン入りは確実だろう。
本屋大賞やミステリー大賞など最新のベストセラー小説が次々と映画化され、
書店に行けば「映画化コーナー」の棚にズラリと原作本が並んでいる中で、
22年前の高村薫のデビュー作に挑んだ井筒...
面白かった。まず間違いなく今年のキネ旬ベストテン入りは確実だろう。
本屋大賞やミステリー大賞など最新のベストセラー小説が次々と映画化され、
書店に行けば「映画化コーナー」の棚にズラリと原作本が並んでいる中で、
22年前の高村薫のデビュー作に挑んだ井筒和幸。
ずっと温めていた企画が、ようやく念願叶っての映画化となったらしい。
高村薫の原作は好みゆえ当然読んでいる。しかし数十年前の読書なので、さすがに細かい部分は忘れていたが、常に登場人物たちの心情をとことん掘り下げ、綿密に筆を進めていく高村薫にしては随分とアクションに特化した小説という印象だった。
憶えているのは銀行の地下金庫から金塊を強奪する計画を立てた男たちがいて、
近隣の変電所を爆破した隙にそれを実行するという大雑把なことくらいで、
北朝鮮の元工作員やら左翼の過激派やら、肝心の幸田の生い立ちにまつわるエピソードなどは綺麗さっぱり記憶から抜け落ちていた。
つまりは映画観賞にはわりとベターな条件が揃っていたわけだ。
そして井筒が目指したのは(或いはこの原作から得ようとしたものは)、ひたすら骨太な男性映画を指向することであり、それは見事に達成されたのではないかと思う。
とにかく男の体臭がムッとする映画に仕上がった。
言い方を変えれば男騒ぎする映画であり、「男は本当に馬鹿だ」と思わせる映画だ。
そもそも金塊強奪の話となれば、コンピューターの管理システムをハッキングして、
システマティックに計画を実行するのが今の犯罪映画の見せ方になっているのだが、
ダイナマイトで防犯扉を爆破し、金庫をバールでこじ開けるあたり、驚くべきアナクロ二ズムで徹底されている。
そう、犯罪の計画と実行を描くという娯楽映画の王道のような内容なのだから、
爆破の一つやニつやらねぇと娯楽にならんだろうという潔さがこの映画を支えている。
せっかく銀行本店のコンピューターに侵入できるエンジニアが居ながら、彼がやったことといえば、エレベーターの駆動を制御することと、ダイナマイトをセットすることだけというのは笑ってしまうのだが。
幸田は北川から大阪市の銀行本店地下にある金塊強奪計画を持ちかけられる。
メンバーは他にシステムエンジニアの野田、北朝鮮の工作員モモ、北川の弟・春樹、元エレベーター技師のジイちゃん。
しかし、計画の過程で謎の事件が次々と発生。
そこにはお互い知らない、それぞれの過去が複雑に絡み合っていた・・・。
そもそもワケありのメンバーたちで固められた金塊強奪計画だ。
計画が実行するまで、本筋の計画以前に様々な妨害が彼らを待ち受けている。
幸田は過去の武器調達などで左翼過激派へのしがらみを引き摺り、
祖国を“脱藩”した北朝鮮の元工作員のモモは、実兄を射殺し、日常的に二重スパイやら、刺客などの脅威に晒されている。
リーダー格である北川と弟の春樹も場当たり的にヤクザと悶着の渦中にあり、それが金塊強奪直前に想定外の悲劇に見舞われることになる。
この映画が徹底的に珍しかったのは、着々と計画を遂行する過程で、実行日まで彼らは生き残ることが出来るのかという矛先にドラマトゥルギーを持っていったことにある。
「はじめに金塊ありき、我々と共にありき。我々の結束は肉の欲によらず、ただ金塊によって生まれしものなり」と金塊強奪計画をメンバーに宣言したリーダーの北川。
しかし妻子を殺され、弟を貧死の目に遭わされながら、いつしか北川は金塊を手にすることよりも、計画を実行することが目的となってしまったのではないか。
「人間の住んでいない土地で死にたい」と願う幸田のニヒリズム。
幸田が北川と「黄金を抱いて翔ぶ」ロマンを共有していたかといえばどうなのだろう。
モモも自己破壊への衝動で北川たちの仲間に入るが、金塊への執着は見えてこない。
借金返済というシケた目的を持つ野田は別としても、春樹しかり、ジイちゃんしかりで、
メンバーの誰一人として金塊そのものに執着するメンバーがいないという異常。
第一、彼らは金塊強奪のエキスパートでもなんでもない。
それでもこの計画だけは止められないのだというどうしようもなさ。
そもそも「綿密にやるが細かいことまでは決めない」のが方針の金塊強奪計画。
彼らが場所も構わず計画を口にするものだから、会話を聞き齧った大阪のオバちゃんから鋭いツッコミを入れられる体たらくだ。
この大胆だが杜撰な計画はそのまま「この映画は細々とした説明は省いて進んでいきますよ」という井筒の方針に置き換えられるのではないだろうか。
それゆえに、彼らは次々と場当たり的なバイオレンスに遭遇してしまう。
そして、間違いなくその副産物ともいえるバイオレンスの数々が映画に狂ったような活気を与えていた。
頭を短く刈り込んでクール&ホットに北川を演じた浅野忠信も凄かったが、
満身創痍で鬱屈とした表情を全編で漂わせていた妻夫木聡も凄かった。
『アウトレイジ ビヨンド』での加瀬亮もそうだが、バイオレンスという素材を与えられた男優たちが躍動しているのは今後の日本映画にとって悪い傾向ではない。
その『アウトレイジ ビヨンド』のチンピラ役でいい味を見せた桐谷健太は、ここでは一転してネイティブな大阪弁を駆使してこの映画に最高のアクを与えている。
先ほどの鋭いツッコミを入れたオバちゃんではないが、『黄金を抱いて翔べ』の世界観は大阪が舞台だから成り立っているのは明白だ。
イケメンのチャンミンや溝端淳平を目当てに劇場にやって来た女の子たちが、
男の汗臭さプンプンの映画にどこまで着いてこられるかはまったく定かではないが。
2012.11.10 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-11-11T13:10:00+09:00
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http://blog-zatopek11.net/?eid=393
映画 『 のぼうの城 』
北条征伐を天下統一の仕上げと定めた豊臣秀吉から「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」と命じられた石田三成は、五百人の兵が残った忍城に対し二万超の軍勢を率いて攻める。城主・成田長親は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁も勇もないが...
北条征伐を天下統一の仕上げと定めた豊臣秀吉から「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」と命じられた石田三成は、五百人の兵が残った忍城に対し二万超の軍勢を率いて攻める。城主・成田長親は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁も勇もないが、しかし、誰も及ばぬ「人気」があった。そして城は簡単に落ちるはずだったのだが・・・。
映画は原作の良いところも悪いところもそのまま反映された。
だから映画の感想が、原作の感想とかぶらないようにしなければならない。
別に原作と比べてどうのこういうつもりはないが、もともと和田竜の小説は城戸賞を受賞した脚本(まだ存在していたのか、この賞・汗)の書き起こしだったので、原作と映画化の関係性からすれば、そのまま反映されるのは当然の結果なのだろう。
和田竜の小説『のぼうの城』は歴史小説として人物の掘り下げも深みも物足りないものだったが、映像を想起させるスケール感があった。
しかしそうなると小説の読者が脳裏に思い浮かべた映像との勝負になる。
これはかなり製作者にとってハードルの高い話だ。
なにせ読者の頭に浮かぶ映像には予算の上限もなく、もの凄い豪華キャストが可能になる。
別に俳優だけではない。昔の担任教師だったり、親戚のおばちゃんだったりするのだから、これはかなり強敵だ。
監督は犬童一心と樋口真嗣のW演出。犬童一心は自分世代の映画青年にとっては8mmですでに有名人だったが、PFF出身の映像作家として大きな映画に起用されるなど、かなり成功した監督なのだろう。
しかし樋口真嗣の名前は前面に出してほしくなかった。
これで「本作はふんだんに特撮とCGを使ってますよ」とバラしてしまったようなもの。
別にこの時代に古き良きハリウッドばりに映画会社が社運を賭けるような大スペクタクルを望むほどアナクロではないし、今時CGを一切使わない映画の方が珍しくなっているのは知っているにしても、初めからCGありきだと思わせてしまうのは非常に白ける。
『ガメラ』や『日本沈没』なら許せるものが、戦国絵巻でこういうウリはないと思うのだ。
その石田三成の忍城水攻めの特殊撮影の場面は思っていたほどでもなかった。
それほど東日本大震災での津波映像が強烈だったこともあるが、総じて全体的に特撮映像に厚みがなかったように思ったのは私だけだろうか。
ただ私はクリエーターの出来不出来で、映画をどうこう評価するつもりはない。
たとえこれがびっくりするぐらいの迫力満点の映像だったとしても、所詮はCGじゃないかとしか思っていないからだ。
・・・何だか映画がどんどんつまらなく思えてきて困ったものだ。
原作の成田長親が巨漢のでくの坊と説明されていたこともあって、成田長親に野村萬斎という配役はピンとこなかった。さらに石田三成の上地雄輔も大谷吉継の山田孝之もないと思っていた(あとの配役はまぁこんなものだろうなと)。
ところが野村萬斎ののぼう様は完全にはまった。
少なくとも原作を読みながら頭に描いていた長親像は完全に裏切られた。
こういう裏切りは大歓迎だ。
自ら敵の的となって場外の農民を鼓舞する田楽踊りはこの物語のクライマックスだが、これはもう狂言師・野村萬斎の本領が発揮され、説得力も十分だ。
滑稽芝居はもともとお手のものだが、何よりも口跡が素晴らしく、後半は少々二枚目過ぎた感はあったものの、映画にとって何者にも代えられない存在感で、体躯の違いなど実にくだらぬことだったと納得させられる。
更に三成と吉継を演じた上地雄輔と山田孝之もあまりにも良くてびっくりした。
実はこの『のぼうの城』という物語は長親のワンマンショーではあるが、後味の良さを支えていたのは三成と吉継の存在だ。
彼らをステレオタイプの敵将に描いてしまうと、戦国武将の潔さが台無しとなるどころか、対する坂東武者たちの心意気も半減してしまうところだった。
どちらかといえば一本気な忍城側と比べ、何かと屈折している三成の青さを上地はよく演じたと思うし、その三成を諌めながらも魅かれてゆく吉継の葛藤を抑えた芝居で山田も健闘していたのではないか。
オープニングの秀吉による備中高松城の水攻めでのあんまりなチープな画面作りを見て、おいおい大丈夫かいなと案じてしまったものの、全体的には満足の行く出来ばえだったのではないだろうか。
何年前、関が原の合戦場を訪ね、三成と吉継の陣営を見て回ったときに、ともに討ち果てた二人の武将に古えの思いを馳せたものだったが、それよりも以前にこの二人が埼玉県の北部でここまで大規模な合戦を仕掛けていたことは『のぼうの城』を読むまではまったく知らなかったことだ。
石田堤など名残りの史跡がエンディングで紹介される。
以前、仕事で行田市にも何度か足を運んだものだったが、もしかしたら私も忍城ゆかりの佐間口や長野口という交差点を通過していたのかもしれない。
2012.11.9 TOHOシネマズ スカラ座
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映画
2012-11-10T01:26:00+09:00
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http://blog-zatopek11.net/?eid=392
映画 『 終の信託 』
不倫関係にあった同僚医師に裏切られ、自殺未遂を起こしてしまった呼吸器内科の医師・折井綾乃。
重度の喘息患者・江木泰三に心の傷を癒される中で、互いに惹かれ合うものを感じるが、病状が悪化の一途を辿っていた江木は「最期のときは先生に早く楽にしてほしい」...
不倫関係にあった同僚医師に裏切られ、自殺未遂を起こしてしまった呼吸器内科の医師・折井綾乃。
重度の喘息患者・江木泰三に心の傷を癒される中で、互いに惹かれ合うものを感じるが、病状が悪化の一途を辿っていた江木は「最期のときは先生に早く楽にしてほしい」と、綾乃に願いを託すのだった。
ポスターのメインコピーは
-----“ 医療か? 殺人か? ” -----
しかし、果たして周防正行はそんな社会派の映画を撮ったのか。
私にはどうもそれは違うような気がしてならなかった。
そういう事件性よりも、もっと根源的な不条理というか、
「草刈民代の生理の中で世の無常観を描いた映画」
何となくそんな感じを抱きながら、エンドロールを眺めていた。
もちろん痴漢か冤罪かを描きながら、司法権力の硬直さを追及した前作『それでもボクはやってない』は完全な告発映画で、周防にそういう素養があるのは認める。
しかし過去のフィルモグラフィにおいて、ロック青年に僧侶の修行をさせ、相撲部の滑稽さを描き、サラリーマンが社交ダンスに目覚める映画を撮ったのと同じ脈絡で、あれは痴漢の被疑者となった青年が有罪に処せられるまでを丹念に積み重ねながら、なかなか知り得ない司法システムを興味深く見せたエンターティメントだったと思っている。
そう、告発映画といっても周防正行は熊井啓的な価値観にはならない。
馴染みのない世界を面白おかしく描く作風といえば、伊丹十三という先達者がいる。
周防は『マルサの女』のメイキングビデオをヒットさせた実績から、彼は伊丹の継承者だというのが私の評価だった。
しかし『終の信託』は今までの周防作品とまるで違う。
まず『Shall we ダンス?』ではお人形さん扱いとしてのみ存在していた草刈民代を徹底的に追い込んで見せる。
セックス場面では乳房を晒し、嘔吐の場面では吐瀉物まで見せ、まぶたが腫上がるほど泣き喚かせる。
草刈は全編ずっと目の下の隈と、加齢から来る顔の弛みを隠そうとしない。
まるでかつて新藤兼人が妻の乙羽信子に設えた試練を彷彿とさせるほど徹底的ぶりで、
折井綾乃という役柄よりも草刈民代の生理を全編に渡って見せられた気分だった。
まず草刈民代は演技が下手。台詞回しも驚くほど拙い。
それでも表現者としての豊富なキャリアで、決して流暢ではない台詞回しが新劇出身の女優では表現できないリアルさを醸し出す。
台詞の掛け合いでは役所広司がリードしている感じだったのが、
次第に草刈の醸すリアルさに役所が受けに回っている風さえ窺える。(それが出来る役所広司も改めて巧いと思った)
また、冷徹な検事を演じて助演男優賞ものだった大沢たかおも、ある意味、草刈のリアルと対峙したことで、あの圧倒感が生まれたのではないかとさえ思う。
そもそも周防は原作ものを手掛けるのは久々ではないだろうか。
周防は小説のページを開いた瞬間から映画化への道筋を予感したのだという。
どの段階で折井綾乃に草刈民代という発想が閃いたのかどうかはわからないが、
久々に映画監督が主演女優との関係性の中で、監督が女優に負荷を与え続けることによって虚飾を剥ぎ取り、高みへと昇りつめていくような映画を味わうことができた。
綾乃に残されたものは終末医療の倫理観でもなければ、検察当局の不条理などでもなく、
地位も愛も失った徒労感ではなかったか。
江木との約束を果たした安堵感があるのだとすれば、それが彼女にとって唯一の救済となるのだろう。
周防が敬愛する小津安二郎の映画に『小早川家の秋』という作品がある。
あの映画のラストで小津がこめた無常観に『終の信託』は肉薄していたのではないか。
デビュー作のピンク映画『変態家族・兄貴の嫁さん』で、小津映画へのオマージュを捧げて冒頭から爆笑させてもらったが、とうとうそこまでの映画監督になったのかと思うと感慨深い限りだ。
人それぞれ好みはあろうとも、私は『終の信託』を周防正行の最高傑作だと信じている。
2012.11.6 TOHOシネマズ錦糸町
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映画
2012-11-09T23:59:00+09:00
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http://blog-zatopek11.net/?eid=391
映画 『 中島みゆき 「歌姫」 劇場版 』
スクリーンで中島みゆきを観てきた。しかも本日は暮れのコンサートツアーの先行抽選の結果がメールに入る。
当選祈願も兼ねてシネコンの座席に腰掛け、「頼むぞ」とスマホの電源を落とした。
▲▲▲収録曲▲▲▲
◎第1部 プロモーション・ビデオより
おだやかな...
スクリーンで中島みゆきを観てきた。しかも本日は暮れのコンサートツアーの先行抽選の結果がメールに入る。
当選祈願も兼ねてシネコンの座席に腰掛け、「頼むぞ」とスマホの電源を落とした。
▲▲▲収録曲▲▲▲
◎第1部 プロモーション・ビデオより
おだやかな時代
見返り美人
黄砂に吹かれて
空と君のあいだに
囁く雨
愛だけを残せ
一期一会
◎第2部 中島みゆきライブより
この空を飛べたら
地上の星
土用波
銀の龍の背に乗って
この世に二人だけ
夜行
歌姫
そして第3部として、新曲「恩知らず」のPVと昨年のコンサートツアー2010からのライブで「時代」。以上16曲。
昔はよくフィルムコンサートやライブ映画などがあったものだが、今はデジタルの時代となって映画館でライブの生中継が観られる時代だ。
そのデジタルの時代に昔のPV(プロモーションビデオ)を何本か重ねて、DVDになっているロスでのスタジオコンサートという構成は一本の“劇場映画”としてはかなり安易に作られているなという印象。
せめて入場料2000円をとるならオリジナル映像のひとつでもつけて欲しかった。
PVもアナログ撮影のためか大きなスクリーンではかなり画質が厳しく、音だけはまぁ良かったのが救いだったか。
おそらく中島みゆきが大して好きではない人が付き合いで観ることになっていたらお気の毒だという代物ではあった。
その点、自分の場合はファンなので、「見返り美人」の金のかかった映像を久々に堪能できたし、お初にお目にかかった「囁く雨」に新鮮な感動を見つけて、その点では良かったと思う。
画質の点でいえば、やはり第二部のロサンゼルスのスタジオライブからデジタルの本領が発揮される。
このロスのライブもYouTubeなどで簡単に見られてしまうのだが、海外の一流アーチストをバックにやや緊張気味の中島さんの息遣いが感じられてスクリーンの大きさが生きたのではないだろうか。
まだ二十歳代の中島さんがテレビ番組で加藤登紀子と競演した「この空を飛べたら」など、当時は大御所に何とか食らいつこうと一生懸命だった微笑ましい動画が今もYouTubeで見られるが、それを思い浮かべながら聴く「この空をとべたら」はファンとしては一興だった。
つくづくご自身がすっかり大御所の風格を身につけたものだ。
白眉は「銀の龍の背に乗って」だろうか。これも名曲で、この間のコンサートでも披露されたが、歌い出しの「はっ」とする声の艶といい、楽曲への集中力といい、このロスでのライブが一番いい。
もっとも愉快だったのが、昔ながらのみゆき節の真骨頂と思われる「この世に二人だけ」を海外アーチストたちがバックで合わせていく姿だったりもするだが・・・。
コンサートツアー2010でアンコール前のフィナーレで歌った「時代」。
このライブ映像は本邦初公開ということで、『 中島みゆき「歌姫」劇場版 』の目玉なのだそうだが、確かに東京国際フォーラムのステージを思い出させてくれる。
♪まわる〜まわるよ時代はまわる〜喜び悲しみくり返し
思えば70年代に二十歳そこそこの中島さんが歌った頃には、「時代」はあくまでも模索であり、願望に過ぎないはずだった。
今は「時代」に対する確信があり、ある種の達観がある。
コンサートでは「おお、ここで「時代」が来るか!」との驚きで終わってしまったが、スクリーンで大写しになった中島さんの「時代」を聴きながら、歳月の重みがズシンと胸に迫ってくるようだった。
映画が終わって、道玄坂を渋谷駅に向かいながらスマホの電源を入れる。
「ヨッシャ」。今年も中島みゆきコンサート行きます。
2012.10.19 TOHOシネマズ渋谷
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映画
2012-10-27T12:14:00+09:00
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映画 『 アウトレイジ ビヨンド 』
「北野映画」がブランドに昇華していく過程と、私が映画館から遠のいていく過程が重なってしまい、北野武監督作品を劇場で観た本数はそれほどでもない。
監督デビューの『 その男、凶暴につき 』 『 あの夏、いちばん静かな海。』 『 BROTHER 』 『座頭市 』 くらい...
「北野映画」がブランドに昇華していく過程と、私が映画館から遠のいていく過程が重なってしまい、北野武監督作品を劇場で観た本数はそれほどでもない。
監督デビューの『 その男、凶暴につき 』 『 あの夏、いちばん静かな海。』 『 BROTHER 』 『座頭市 』 くらいか。
しかし 『 座頭市 』 は今一つ感心しなかったが、たかが4本ほどの北野映画体験ではあってもどれも強烈な印象が残っている。
何というか、自分の中で熟成してしまった「娯楽映画の定義」というものが微妙にズラされていく居住まいの悪さとでもいうのか、こうくればああなるだろうという決めつけが嵌ってくれない不快感と驚きみたいなものが常にあった。
簡単にいってしまうと北野映画は先読みが難しいこともあるが、別にストーリー展開の予測が出来ない映画を撮り続けているというよりも、カットからカットへと移行する編集のリズムが既成の映画概念では測れないオリジナリティに満ちているのは強く感じていた。
しかし今回 『 アウトレイジ ビヨンド 』 で十年ぶりに北野映画を観て思ったのは、かなりこちらの予測通りに映画は流れて行きつつ、娯楽映画の常道からそれほど外さないまま、一定の高揚感は獲得していたということだった。
確かに 『 その男、凶暴につき 』 から23年。北野武も立派なベテラン映画監督だ。
変な書き方だが「こういう常道も行けますよ」と、満天下に知らしめるためにこれを撮ったのではないかと気さえする。
もちろん常道ではあるが、『 アウトレイジ ビヨンド 』 は決してやくざ映画の王道ではない。
このジャンルを浴びるほど観てきた私にとって、このやくざ映画はやはりひと筋縄ではいかないものは感じる。
やくざ映画は鶴さん、健サン、お純さんの任侠ものは当然として、深作欣ニの実録ものであっても徹頭徹尾ウェットな世界だった。それは『 仁義なき戦い 』 然りで、かなりドライな領域に踏み込んだ『仁義の墓場』 であっても、プログラムピクチャーの枠組みの中でのスター映画だった。
変な話、私はやくざ映画で涙ぐむことはあっても、恐いと思ったことは一度もない。
その時点で東映や日活のやくざ映画はバイオレンスを描いていたとしても生の「暴力」を感じさせる映画ではなかった。
『 仁義なき戦い・代理戦争 』で川谷拓三が手首をぶった斬るというショッキングな映像も、痛みよりも「拓ボン、阿呆や」という場内の笑いの中に埋没され、あのムーブメントの「祭り」の余興に過ぎなかったのではないだろうか。
やくざ者に追い詰められていく恐怖感は、やくざ同士が抗争を展開する段階で相殺されてしまう。だからやくざ者が恐ろしいと思わせる映画は、ジャンルの違う映画にやくざが登場するときであって、決してやくざ映画ではなかった。
それは 『 アウトレイジ ビヨンド 』 で西田敏行や中尾彬がいくら凄んだ芝居をしたところで、「おっ、やってんな」と思うだけでリアリティは感じることが出来ないのと同じ脈絡であり、今まで北野映画に感じていた居住まいの悪さや、嵌ってくれない不快感を殆んど感じさせないまま映画は112分を駆け抜けたという感じではある。
その点で既成の北野映画のファンはある種の物足りなさを感じるのかもしれない。
確かに(ビデオでの鑑賞だが)『3―4×10月』でベンガル扮するやくざが堅気に追い込みをかける場面の得も言われぬ恐怖感を描き切るセンスに感心した人たちには 『 アウトレイジ ビヨンド 』 は普通のやくざ映画なのかもしれない。
しかしやくざ映画のウェットな「祭り」に身を置いていた私には、このカラカラに乾いたドライさはやはり異様な世界観ではあった。
現実問題、今、暴対法でがんじがらめにされている暴力団が衆人環視の中で派手にマシンガンをぶっ放すなどはファンタジーの世界ではあるのだが、例えばバッティングセンターでチンピラが堅気の若者に嫌がらせをする場面などは北野武の独壇場ではなかったか。キャンキャン吼えまくる加瀬亮の不快指数満点の芝居と併せて、それが徹底的にドライに行われることでストレスが蔓延していくリアリティは特筆すべきだろう。
もう一度言うがこの映画はやくざ映画の常道ではあるが、王道ではない。
まぁ北野映画あるという前提で、それは当たり前のことでもあるのだが、常に過去の北野映画の既成概念が求められのは、北野武にとってもあまり幸せなことではいだろう。その意味ではファンや評論家たちの中で北野映画の王道は作られているのかも知れないが。
2012.10.13 TOHOシネマズららぽーと横浜
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映画
2012-10-19T23:59:00+09:00
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映画 『 天地明察 』
冲方丁の原作を読みながら、これは絶対に映画化されると確信していた。
それくらい面白い時代小説だった。
おそらく「本屋大賞」が発表された段階で映画化権の争奪が始まったと思うが、
そこは角川映画。もともと単行本は角川書店なので、映画化までの流れは早い段...
冲方丁の原作を読みながら、これは絶対に映画化されると確信していた。
それくらい面白い時代小説だった。
おそらく「本屋大賞」が発表された段階で映画化権の争奪が始まったと思うが、
そこは角川映画。もともと単行本は角川書店なので、映画化までの流れは早い段階で想定されていたか。
その意味で 『おくりびと』 のように滝田洋二郎側からの持ち込み企画だとは思いにくく、会社依頼を引き受ける形で撮った映画に違いない。
スケールからしても少なからぬバジェットを必要とされるので、映画化には一定のポテンシャルが要求される。
滝田の職業監督としての手腕が問われる映画化だといえるだろう。
泰平の世。星を眺めるのが何よりも好きで、算術にもたけていた安井算哲は碁打ちとして徳川家に仕えていたが、会津藩主の保科正之の命を受け、北極出地の旅に出ることになる。算哲らの一行は全国各地をくまなく回り、北極星の高度を測り、その土地の緯度を計測するという作業を続けるうち、公家が司る暦のズレに気づくことになるのだが・・・。
映画化が発表された段階ではそれほど食指は動かなかったが、
夏前頃から始められた劇場予告編を観て、本編を観てもいいかなと思い始めた。
画面から窺えるスケール感と久石譲の音楽が上手にシンクロして、水準以上の出来であることが直感されたからだ。
映画を観終わった後の感想は予告編で感じた水準を上回るものではなかったが、
それを残念に思うほど悪い映画ではなかった。
たまに琴線を刺激される場面もあったが、北極地探索をともに旅する伊藤重忠、建部伝内を演ずる岸部一徳と笹野高史の飄々としたやり取りで笑わせる。
こういう脇の役を光らせることで映画の厚みが何倍にも増すという好例だ。
総じて原作の面白さを丁寧に拾っていった滝田としても、無難に職業監督の役割を全う出来たということだろう。
惜しむらくは「時間」をテーマにしながら、映画の中の「時間」がストーリー上の「時間」とが噛み合っていなかったことか。
北斗七星が北極星の周りを一巡する時間や、日や月が翳る「蝕」の間隔がかなり拙速な印象をもつ。
これは映画のテーマとかかわってくることなので、その時間軸の同期には配慮してほしかった。
早い話、成長物語なのだから、歳月というものをもっとわかりやすく見せてもよかったのではないか。
実は原作を読み終わって映画化を確信しながら、
一年かけて大河ドラマとして放送しても面白いのではないかと思ったくらいだ。
安井算哲に岡田準、妻のえんに宮崎あおい。
他にも保科正之に松本幸四郎、水戸光圀に中井貴一、関孝和に市川猿之助、敵役の宮栖川友麿に市川染五郎助など主役級が顔を揃える。
絶好調の岡田は、やや時代劇の主役としてはマスクのバタ臭さが気にならないでもなかったが、それをうまく補ったのが低身長と、宮崎あおいの巧みな受けか。
うん、彼女はいい。同じく本屋大賞受賞の原作 『舟を編む』 でも抜群の内助の功を発揮することだろう。
憎々しいお公家を演じた市川染五郎も特筆すべき。こういうのが梨園の底力なのだろう。
2012.10.13 TOHOシネマズららぽーと横浜
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映画
2012-10-14T03:06:00+09:00
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映画 『 濡れた唇 』
1972年製作。神代辰巳の記念すべき日活ロマンポルノデビュー作だ。
『恋人たちは濡れた』への再見をあえて堪えた私ではあるが、この未見のデビュー作を観られる機会だけは外すことは出来ない。仕事帰りに夜9時15分開始のユーロスペースでのレイトに駆けつけた。
私...
1972年製作。神代辰巳の記念すべき日活ロマンポルノデビュー作だ。
『恋人たちは濡れた』への再見をあえて堪えた私ではあるが、この未見のデビュー作を観られる機会だけは外すことは出来ない。仕事帰りに夜9時15分開始のユーロスペースでのレイトに駆けつけた。
私がロマンポルノを観てきたピークは高校から、浪人、大学時代の前半。当時、名画座を探していても『濡れた唇』の上映はそれほどなかったように記憶している。
何せこのジャンルは当時は一週間3本立てのローテーションでフル回転状態だった。
映画館が新作、準新作の上映だけでプログラムを埋められるだけのポテンシャルは十分に備わっており、確か入場料1200円ほどの日活の封切り館があって、新作落ちをかける二番館があったとすれば、私は更にその下の300円3本立ての三番館以下に通っていたのだから、そのランクの客にあえてプリントが消耗した小難しい神代辰巳の初期作品を観せるという発想はなかったに違いない。
私がその当時から感じていたことは、優れた女性映画を男の観客たちが独占していることの矛盾と、映画雑誌などで絶賛される神代辰巳と、それを上映している小屋の空気感とのギャップだった。
主演は絵沢萌子。調べてみないとわからないが、唯一無二の主演映画なのではないかと思う。ロマンポルノに関わらず広く一般映画でも活躍し続けた名脇役だといってもいい。
神代辰巳のデビュー作と書いたが、正確には日活がロマンポルノに移行する以前の一般映画で監督デビューを果たしており、『濡れた唇』はあくまでもロマンポルノ第一回監督作品。その一般作デビュー『かぶりつき人生』があまりにも不入りだったため神代は日活の怒りを買って何年間か干されていたのは有名な話で、ロマンポルノ路線に踏み切ったことで、水を得た魚のように躍動したことはどの神代辰巳プロフィールでも紹介されていることではある。
そして日活ロマンポルノは究極のスターシステム路線だったのだから、主演が当時33歳の絵沢萌子であるという時点でこの第一回作品はまったく期待もされない添え物扱いだったことも窺える。
材木屋で働く金男はコールガールの洋子を見て一目惚れし、洋子のもとに転がり込む。しかし洋子のヒモが現れ、もみ合っているうちに撲殺してしまった。金男は洋子の故郷に逃亡するが、幼なじみの清からすでに警察が来ていると知らされる。清と恋人の久子が加わり、四人での逃避行が始まった・・・。
絵沢萌子はもともと芝居が上手く、彼女の存在感だけで最後まで引っ張られてしまうのだが、正直、内容はロマンポルノ以前の日活ニューアクションで原田芳雄、藤竜也、梶芽衣子たちが織りなした不良性感度の高い反体制の青春ものから、権力への激しい怒りを抜いた軟弱で牧歌的な仕上がりだったという印象だった。
一応、全共闘の熱気から取り残されたシラケた空気を感じさせる場面など、後の『青春の蹉跌』の萩原健一と桃井かほりの道行を彷彿とさせ、逃避行で辿り着いた田舎の風景で姫田真佐彦のロングショットなど「ほう」とさせるカットも散見される。
しかし全体的な作りの甘さは如何ともしがたく、思わず苦笑してしまうこところもあった。
評判の夜汽車でのセックスシーンも、その後の神代映画で観てきた濃密度からはまったく及ばすといった具合に、神代辰巳を狂信する先輩方には申し訳ないが、中途半端に神代ロマンポルノに被った世代には、神代辰巳が助走している過程の映画という資料的価値しか見出すことは出来なかった。
それでも絵沢萌子が全編で口ずさむ春歌の情感など、その助走ぶりは悪くない。感銘もなく面白くもなかったが、誰が見ても神代辰巳のリズムであることは納得できるのではないか。
何よりもこの映画の次に撮ることになったのは日本映画の金字塔ともいえる『一条ゆかり・濡れた欲情』なのだから。
2012.9.21 渋谷ユーロスペース
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映画
2012-10-12T23:59:00+09:00
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映画 『 四畳半襖の裏張り しのび肌 』
「男も女もアレしかないんよ、バンザイ」
芹明香がぶっきらぼうに叫んで、映画はぶつ切れのように幕を下ろす。
渋谷・円山町、23時 ------。
映画館の暗闇からいきなり若い奴らの嬌声がかまびすしい道玄坂へと放り出されるのが嫌で、ラブホテル街から裏道を通り抜...
「男も女もアレしかないんよ、バンザイ」
芹明香がぶっきらぼうに叫んで、映画はぶつ切れのように幕を下ろす。
渋谷・円山町、23時 ------。
映画館の暗闇からいきなり若い奴らの嬌声がかまびすしい道玄坂へと放り出されるのが嫌で、ラブホテル街から裏道を通り抜け、京王線の神泉から道玄坂に戻って渋谷駅のターミナルに辿り着く。
太鼓持ちを目指し猥歌の練習に励む正太郎の「ででんでんでんでん」というリズムがまだ耳に残っていて、それが眩い都会の光に邪魔されずに済んだのが心地よかった。
1974年製作日活ロマンポルノ『四畳半襖の裏張り/しのび肌』。初めて観る。
何の気なしに渋谷駅で途中下車した段階では、まさかこの映画を観ることになるとは思ってもいなかった。
渋谷のユーロスペースの前で「今夜21時15分レイト上映」の小さな告知をよくぞ見つけたものだと思う。
監督・神代辰巳。この人の映画を最後に映画館で観たのは『恋文』以来ではないだろうか。そうなるとほぼ30年近くの邂逅となる。
いや、ここで神代辰巳を、日活ロマンポルノを懐かしむ方向へ流れ出すとキリがないので止めておくが、要はノンポリのバスケ少年を中途半端にドロップアウトした大人にさせた張本人のひとりだということはここに書き残しておきたい。
舞台は大正末期から日中戦争が勃発する昭和初期まで。
同じ旦那を持つ染八から赤ん坊を連れ去り、関東大震災のどさくさで自分の子として育てるところから物語は始まる。
「ちょっと旦那さん、あんまりじゃありませんか・・・」と蓮っ葉に拗ねる宮下順子の台詞回しにまずゾクっとさせられる。蚊帳越しの蒲団に包まっての情交は何でもありのAVとは比較にならないスケベを感じるのは、私がおっさんになってしまったからなのか。
とにかくそのものズバリがいとも簡単に閲覧できる時代にあって、ロマンポルノの秘められたエロチシズムのなんと芳醇なことだろう。
なにより画面の随所にこれがメジャーな撮影所で生まれた劇映画である実感に満ちている。
メインタイトルのバックである桟橋のロングショットを名カメラマン・姫田真佐久が目を奪うような構図で捉えれば、昭和初期の置屋のセットや調度品など美術、小道具など、活動屋たちの丁寧な仕事には感動を覚えるぐらいだった。
さて、正太郎と名づけられた子供は置屋の息子として育っただけに早熟。
他の芸者の布団に潜り込むが、皆「まだ子供だから」と黙認しているうちに、芸者の小ふくお腹が膨らみ、手を焼いて預けた映写技師の奥さんの腹も膨らましてしまう。
小ふくは子供を産み育てるため、花清の旦那である小宮山に水揚げしてもらうことを決意し、花清はまたも心穏やかではなくなる・・・。
こんな展開で、中島丈博の脚本は全体的に艶笑喜劇という体裁をとっているのだが、神代辰巳は戦火が広がる不穏な時節に男と女の情欲の高まりを通して時代を炙り出していく。
そして田坂具隆監督の『土と兵隊』の戦場で泥まみれで闘う兵隊の映像を背景に、とんでもないスケベを描くという、かなり大胆な領域まで突き進んでいく。
一見するとキワモノとも、崇高な反戦映画とも思えてくるが、戦場を駆け巡ろうがなんだろうが、結局、男と女のスケベで人間は成り立っているのだという神代テーゼがすべてご託を凌駕してしまっている気さえしてくる。
確かに性描写自体は何でもありの今とは比べるべくもないが、おそらくセックスの大らかさを戦争と対比して相対化してしまう手法は現在では許容されないのではないだろうか。
自分の実感からも確実に70年代は今より遥かに自由だった。
ついでにいってしまえば、私が原田芳雄の遺作となった坂本順治『大鹿村騒動記』を全然評価していないのは、土着の「生」や「祭り」をテーマにしながら、「性」をまったく描けなかった点にある。
2012.9.10 渋谷ユーロスペース
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映画
2012-09-11T23:28:00+09:00
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映画 『 あなたへ 』
高倉健6年ぶりの主演最新作。
十代の頃からずっと健サンを観続けてきた身として、“ 高倉健80歳 ” という現実にまず打ちのめされてしまう。さらに今の私が 『 居酒屋兆治 』の頃の健サンと同じ歳で、あの映画が30年も前の映画なのか思うともう眩暈がしてきそうだ
...
高倉健6年ぶりの主演最新作。
十代の頃からずっと健サンを観続けてきた身として、“ 高倉健80歳 ” という現実にまず打ちのめされてしまう。さらに今の私が 『 居酒屋兆治 』の頃の健サンと同じ歳で、あの映画が30年も前の映画なのか思うともう眩暈がしてきそうだ
思えば、当時の健サンの新作と名画座で仁侠映画を同時に味わいながら、フィルモグラフィを縦断する形で、「高倉健」が年代や年齢を超えて私の中で存在し続けた事実があり、それゆえに80歳という健サンの実齢を容易には受け入れ難いものがあった。
しかし健サンは主役しかやらない(できない)大スターであり、いわゆる健サンのブランドは「高倉健映画」というジャンルにまで昇華してしまっているので、そのつどの年齢に応じた健サンの変遷を辿ることは根本的に無意味なのではないかとも思うのだ。
おそらく80歳の健サンでも『 居酒屋兆治 』 は可能だし、50代の頃でも 『 あなたへ 』 は十分に成立する話なのだろう。
富山刑務所の指導技官・倉島英二のもとに、妻が遺した絵手紙が届く。
そこには「故郷の海を訪れ、散骨して欲しい」との想いが記されていた。
妻の故郷を目指すなかで出会う多くの人々。彼らと心を通わせ、彼らの家族や夫婦の悩みや思いに触れていくうちに蘇る亡き妻との何気ない日常の記憶の数々。
様々な想いを胸に目的の地に辿り着いた英二は、遺言に従い平戸の海に散骨する。
そのとき、彼に届いた妻の本当の想いとは……。
そもそもこの映画は、亡き妻の遺言を果たすため、長崎までキャンピングカーで旅に出る80歳の老人という話にはなっていない。
劇中の誰もが「倉島さん」とよび、決して「おじいちゃん」とは呼ばない。
いかめし販売員の草?剛に実演販売までも手伝わされる羽目になる場面も、決して若者にこき使われる老人という絵にはならないし、台風の夜にキャンピングカーで寝泊りするのを客間に誘う余貴美子や綾瀬はるかも80歳のご老体を労わるという場面にはなっていない。
比較しても意味のないことだが 矢口史靖監督の 『 ロボジー 』で老人を演じた五十嵐新次郎(ミッキー・カーチス)よりも健サンは6つも上なのだ。
そもそも刑務官の定年退職が60歳で、嘱託で再雇用されるのもせいぜい5年ほどだと考えると、『 あなたへ 』への倉島の設定年齢は80歳であるわけがない。
つまりは80歳の健サンがどんな形でリアルな主役を演じるのかという期待は見事に裏切られたといってもいい。
なにせ「さよなら」の意味に「これからは自分の時間を生きよう」というメッセージが込められていたという決着なのだから。
旅があって、過去の出来事がフラッシュバックで現れる。
もう何度も観てきた高倉健映画だ。
主人公に絡んでくる登場人物たちが、何らかの事情や過去を抱えていて、それらを総花的に見せることで「あれも人生、これも人生」の人間模様が形成され、その中心に眉間に皺を寄せた健サンが存在する。
いつもの降旗康男による、いつもの高倉健映画の域から一歩たりとも出ようとしないのは少し頑な過ぎるのではないかと思った。
本当に亡き妻の配役が娘ほどの田中裕子で良かったのだろうか。倍賞千恵子、いしだあゆみ、加藤登紀子・・・みんな歌は上手いのだが。
しかし考えてみると、等身大の80歳の心境を演じる健サンの姿を本当に観たかったのかといえばどうなのだろう。
シルエットはとても80には見えなかったものの、アップになると往時を知る者として枯れたなという印象は否めない。
いや、80歳の老人なのだから枯れるのは当たり前で、111分の上映時間の中で健サンが出ていない芝居が殆どないくらい、ずっと出ずっぱりで、それで最後まで画面を持たせてしまうことこそが素晴らしいことだとファンなら思うべきなのか。
そう、若干の不満を抱えつつも、健サンが健サンであったことに安心していた自分もいたのだった。
それにしても、これから先も健サンは高倉健を通していくつもりなのか。
美学を貫いて今回でお終いなどということはないだろうか。
希望としては降旗康男が監督でも構わないので、クリント・イーストウッドが 『グラン・トリノ』 で見せたような決着を、ぜひ健サンにもつけてもらいたいと思っているのだが。
2012.8.25 TOHOシネマズ上大岡
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映画
2012-08-25T22:37:00+09:00
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神様の同点打 【8.7東京ドーム】
甲子園を高校野球に明け渡し、最初の遠征先となった広島マツダスタジアムでの三連戦を惜敗→完敗→惨敗という形で終え、いよいよ伝統の一戦である宿敵・巨人戦に臨むべく東京ドームに乗り込んできた我らが阪神タイガース。目下、巨人戦6連敗、東京ドーム7連敗中とまさに...
甲子園を高校野球に明け渡し、最初の遠征先となった広島マツダスタジアムでの三連戦を惜敗→完敗→惨敗という形で終え、いよいよ伝統の一戦である宿敵・巨人戦に臨むべく東京ドームに乗り込んできた我らが阪神タイガース。目下、巨人戦6連敗、東京ドーム7連敗中とまさに相手にとって不足なし。ロンドンオリンピックの最中にも関わらず真夏の天王山に41、511人の観衆が見守る中、いよいよ闘いの火蓋が切って落とされたのであった。。。
と、冗談めいた書き出しではあるが、結果は延長十回1-1の引分け。
もしペナントレースが首位の虎を僅差で巨人が追うというシチュエーションであれば、
この試合は凌ぎ、凌がれの痺れる試合として記憶に刻まれる試合になったはずだ。
まして4.30東京ドームで69年ぶりの0-0を演出した先発の再現というお膳立てもある。
六回に先制されたものの、八回にマートン死球。代走の上本が果敢に盗塁を成功させ、
良太が三塁に送って代打の檜山が山口の初球をセンター前に弾き返すという同点劇。
その後は藤川球児が2イニングを跨ぎ、とくに九回には足のスペシャリスト鈴木を小宮山が刺すという痛快な場面も加味されて、まさに和田阪神が、手も足も出なかった山口から執念の引分けをもぎ取った一戦として特筆すべき試合になったのだと思う。
悲しいかな現状が違えば試合の評価もガラリと一変する。
確かに広島で手痛い3タテを喰らい、何としても負けたくなかったのは解る。
良太のバットが前日の広島から湿りがちだったという事情もあったのだろう。
ランナーを溜めてひっくり返すことより、アウトひとつを犠牲にしてまず同点という選択肢もアリかといえばアリだ。
しかし借金15と低迷するチームが引分けで試合を消化することは負けも同然。
勝つしかないチームが一死二塁の場面で勝つことを遠ざける采配に失望は禁じ得ない。
おそらく自軍の攻撃力では山口から2点を獲るのは不可能と踏んだのだろう。
勢いのあるチームがやれば積極策でも、逆のチームではとんだ消極策に見えてしまう。
同じ野球をやっても評価が違ってしまうところに、今のタイガース観戦の窮屈さがある。
澤村は六回5安打6死球で降板。
普通このピッチングに対して0で抑えられているのがおかしい。
おそらく活発な打線だったらとっくにKOしていただろう。
逆にこの内容でも失点がなければタイガースならば間違いなく七回も投げさせたはずだ。
リードしている側の先発が先に降りると、台所事情の違いを見せつけたようで非常に気分が悪い。
それでも良くしたもので、人間は都合のいい場面だけを記憶として残していく。
DeNaの三浦大輔に沫やノーヒットノーランかという展開になった横浜スタジアムの試合でさえ、それを阻止した檜山の一打が記憶に留まった。
この試合も難攻不落だった山口から “代打の神様” が起死回生の同点打を放った試合として記憶に残っていくのだろうか。
そう、これからのタイガースの試合は、ペナントレースの流れに関係のないところで価値を見出していく作業になるようだ。
◎7月07日(土)|巨人16回戦(東京ドーム)18:00開始/41551人/3時間47分
先発:メッセンジャー×澤村|スコア:1-1|
※Tigers DATA Lab.
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阪神タイガース・野球
2012-08-15T15:13:00+09:00
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自力優勝消滅 【7.7東京ドーム】
現在8月7日。
あちゃー、東京ドームの試合から一ヶ月も経ってしまっている。
これでは観戦記もへったくれもなく、そもそも7月7日の七夕にタイガースが東京ドームで強い巨人相手にどんな試合をやったかのかも今では覚束なくなっているのだが、Tigers DATA.Labに掲...
あちゃー、東京ドームの試合から一ヶ月も経ってしまっている。
これでは観戦記もへったくれもなく、そもそも7月7日の七夕にタイガースが東京ドームで強い巨人相手にどんな試合をやったかのかも今では覚束なくなっているのだが、Tigers DATA.Labに掲載されている「選評」を丸写しするとこうなる。
【巨人が今季6度目の3連勝、引き分けを挟む本拠地7連勝で10年10月7日以来
の貯金16。。1-3の2回に寺内の09年4月18日以来通算2本目の本塁打と長野の9号ソロで同点。再び2点を追う5回に平野の2点タイムリーエラーと高橋由の犠飛で逆転。高橋由は7回にもタイムリー。先発杉内は阪神の能見に投手から共に初の長打を浴び打点を与えるなど移籍後ワーストの5失点。2人目高木京が07年4月11日の金刃以来となる球団新人左腕の白星。6人目マシソンが6セーブ目。阪神は今季3度目の最長タイ5連敗で自力優勝消滅。借金はワースト8で東京ドーム6連敗。先発能見が5回6失点で6敗目。新井良がプロ初の3安打。】
ざっとこんな試合だったが、この「選評」を見るだけでグッタリくるというものだ。
16あった巨人の貯金は現在25まで伸ばし、一方、この試合で自力優勝を失ったタイガースは借金15の惨状だ。
つまりこの一ヶ月間に両者のベクトルにまったく変化がなかったのだが、もはや首位・巨人とそれを比較すること自体がおこがましく、4位のヤクルトよりも最下位の横浜DeNaとの差のほうが近くなっている。
まったく一体何がどうなって和田阪神タイガースは低迷してしまったのだろうか。
この日の試合は能見と杉内の投げ合いだった。
かつて巨人キラーといわれたトラの暫定エースと、2003年の日本シリーズ以来、虎キラーであり続けている杉内との対決で、まず期待したのは投手戦だ。
それが初回に早くも能見が一点を献上し、その直後の回では杉内をタイガースの下位打線が捕まえて逆転するという展開となる。
今成と能見にタイムリーが生まれるなど、バッテリーが攻撃で結果を残したこともあって、これはノッてくるぞと思いきや、またその回の裏で伏兵・寺内と長野に一発を浴びて同点に追いつかれるなど、序盤からドタバタした試合になってしまった。
普通、バッテリーが打って逆転したのだからその試合はたイタダキだというのが野球の「流れ」というものではないだろうか。
今季のタイガースは「流れに乗れない」「きっかけが掴めない」と耳にタコができるくらいなのだが、それを象徴した場面ではなかろうか。
そもそもこの試合で新井兄弟が揃って猛打賞というオマケもついて、そういう試合なら普通は勝つと思うのだが・・・。
敗戦が決定的になったのは無死二三塁のピンチで平野の本塁悪送球だったのだが、丁度この頃に不振を極めていた平野が守備でも足を引っ張ることが多かった。
確かに身長170cmにも満たない身体で毎日試合に出る疲労たるや相当なものだとは思うのだが、平野もそんな同情はされたくはないだろう。
実は昨日の広島戦でも平野は同じように本塁悪送球で先制点を許している。
そもそも打てないのは相変わらずとしても、守りにも綻びが出だすとなるとチーム状況は深刻だ。
去年、新潟で行われたファーム日本選手権でタイガースはワイルドピッチで2点入れられるという失態を演じ、新潟の観客から「所詮、二軍だな」とため息混じりにいわれていたが、一軍でも同じシーンを松山で演じていたりもしている。
うーん、もしかしたら現状のタイガースは二軍以下なのかもかもしれない。
◎7月07日(土)|巨人11回戦(東京ドーム)18:00開始/44441人/3時間21分
先発:能見×杉内|スコア:5-7|勝:高木京/S:マシソン/負:能見
※Tigers DATA Lab.
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阪神タイガース・野球
2012-08-07T00:14:00+09:00
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キャプテンの証明 【6.30明治神宮球場】
読書感想文や映画のレビューと違って、野球の観戦記は難しい。結局、どんなチームでも長いシーズン中に “会心のゲーム” はやる。しかし結局4/144でたまたまそう試合に出くわした幸運な観戦記は書けても、シーズンを通して野球を楽しむ者にはそれだけでいいのかとな...
読書感想文や映画のレビューと違って、野球の観戦記は難しい。結局、どんなチームでも長いシーズン中に “会心のゲーム” はやる。しかし結局4/144でたまたまそう試合に出くわした幸運な観戦記は書けても、シーズンを通して野球を楽しむ者にはそれだけでいいのかとなる。
6月30日の神宮球場でタイガースは鳥谷、ブラゼルのホームラン2本を含む12安打で6対4というスワローズに競り勝った。
今季初先発の秋山に勝ち星がつき、先制、中押し、ダメ押しと点の入れ方も効果的で、試合自体も面白かった。
おそらくこの試合だけ切り取って観戦記にまとめれば、それほどタイガースに批判的な文章にはならないのだろう。
何よりもこの試合の直前まで4連敗だっただけに、3打点をあげた鳥谷を筆頭に打線も活発に機能し、秋山から繋いだリリーフ陣も四回以降は得点を許さなかった展開に、捲土重来の意志をチームから読み取ることもできたのかもしれない。
しかし、観戦記の執筆を伸ばしてしまった結果、この “会心のゲーム” の後のタイガースは再び4連敗。結局、6.30など梅雨の中休みに過ぎなかったというのが現実としてある。
そう、野球は、ペナンレースは、生モノなのだ。
私はこの日の鳥谷に感服していた。
ライトポール際の先制ホームランも、左に流したタイムリーもよかったが、五回表一死一三塁の場面で3ボール0ストライクの場面でも思い切りよく強振して右中間に高々と犠牲フライを放った場面に、鳥谷の復活を確信していた。
従来の彼ならばここは必ず待つ。まず3−0になった時点で四球を狙ってくる。
彼の選球眼の良さによる四球多さはタイガース打線の武器のひとつではあるのだが、
同時に三番を任されたキャプテンとして物足りなさを感じさせることも少なくなかった。
だから3−0となった時点で「鳥谷、打てっ!」と思わず叫んでいた。
打った瞬間に神宮のネット裏から「よしっ!」という快哉が聞こえたはずだ。
データを見るとこの試合後の4連敗でも、それほど彼のバットは湿っていないので、
この一週間遅れた観戦記でもかろうじて鳥谷への期待は継続中といったところだろうか。
鳥谷の胸につけられたキャプテンマーク。
デビュー当時に藤本とのポジション争いで、幕下付け出し的な扱いでスタメン出場したときの虎ファンの厳しい視線の中で、よくここまで耐え抜いてきたものだと思う。
2003年に3割をマークして優勝に貢献したとはいえ、藤本の弱肩はタイガースの弱点であり、名手のアリアスのグラブ捌きの恩恵が得られなくなった時点で、藤本のショートはないと見ていたので、鳥谷の伸びシロに賭けた岡田彰布の判断は正しかったと思っている。
しかしエリートVS雑草という図式でファンの判官びいきが藤本に集まったことで、鳥谷にとって相当の試練に晒されていたことは間違いないだろう。
私は貰っている年棒で選手をとやかくいうのは大嫌いだが、
ダントツの高給見合う活躍を見せるのは、まだまだこれからだと思っている。
キャプテンである以上、チームを勝利に導く重責も課せられている。
鳥谷はキャプテンとしの姿をもっと証明していかなければならない。
◎6月30日(土)|ヤクルト7回戦(神宮)14:00開始/27015人/3時間23分
先発:秋山×ロマン|スコア:6-4|勝:秋山/S:榎田/負:ロマン
※Tigers DATA Lab.
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阪神タイガース・野球
2012-07-06T23:59:00+09:00
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復調はホンモノ? 【6.16 GVCマリンフィールド】
タイガースは交流戦全日程を終了し、ペナントレース再開までの中休みの状態にある。
この時期に梅雨前線に台風が重なり日程が消化できないでいた4チームは気の毒だ。
直近のタイガース打線は西武ドームで13安打を放って3点のビハインドをひっくり返し、
千葉に乗...
タイガースは交流戦全日程を終了し、ペナントレース再開までの中休みの状態にある。
この時期に梅雨前線に台風が重なり日程が消化できないでいた4チームは気の毒だ。
直近のタイガース打線は西武ドームで13安打を放って3点のビハインドをひっくり返し、
千葉に乗り込んで連戦をそれぞれ16安打、17安打と打線が爆発した。
テレビ中継の実況席でも「阪神打線に復調の兆し」との論調も目立ち始めてきたようだが、
それなら、なおのこと5日間の中休みは痛し痒しだという気もしないではない。
ベテランが多いチームゆえにそのあたりの調整で心配することはないだろうが、素人ファンの感覚では、直ぐにでもバッターボックスに入りたい気分ではないかと想像してしまう。
少なくとも新井良太あたりはうずうずしているのではないだろうか。。
この三試合の好調な打線を牽引しているのはクレッグ・ブラゼルだ。
最近20打席で3割5分。何よりも三振が5つしかなく、そのうち見逃し三振が2つもある(Tigers data lab.)のは、一応バッターボックスで好球を待てるようになってきた証しではあるのだろう。
とにかく今までブラゼルはチーム低迷の象徴のような存在だった。
バットにボールを当てる気があるのかと思うほど、ただブンブンと振りまわす。
観客たちは彼が最後のバッターボックスに立ち、2ストライクの空振りを観た途端に一斉に帰りの仕度を始めたものだった。
ヤクルトが不振のバレンティンを二軍に落として調整させたのを、ブラゼルにも当てはめらるのかというと、むしろ怪我を理由に帰国→そのまま退団というコースが容易に想像出来てしまい、私はブラゼルがチームメイトのままでシーズンを終えることはないと半ば確信していたほどだったのだ。
ブラゼルが六、七番の位置で打つようになれば、打線が一気に厚みを増す。
何よりも芯を喰ったときの弾道は未だに脳裏に鮮明で、東京ドームや浜スタで見せた物凄い一発は一生忘れないだろうというほどの破壊力を持つ。
まだ統一球への対応が出来ていないものの、ブラ砲復活に思いを込めて8月の東京ドーム3連戦の(私としては珍しく)外野スタンドのチケットを買ってしまったのだから、我ながら何と健気な阪神ファンなのだろう(苦笑)。
さてこの6.16千葉の試合は、そのブラゼルの2ベースで初回に3点を先制した。
この点の取り方が良かった。いや本当はひとり前の新井で決めなければならなかったのが、一死満塁が二死となって、またチャンスを生かせないのかと思った瞬間にブラゼルが走者一掃の右中間2ベースを放つ。これは嬉しかった。
序盤三回で8-1の大量リード。
メッセンジャーの安定感を以ってすれば楽勝の展開なのだが、ロッテ相手の試合は大荒れとなることが多い。
一番記憶が鮮明なのは2007年の2-7の5点差で迎えた最終回に9点を取った大逆転勝利だが、翌年の千葉では鶴のデビュー登板で、0-7と大量リードを奪われるも、最終回に同点に追いつき、最後は9-10でサヨナラ負けを喫した試合もあった。
そもそも2005年の日本シリーズでの濃霧コールド負けの時から両者の対決は波乱含みで、先日の甲子園でも0-6から引分け試合に持ち込んだばかりだから、とてもではないが安心して観るまでには至らない。そもそも7点差といっても残りの回はたっぷりある。
そして一番の不安は私自身が球場でことごとく勝ち運に恵まれていないこと。
去年の夏の浜スタで引き分けて以来、殆ど勝ち試合にお目にかかることがなく、
改めて数えてみたら、公式戦1勝11敗2分けという成績で、目下6連敗中。
ある意味、私自身が低迷の具現者みたいなものではないかとマジで悩み始めていた。
案の定、タイガースは四回以降、ゼロ行進が続く。そして点差は縮まる一方だ。
最終回に故障中の藤川に代わってマウンドに立った福原。
簡単に2アウトを取ったものの、27個目のアウトになかなか届かない。
しばらく球場でやっていなかった「あとひとり」コールを打者五人にたっぷりとさせられてしまった。
◎6月16日(土)|ロッテ3回戦(QVCマリン)14:00開始/28801人/3時間36分先発:メッセンジャー×香月|スコア:8-5|勝:メッセンジャー/負:香月
※Tigers DATA Lab.
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阪神タイガース・野球
2012-06-21T23:59:00+09:00
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球際の弱さ 【6.3札幌ドーム】
早いもので札幌ドームでの連敗から二週間が過ぎた。
二週間も放置してしまった負け試合の感想を今更まとめるのは、かなり億劫だ。
しかしこの二週間の間にタイガースが劇的に強くなって連日連勝という話ならば、何とも間延びした感想文になってしまうのだろうが、...
早いもので札幌ドームでの連敗から二週間が過ぎた。
二週間も放置してしまった負け試合の感想を今更まとめるのは、かなり億劫だ。
しかしこの二週間の間にタイガースが劇的に強くなって連日連勝という話ならば、何とも間延びした感想文になってしまうのだろうが、幸いにして(?)チーム状況も、その試合ぶりも札幌の時と大して違っていないので、二週間前の感想でも違和感なく繋がってしまうことだろう。まったく情けないが。
昨日は球児でサヨナラ負けを食らうという、虎キチにはショッキングな試合だった。
もっとも、私が遠征でサヨナラ負けを食らったのは今回が初めてではない。
二年前のKスタ宮城での楽天戦でも、渡辺亮が痛打を浴びてサヨナラ負けを喫している。
しかしその時の試合は、振り返ればいろいろと思い出すこともあるのだが、翌日は最終回での逆転劇などがあって、それほど記憶に残るサヨナラ負けではなかった。
要するに、二連戦の終わりが良ければ救われて帰ってこれるのだ。
だから、何としてでも今日は勝ってほしい。
メッセンジャーよ、縁起かつぎのラーメンを食ったか?ここは札幌で一応は本場だぞ。
と、それなりの思いを込めて札幌ドームのゲートをくぐったのだ。
結果、あえなくその期待は潰え、勝利の大歓声で酔いしれる北海道民に包囲されるように札幌ドームを後にしたのだった。
さてこの日の札幌ドームの試合で感じたこと。
それはタイガースの選手は「球際」に弱いということだった。
野球で「球際」というと主に守備面で使われることが多く、よく実況中継でも「平野選手は球際に強いですねぇ」などと、ファインプレーの後などに表現されるのを耳にする。
ところがサッカーで球際というと、パス、ドリブル、シュート、トラップ、キープから当たりまで、どちらかといえば攻撃面で使われることが多いように思う。
サッカーはよく知らないので頓珍漢な話をしていたら申し訳ないが、
例えば野球でも、甘い球を見逃さない、バットの芯でとらえる、ストライクからボールとなる球を見極める、ガラ空きの三遊間を狙い打つなど、これら打撃面でも球際に強いということにはならないだろうか。
それは「スコアニングポジションから走者を還してやる」「この試合だけは絶対に勝つんだ」という強い気持ちまで飛躍するものであるに違いない。
野球はあれだけ広いフィールドを使いながら、小さなボールを介した投手と打者の一対一の対決に集約されるのだから、様々な局面で球際の強さが求められる競技だと思う。
その球際に阪神タイガースの各打者は極端に弱い。
昔からここ一番の勝負で弱さを露呈するのも、クラシリでファーストステージ敗退を繰り返すのもすべては球際の弱さではないのか。
そもそも未だに1973年の甲子園最終戦の巨人戦惨敗がトラウマになっていること自体が、いかに回ってきた舞台が少ないかの証しみたいなものではあるのだが。
話の風呂敷がだいぶ広がってしまったので、6.3札幌ドームの試合に話を戻すと、
相手先発の武田勝は打者の手元でボールを動かしてくる投手だと認識している。
スタンドから観ているとスリークォーターのモーションはそれほどの威圧感はなく、
なぜ、ダルビッシュが抜けた後のハムの絶対的エースと目されているのかピンとこないところはあるが、これがなかなか掴まえることができない。
実はこの試合、タイガースは一度も三者凡退がなく、常に塁上にランナーがいた。
ヒットは出るも得点機が訪れると途端に萎縮したような打撃陣。
だからタイガースのチャンスは端から観ると「ピンチか?」と思ってしまう。
それはスタンドに各打者の球際の弱さが伝わってきてしまうからではないか。
言いたくはないが、巨人に水を開けられてしまったのもそこがすべてだ。
それとも打撃成績16位の鳥谷がチーム最高順位というのだから、この話は前提そのものが成り立っていないということなのか。
新井がベンチスタートで、代わりに関本がスタメン出場。
関本がよっぽど調子がいいのであれば仕方ないが、新井よりも低い打率で4打席バッターボックスに入る。
はっきりいうと、関本の4打席にはまったく夢が感じられなかった。
逆にいえば、ここ一番の「代打・関本」の球際の強さが、4打席見せられることで奪われてしまったようにも思う。
新井は何故か私が球場に行ったときには、何らかの結果は出してくれる。
そんなイメージがあっただけに、ベンチを温めていたのが残念でならなかった。
◎6月03日(日)|日本ハム4回戦(札幌ドーム)14:00開始/33783人/3時間31分
先発:メッセンジャー×武田勝|スコア:3-7|勝:増井/負:筒井
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阪神タイガース・野球
2012-06-15T18:30:00+09:00
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北都愕然 【6.2札幌ドーム】
「北都愕然」というタイトルをつけたが、阪神ファンだけがガクゼンとしたのであって、とくに札幌の街全体がガクゼンとしたわけではないが(当たり前か)、北海道民の大歓声を背中に聞きながら、スタンドを足早に去る虎党たちは、皆ガックリと肩を落としていた。
試合...
「北都愕然」というタイトルをつけたが、阪神ファンだけがガクゼンとしたのであって、とくに札幌の街全体がガクゼンとしたわけではないが(当たり前か)、北海道民の大歓声を背中に聞きながら、スタンドを足早に去る虎党たちは、皆ガックリと肩を落としていた。
試合は延長10回裏。一死満塁から藤川が田中賢にセンターを抜かれてサヨナラ負け。
今まで遭遇したサヨナラ負けを数えると両手で足りないくらいだが、藤川がそれを喰らうのを間近に観たのは初めてだった。
「球児で負けたんなら仕方ねぇ」と虎ファンなら思うのだろうが、ツーベース、敬遠、四球、タイムリーという幕引きはショックだった。
そんな試合をわざわざ北海道まで観に来たところに我ながら苦笑いを禁じ得ないところではあるのだが。
早いもので、前回の札幌ドーム観戦からすでに4年が経っている。
何も変らないようでいて、4年前とは住んでいる処も勤め先も違う。
2008年の初夏にはトップに赤星がいて、5番を葛城が打って、サードはバルディリスが守っていたが、金本の4番だけは変っていない。
一方の日ハムは4年前もスタメンに顔を揃えていたのが、田中賢、稲葉、小谷野の三人。
変るものは変ったし、変らないものは何も変っていないということか。
今回の札幌ドーム遠征は開幕前から計画していたわけではなかった。
「行くか」となったのは、5.12横浜スタジアムで三浦にあわやノーヒットノーランという試合の帰りに立ち寄ったラーメン屋でメッセンジャーを見つけたときだった。
大人しく吉村家の行列に並ぶメッセに、出し抜けに阪神愛が湧いてきてしまったのだ。
あの時のチーム状況も最悪だったが、このフラストレーションのまま交流戦が千葉に来るまで一か月以上も待たされることが、何故だか「ありえない」ことのように思ってしまった。
それにしても、問題は我が藤川球児。
2006年に久保田の怪我でクローザーとなって以来、虎の守護神であり続けた男。
神宮や西武ドームのように、ブルペンが見える球場で何度も目撃しているが、
登板がなかった試合でも彼はブルペンで準備をしながらじっと試合展開を見ている。
肉体的にも精神的にも、この6年間に蓄積された疲労は相当なものだっただろう。
こんなことは誰もがいうことではあるが、改めてそのことに思い至ってみる。
7回登板時代から数年間の藤川は我々にとってまさに神の化身だった。
彼の名が呼ばれた時点で勝利は確定し、我々は三振ショーを堪能すればよかったし、
阪神ファンを45年間やっている中でも、それは突出して「幸せの時間」だった。
確かに2年ほど前から、プロの打者が分かっていても打てない、 “火の玉ストレート” のイメージは影を潜め、変化球もまじえた投球術でかわすようになっていた。
三者凡退で終わらないことも、今では当たり前のようになってしまったが、
かつてバットにかすりもさせなかったストレートが、簡単にファールで逃げられるたび、
藤川はマウンドで焦燥感を募らせているのではないかと想像してしまう。
「いつもマウンドに上がるときは、打たれそうで怖い」とのコメントは本音だろう。
それでも藤川は揺るぎのない絶対的な守護神であることには違いない。
「あと一人」「あと一球」が大音響でこだまする中、相手から27個目のアウトを奪う。
大歓声の中でマウンドに集まるナインとハイタッチし、拍手でベンチに迎えられる。
藤川はその瞬間のために6年間投げ続けている。
田中賢の打球が大和の頭上を抜いた瞬間、藤川は早々にベンチへ駆けこんでいた。
ファンにダラダラとうな垂れる姿を晒したくないというよりも、
この空間からすぐにでも自分を消しまいたいという風にしか見えなかった。
「引き分けは野球じゃないと思っている。妹にキスするようなものさ」
直前の甲子園の試合でサヨナラヒットを放ったブラゼルはお立ち台で言い放った。
せめて藤川も「引き分けに持ち込む仕事じゃモチベーションが上がらなかった」と、
強気に思ってくれていればいいのだが。
◎6月02日(土)|日本ハム3回戦(札幌ドーム)18:00開始/34170人/3時間37分
先発:能見×ウルフ|スコア:1-2|勝:武田久/負:藤川
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阪神タイガース・野球
2012-06-10T23:59:00+09:00
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映画 『 ザッツ・エンタテインメント 』 〜午前十時の映画祭 Series2
MGMミュージカル200作品から75作品の名場面だけを厳選、フランク・シナトラ、ジーン・ケリー、ミッキー・ルーニー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー、エリザベス・テイラー、ジェームズ・スチュアートら11人の大スターのナレーションによって、総勢125人の至芸が紹介...
MGMミュージカル200作品から75作品の名場面だけを厳選、フランク・シナトラ、ジーン・ケリー、ミッキー・ルーニー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー、エリザベス・テイラー、ジェームズ・スチュアートら11人の大スターのナレーションによって、総勢125人の至芸が紹介されていく。
さて、震災での上映延期などアクシデントに見舞われて、去年の夏以来途切れてしまった感のある『午前十時の映画祭』。
実はまだ100本完遂の意志は折れていない。
少なくともスケジュール的には完遂の余地は残している。
みゆき座で夜の上映もあるので、しばらくは日比谷に足を延ばすことになるだろう。
その日比谷について4/24付けの「日めくり」で以下のことを書いているので引用してみる。
もう考えるのも億劫なくらい、本当に久々に日比谷の映画街で映画を観た。
少なくとも仕事帰りに日比谷に寄るなど二十数年ぶりのことではあるまいか。
『ザッツ・エンタティメント』は往年のMGMミュージカルを蘇らせるのだが、
この映画そのものも公開されて、そろそろ40年近くが過ぎる。
フレッド・アステアとエレノア・パウエルのタップシーンは今見ても十分に凄く、
そしてジーン・ケリー、ジュディ・ガーランド、フランク・シナトラが躍動する。
彼らのリアルタイムを日比谷の街は当然知っていると思うのだが、
有楽座もスカラ座もみゆき座も名前だけを残し、
すっかりと様変わりしてしまった。
彼らのリアルタイムを日比谷の街は当然知っていると思うのだが、
何故、久々に訪れる街は昔の面影を留めてくれていないのだろう。
『ザッツ・エンタティメント』は松竹系のピカデリーでの封切りだったので、
この東宝王国ともいうべき日比谷では上映されなかったのだろうが、
MGM全盛の時代はどうだったのだろう。
少なくとも今も昔も日比谷は東京宝塚劇場、日生劇場も擁するショービジネスの中心地であることには間違いなく、ここで『ザッツ・エンタティメント』を観ることにはある種の感慨がある。
もちろん、かつて独立していた超大作の有楽座、文芸作品のスカラ座、女性映画のみゆき座がシネコン化してしまった「時代」というものを噛みしめてのことなのだが・・・。
このアンソロジー映画が製作されたのが1974年で、日本公開は1975年。
封切られたときの反響はよく憶えている。
とくに『雨に唄えば』のジーン・ケリーや『水着の女王』のエスター・ウィリアムスの演技は繰り返しTVスポットで放映されて、「うわ、すごいな」とは思っていた。
結局、未見のままになってしまったのは、最大の見せ場をスポットで観てしまったことで、すでに観たような気になってしまったことと、MGMミュージカルへの回顧への興味がまだ中学生では熟成に至っていなかったということだろう。
結局、『雨に唄えば』 『イースター☆パレード』 『バンドワゴン』 『踊る海賊』をリバイバルで観たのは成人になってからで、今更、こんな話をしても仕方ないのだが、中学生の分際でもあの当時に観ておけば良かったと思っている。
冒頭から、様々なシーンで歌い継がれてきた“Singin' in the Rain”が紹介され、1929年の『ブロードウェイ・メロディ』がMGMミュージカルの幕を開ける。
改めて『雨に唄えば』という映画を作ったジーン・ケリーの熱い思いには感動してしまうのだが、1936年製作の『巨星ジークフィールド』の信じられないような豪華なセットを見ると、改めてハリウッドの、いやアメリカの国力に打ちのめされてしまう。
ありきたりな言い方だが、アメリカを相手に戦争を仕掛けた(仕掛けられた?)我が国の政治家、軍部が途方もない暴挙だったのだ。
そして “タップの女王” エレノア・パウエルがアクロバチックなダンスを披露する『ロザリー』を見せておいて、彼女がフレッド・アステアとコラボする 『踊るニューヨーク』へと繋げる編集の巧みさ。
エレノアとアステアのタップダンスの場面を観ていると、中学の時に『雨に唄えば』と『水着の女王』が最大の見せ場などと決めつけていたことが、今さらながら恥ずかしくなってしまうではないか。
MGMの全盛を語るナビゲーターとして登場する老境のスターたち。
フランク・シナトラ、ジーン・ケリー、ミッキー・ルーニー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー、エリザベス・テイラー、ジェームズ・スチュアート、ドナルド・オコナー・・・。
彼らは故人となっていたクラーク・ゲーブル、ジュディ・ガーランドたちを語っていくのだが、その背景には朽ちかけて今にも取り壊されつつあるスタジオがあり、次々と紹介される煌びやかなフィルモ・グラフィとのギャップはそれだけで栄枯盛衰の感慨を誘う。
彼らが、1974年現在から1930年代〜1950年代にかけてのMGMの栄光を語りながら、過ぎ去りし金字塔を懐かしむ以上に、『ザッツ・エンタティメント』の製作から時間は流れ、想い出を語るスターたちもライザ・ミネリを除く殆どが既にこの世を去っている。
そして『ザッツ・エンタティメント』を郷愁を以って喝采の拍手で迎えたであろう観客の多くも、鬼籍に入ったことだろう。
そう思うとこの映画は人生そのものではないかという気がしてくる。
2012.4.24 TOHOシネマズみゆき座
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映画
2012-05-19T23:59:00+09:00
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沫や! 【5.12横浜スタジアム】
沫やと書いて「あわや」と読む。
「あわや、ホームランかという大きな当たり」など、実況でよく使われる言い回しだ。
因みに泡沫と書くと「うたかた」と読める。ニュアンス的に「沫や」とは、成し遂げようとした側に寄り添う言葉なのかもしれない。
「あわや大惨...
沫やと書いて「あわや」と読む。
「あわや、ホームランかという大きな当たり」など、実況でよく使われる言い回しだ。
因みに泡沫と書くと「うたかた」と読める。ニュアンス的に「沫や」とは、成し遂げようとした側に寄り添う言葉なのかもしれない。
「あわや大惨事」などともいうが、「三浦大輔、あわやノーヒットノーランか!」という表現で今日の試合はまとめることが出来るだろう。
今季は、貯金のあるチームの応援に球場へ来ている筈なのに、なかなか勝てない。
それも、マートンがライト前ゴロを後逸してフェンスまで転々とする場面や、
能見の一塁トスがとんでもない悪送球となってしまう場面など、
ちょっと信じられないような走者一掃の珍プレーを目の当たりにしてきた。
そして今日は、八回終了まで三浦に無安打無得点に抑えられていたタイガース。
いよいよあと3つのアウトでノーヒットノーランの大記録を献上することなる。
浜スタの空気が次第に騒然としてくる中で、いやはやエライ試合に来てしまったものだと嘆きつつ、運の悪さもここに極まったかと、、、。
しかしかなりの屈辱感のうちに九回表の桧山の打席を見ていたのかといえば、
実は正直にいえばそれほどでもなかった。
むしろ相手が三浦ならばそれはそれで仕方なかんべと思っていた。
心情としては6年前にナゴヤで山本昌にノーヒットノーランを喫した時と似ているか。
山本昌と三浦はタイガースにとって二大天敵ともいえる相手だが、
私はこの二人はどうしても憎めない。
実家は茅ケ崎で日大藤沢高校出身の昌と、弱小ベイスターズの孤高のエース、三浦。
昌に喰らった記録なら、三浦にもくれちゃれと半分ヤケクソにもなっていた。
もし相手が内海や澤村だとしたら、もう怒髪天を衝いていたところだろうが。
しかし三浦の出来はそんなに良かったのだろうか。
とくに先頭の鳥谷にストレートのフォアボールを与えるなど、立ち上がりは悪かった。
金本を敬遠して、二死一二塁の場面で新井を迎えたときもボールが3つ先行する。
捕まえるのならここだった。
ここで捕まえることが出来なかったら徐々に修整してくるのは、長年、三浦を見て予測がつく。
新井はスリーボールからストライクを取りに来た球をあっさりと見送ってしまう。
そして、フルカウントからボールになるスライダーを引っ掛けてピッチャーゴロ。
とくに岩田が投げている時の新井はやらかしてしまうことが多いが、それは新井自身もよくわかっていることだろう。
岩田のために何とかしてあげたいという気持ちが空回りしているのだとしても、
やはりここは結果を残してほしかった。
その岩田もどうもピリっとしない。
ランナーを出しても粘りのピッチングで抑えているのだが、
思っていた以上に修整してきた三浦と比べて、いつまでも悪いなりの投球を続けている。
案の定、六回の裏に吉村に痛打を浴びて2点を献上してしまうのだが、
敬遠で歩かせた走者を返してしまうほど歯痒いものはないのだ。
大記録がかかった九回の表。
桧山がヒットを打ち、平野が返してようやく一矢を報いたのだが、
負けたのにもかかわらず球場を後にする虎党たちの「ほっ」とした表情が、
今日の試合のなんたるかを物語っていた。
◎5月12日(土)|DeNA8回戦(横浜)14:00開始/21670人/2時間28分
先発:岩田×三浦|スコア:1-2|勝:三浦/負:岩田
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2012-05-13T01:26:00+09:00
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ゼロの昇天 【4.30東京ドーム】
球場観戦の中でも三連戦の3つ目は少し特別な気がする。
144試合を闘うわけなので、3/144にどこまで拘る必要があるのわからないが、
その三試合の区切りが繰り返されてペナントレースは進行していくのだから、
やはり節目の三試合の勝敗はどうしても気になって...
球場観戦の中でも三連戦の3つ目は少し特別な気がする。
144試合を闘うわけなので、3/144にどこまで拘る必要があるのわからないが、
その三試合の区切りが繰り返されてペナントレースは進行していくのだから、
やはり節目の三試合の勝敗はどうしても気になってしまう。
3つ目の試合は前の2つを取っていれば、3タテへの期待感がある代わりに、
負けたとしても「なかなか3タテは難しい。ま、勝ち越したので良しとするか」などと、
試合に負けた悔しさの中でもどこかで割り切ることは出来る。
更に1勝1敗で迎えた3つ目となるとちょっとした決戦ムードとなって、
球場へと向かう観客たちの足取りにもどこか意義込みが伝わってくるようだ。
そして前2戦を落としての3つ目にはかなりの悲壮感が漂う。
もし負けてしまえば、3ゲーム差が開くが、勝てば1差で済むというのも大きいが、
何よりも3タテを食らってしまったという屈辱感がある。これはどうしても避けたい。
さて本日の東京ドームは宿敵・巨人に2連敗した後の3つ目の試合。
シーズン序盤とはいえ、絶対に落とせない試合となった。
去年は思うところがあって東京ドームでの観戦は自粛していた。
必然的に去年の新人王・澤村…フルネームわかんねぇな…その澤村某を私は初めて見る。
確かにストレートも変化球も同じフォームから繰り出され、
どちらの球種も一級品なので、様々な局面で攻めの投球が出来る投手ではある。
フォームが安定しているので制球が乱れることは少ないだろうし、威圧感もある。
そもそもこんな逸材がドラフトで巨人以外の指名なしというのがおかしかった。
中央大監督の巨人OB・高橋善正に巨人以外は絶対に行かないと猛アピールさせ、
提携先のヤンキースのスカウトを招聘してメジャー視野をちらつかせて競合を牽制。
それをまことしやかに読売新聞が書き立てたものだから他球団は競争を回避する。
相変わらず、欲しい人材を獲るのに巨人はあからさまな手段を用いてくる。
先日の杉内とは違って、この澤村だけには絶対に勝たせてはならないとは思うのだが、
残念ながら今季のタイガース打線は湿りきっている。
これだけ振りが鈍くてチャンスに弱ければ、誰が投げても相手投手は一流に見えてくる。
案の定、六回まで僅か一安打で手も足も出ないが、七回に唯一のチャンスが訪れる。
ところが新井のセンターオーバーで、一塁から鳥谷が駆け込んでタッチアウト。
千載一遇の得点機会に久慈コーチャーの腕が思わず回ってしまった場面だ。
ノーアウトにもかかわらず何故、鳥谷を突っ込ませたのだといいたいところだが、
実はいわれるほど巨人の連携が良かったとは思っていない。
長野のスローは早かったが、藤村への返球はワンバウンドになっていたし、
少なくとも甲子園ならば楽勝でセーフだっただろう。
結局、久慈も鳥谷も東京ドームの狭い右中間とよく跳ね返るフェンスは計算外だったか。
それでも無死二塁三塁で金本だったらどうなっていただろうと想像してしまう。
我々はどうしても結果論しか見えず、その結果論から派生される想像(妄想?)で遊ぶ。
しかしこの遊びに興じはじめるとロクな試合ではないという証左でもあるのだ。
結果としては0-0のドローで試合終了。
何と長いTG戦の歴史の中でもゼロゼロは69年ぶりなのだそうだ。
これはまた、我ながら珍しい試合にぶち当たってしまったわけだが、
観ている間はとてもそんな悠長なことを思う状態ではなかった。
何せ絶好のチャンスを逸した直後の七回裏、一死満塁の大ピンチを迎える。
もうメッセンジャーに念を送りまくり、小笠原には邪念を飛ばしまくった。
「低く攻めて、最後は高めで凡フライを取れ」などと、冷静には観ていられない。
ひたすら念を送る。血圧はおそらく160を超えていたのではないか。
更に絶体絶命のピンチだったのが九回裏。今度は無死満塁でマウンドに榎田一樹。
なにせ三塁走者を返した時点で試合が終わる。下手をすれば10秒で終わる。
気持ち良く打たれて終了よりも、サヨナラ押出しや暴投の絵が浮かんでしまう。
極端な前進守備には何やら悲壮感も漂い、それに被せてくる巨人ファンの大合唱。
その強烈なストレスに念を飛ばす体力も尽き、もはや祈るのみだった。
とにかくサヨナラの瞬間に歓喜の橙タオルが回される光景だけは避けたい。
正直にいえばメガホンをバックにしまい、腰を浮かせて撤収の準備は万全だったのだ。
しかし「優勝を味わってみたい」と移籍したベイスターズ不動の四番だった村田修一。
よもや送りバントを命じられるなどとは思っていなかっただろうし、
8番という打順に甘んじていたガッツ小笠原には満塁で代打を送られてしまう。
何故YGのユニフォームというのは輝いていた男たちの輝きを消してしまうのだろう。
私にいわせればこういう戦術は外道でしかない。外道には無得点こそが相応しい。
それにしても自ら招いたピンチだったとはいえ、榎田も本当によく凌いだ。
ゲームセットの瞬間に4万4千人分の徒労感がドッと押し寄せてくる。
毎度、こんなハラハラ・ドキドキの血圧が昇天しそうな試合では身が持たないが、
こういう緊張感こそが野球の醍醐味だとも思ってしまう。本当に困ったものだ。
◎4月30日(月)|巨人6回戦(東京ドーム)14:00開始/44799人/3時間32分
先発:メッセンジャー×澤村|スコア:0-0
※Tigers DATA Lab.
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阪神タイガース・野球
2012-05-07T00:29:00+09:00
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能見、一人相撲 【4.28東京ドーム】
私はHPの『日めくり』に以下のようなこと綴った。
「とにかく昨年の開幕日をめぐるナベツネ、高鼻の世情を顧みぬ尊大な言動。
ドラフトで外した菅野のあからさまな囲い込み。
日本シリーズに冷や水を吹っかけた「清武の乱」。
札ビラで横っ面を引っ叩いたような...
私はHPの『日めくり』に以下のようなこと綴った。
「とにかく昨年の開幕日をめぐるナベツネ、高鼻の世情を顧みぬ尊大な言動。
ドラフトで外した菅野のあからさまな囲い込み。
日本シリーズに冷や水を吹っかけた「清武の乱」。
札ビラで横っ面を引っ叩いたような大型補強。
開幕前の吉伸や慎之介、野間口たちへの裏契約金暴露騒動。
とにかく傲慢で強引なやり口で、すっかり世間を白けさせていた読売巨人軍。
こんなチームに天誅を食らわす正義の虎を見届けに出掛けたつもりだが、
結果は完敗。あろうことかうちのエースが自滅した。
オレンジタオルを嬉々としながら振り回す場面を何度も見せられる。
自分の周囲だけが不快指数MAXになったような東京ドームだった。」
去年の開幕戦から一年間。読売巨人は箇条書きで書けるほどのことをやらかしてきた。
まぁ大型補強、裏金などは多かれ少なかれ阪神球団もやってきたことなのだろうが、
今回はこういうことが露わにされていく過程がまったく不細工だった。
とくに「清武の乱」は日本シリーズの直前に勃発し、しばしスポーツ紙の話題を独占した。
楽天の嶋捕手が「見せましょう、野球の底力を」と感動的なスピーチで開幕したプロ野球。その集大成たる日本シリーズをスキャンダルで汚した罪を絶対に許すことは出来ない。
(そこで日本シリーズを二面に追いやったマスコミも程度が知れるのだが・・・)
私はもともと自他ともに認める極端な巨人嫌いではあるのだが、
とにかく今年だけはこんなチームに絶対優勝させてはならないと思うのだ。以上。
さて試合は能見と杉内の投げ合い。
杉内俊哉は巨人の大型補強の目玉だ。
2003年の日本シリーズでMVPを獲られて以来の阪神タイガースの天敵。
それも含めてソフトバンク時代の杉内との対戦成績は1勝7敗。
昨年も福岡と甲子園で見事に捻られている。(Tigers DATA Lab.)
交流戦ならば年に2試合の脅威で済むが、巨人に移籍されたとなるとそうはいかない。
前回の甲子園ではスミ1を守ってなんとか辛勝したが、あの時の巨人打線とは違う。
しかし「打倒巨人」の思いにカッカしていた私。
杉内登板でいきなり怒りのテンションは弱まってしまう。
天敵が相手だからではない。なにせ杉内俊哉というスターを観るのは初めてのことで、
テレビでしか見たことがなかった彼のマウンドを生で見られる興味が先に立ってしまう。
日本球界を代表する左腕がたまたま巨人のユニフォームを着ているだけに過ぎず、
実際、マウンドの杉内の佇まいからは一切の巨人臭が漂ってこないのだ。
だからどうしても杉内主観で試合を観てしまう。
正直これにはかなり機先を制されてしまった。
一方、能見もいわずと知れた巨人キラーだ。
今夜は息詰まる投手戦の予感を抱きながら東京ドームに乗り込んだ次第。
その「息詰まる投手戦」の予感は初回から瓦解する。
一回表。先頭安打で出たマートンを金本のタイムリーで還し、あっさりと先制してしまう。
湿っていた打線が、五番・金本起用で早くも功を奏した形となったわけだが、
この先制点で「今夜は荒れるのか?」という予感が脳内で上書きされてしまい、
残念ながらこちらの予感の方は嫌な方向に的中してしまうことになる。
能見の立ち上がりはスタンドから観ていても良くないのがわかった。
ボールのキレよりも、身体のキレがまったく感じられない。
今回のタイトルを「能見、一人相撲」としたが、その一人相撲は初回裏に集約された。
先頭の長野にいきなりツーベースを浴びると、3番坂本にもレフト前に運ばれる。
5番の村田のところでワイルドピッチ。ここで早くも同点に追いつかれ、
吉伸のPゴロの打球処理を焦って一塁にとんでもない悪送球で二人を返してしまう。
いきなりの3失点だがタイムリーはゼロ。すべてが能見の失策についた。
それにしてもブラゼルへのトスがとんでもない悪送球になった瞬間、
私は先日のマートンの後逸と同じポーズで天を仰いでしまったではないか。
打たれての失点は諦めがつくが、こういうのはアホみたいに呆然とするしかない。
続くボウカーには粘られてフォアボール。
巨人打線も今までさんざんと能見を研究してきたのだろうが、
今日は狙い球を絞るのではなく、低めの変化球は手を出すなとの指示が徹底されていたようだ。
何故に「一人相撲」だったのかといえば、この回の三つのアウトはすべて三振。
野手の手を煩わしたのはアウトカウントを取ることではなく、暴投や悪初球の処理だった。
そこから杉内は立ち直ったというよりも、粘りながら徐々に修整してきた感じ。
とくにランナーを出してからは丁寧にコースをついて的を絞らせない。
結果として2-7の惨敗だったが、安打数は巨人の10本に対してタイガースは9本。
能見は間違いなくセ・リーグを代表する左腕だと思うのだが、
リーグを代表する左腕と球界を代表する左腕との違いはこういうことなのかもしれない。
最も杉内との対決を云々する以前の問題で、能見の「一人相撲東京ドーム場所」という試合だったのだが・・・。
◎4月28日(土)|巨人4回戦(東京ドーム)18:00開始/44427人/3時間08分
先発:能見×杉内|スコア:2-7|勝:杉内/負:能見
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阪神タイガース・野球
2012-05-01T23:59:00+09:00
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流れ断ち切れず 【4.21横浜スタジアム】
甲子園の中継を観ていると空席があちこちに点在している。
今日の浜スタは土曜日にも関わらず、内野のスタンドに空席が目立つ。
野球人気の低迷は、地上波放送の激減と低視聴率が根拠のようにいわれ、
その反証で観客動員の好稼働があげられていたが、それもどうも...
甲子園の中継を観ていると空席があちこちに点在している。
今日の浜スタは土曜日にも関わらず、内野のスタンドに空席が目立つ。
野球人気の低迷は、地上波放送の激減と低視聴率が根拠のようにいわれ、
その反証で観客動員の好稼働があげられていたが、それもどうも怪しくなってきた。
相手側の外野応援席まで虎ファンが浸食する現象は単なる阪神バブルだったが、
少々天気の怪しい週末だとしても2万人そこそこの動員はやはり寂しい。
それでも昨夜のような試合をやっていれば仕方ないことか。まず当日券が伸びない。
大阪でのDeNAベイスターズとの開幕カードは1勝1敗1分という結果だったが、実は3タテ食らう目もあり、今年のベイはやるかもしれないなどとも思っていた。
ところが対戦相手が一巡した段階で、タイガースは首位戦線に留まり、ベイは前田健太にノーヒットノーランを記録されるなど大きく躓いてしまう。
野球は始まってみないと分からないという典型だろうが、ここまでのタイガースは強い勝ち方をした試合が随分と少ないなという印象もある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という野村語録があるが、どうもタイガースはそんな不思議な勝ちを拾っていた気がする。
昨日の勝利で中畑ベイスターズはようやく本拠地で片目が開いたらしい。
タイガースは残塁12。相手がお膳立てをしてくれているにも関わらず、あと一本が出ず、ブラゼルの走塁ミスもあって非常に不細工な敗戦を喫した。
今日は試合前にセカンド付近でベースランニングを反復するブラゼルの姿があり、
外国人助っ人とはいえ最低限のことはやるものだと、まずはひと安心。
そして、ブラゼルのその反復練習の成果がいきなり出る。
二回の表は金本のライト前ヒットではサードまで駆け込み、
三回はマートンの2ベースで一塁から一気に迫力満点の本塁生還。
昨日の失敗があったからこその先取点。この「流れ」は非常にいい。
普通ならばチームは乗っていく。
「負けに不思議の負けなし」はその通りだろう。
結果的に今日も11残塁。敗戦の理由は不思議でもなんでもないのだが、
昨日、今日と「流れ」は絶対に来ているのに点が入らない。
ベイは二度の本塁タッチアウトにゲッツーを焦ってセカンド悪送球。
連日、勝利へのお膳立てをしてもらっているのに、流れが来ないのは不思議といえば不思議だった。
それにしてもマートン。
打球がグラブをすり抜けてボールがフェンスまで転々としたとき、
「あっちゃー」とスタンドで思わずのけぞってしまった。
そもそも自らのタイムリーでブラゼルの大激走という場面を演出したばかりだ。
普通、この直後にああいうプレーは出ないものなのだが。
こういう不思議が邪鬼の如く顔を出すあたりは、まだまだ弱いということなのだろう。
ま、昨年の浜スタ第一戦のコバヒロによる「四球・四球・死球・暴投・痛打」よりマシか。
そういう「去年よりマシ」と思う心が邪鬼を呼び込むことになるのだが。
◎4月21日(土)|DeNA5回戦(横浜)14:00開始/21506人/3時間22分
先発:スタンリッジ×小杉|スコア:3-4|勝:小杉/S:山口/負:スタンリッジ
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阪神タイガース・野球
2012-04-28T14:29:00+09:00
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仇花の一発なれど 【4.1京セラドーム大阪】
試合開始前、今日は負けないだろうと楽観していた。
予告先発は岩田。昨季はチーム一の2.29の防御率を残しながら9勝13敗。
もともと二桁を目標とする投手ではないのだから、さぞ悔しい思いをしたことだろう。
今季はオープン戦からきっちり中6日で調整してきた。...
試合開始前、今日は負けないだろうと楽観していた。
予告先発は岩田。昨季はチーム一の2.29の防御率を残しながら9勝13敗。
もともと二桁を目標とする投手ではないのだから、さぞ悔しい思いをしたことだろう。
今季はオープン戦からきっちり中6日で調整してきた。
とくに一週間前の東京ドームでのシアトルマリナーズ戦では、内角を突かなくとも打者のタイミングを巧みに外し、イチローのバットをへし折って内野ゴロに仕留めた場面など、メジャーリーガーを相手にマウンドの岩田が頼もしく大きく映ったものだった。
この日の岩田も序盤3回をパーフェクトに封じ込め、万全の仕上がりを感じさせる。
ところが四回二死から連続ヒットを浴び、新井の痛恨のタイムリーエラー。
また援護なく足を引っ張られてしまうとの予感が岩田の脳裏を霞めたのではないか。
狂ったリズムを修復することなく、ボールが真ん中に吸い寄せられて痛打を浴びる。
マウンドを降りる際、近くの放送ブースの声が空しく響く。「岩田、失点4」と。
七回表を終了した時点で0-6。三浦の出来を考えれば今日の敗戦は確定か。
「ったく、大阪まで乗り込んで三浦の好投を観せられるとは…」と嘆きながらも、
6点目をスクイズで取りに来た中畑の小賢しい采配に、すっかり気分も萎えていた。
七回裏。出し抜けに金本のバットが火を噴く。
本当に「出し抜け」の一発だったし、まさに「火を噴いた」先の閃光だった。
もうこのホームランが見られたのなら大阪まで来た甲斐もあったというもの。
結果として2-6の負け試合。今は悔しいが、勝敗など簡単に記憶の藻屑と消える。
しかし京セラドーム大阪というロケーションに、投手が三浦という役者の良さもあって、
金本の打球がライトスタンドに突き刺さった瞬間の記憶は半永久的にとどまるだろう。
これはそこそこの歳月で野球を観てきた経験則が教えてくれる。
2003年の阪神球団の公式BBSでネットの面白さを知ったときのことを思い出す。
あの時は虎キチの多くが「金本よ、阪神を変えてくれてありがとう」と叫んでいた。
でも、あの当時で既に35歳を越えて、金本がユニフォームを脱ぐ日がそれほど先のことではないという不安を潜在的に抱いていた。
あれから9年。赤星、濱中、矢野、片岡が引退し、今岡、藤本が縦じまを脱ぐ。
結局、2012年の開幕スタメンには金本だけが残っている。
移籍して9年の歳月の経過で、肉体の衰えを指摘され様々な批判も浴びた。
しかし今まで球場で40本ほどの「アニキの一発」を体感してきた中でも、
今日のホームランの力感は全盛期とまったく変わるものではなかった。
この先、一本でも多く、金本の一発に遭遇できるのだとすれば、
それは非常に有難いことだと思っている。
たとえ、仇花の一発だとあろうとも。
◎4月01日(日)|DeNA3回戦(京セラドーム大阪)14:00開始/32016人/3時間18分
先発:岩田×三浦|スコア:2-6|勝:三浦/負:岩田
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阪神タイガース・野球
2012-04-26T23:59:00+09:00
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和田豊、際どく初勝利 【3.31京セラドーム大阪】
二年ぶりに来阪して観る開幕カード。
深夜バスの寝苦しさに悶絶しながら着いた大阪は土砂降りだった。
宿泊予定の西梅田のホテルへ荷物を預けて天満宮へ。
雨をしのぐため身を寄せた天神商店街はまだ開店前でシャッターが並ぶ。
天神様に手を合わせながら急逝した...
二年ぶりに来阪して観る開幕カード。
深夜バスの寝苦しさに悶絶しながら着いた大阪は土砂降りだった。
宿泊予定の西梅田のホテルへ荷物を預けて天満宮へ。
雨をしのぐため身を寄せた天神商店街はまだ開店前でシャッターが並ぶ。
天神様に手を合わせながら急逝した仲間を偲び、ゆかりの繁盛亭、白米稲荷を歩く。
色々な思いが交錯した今年の大阪は忘れられない遠征になるのだろう。
渡すはずのチケットは、遺影の飾られた祭壇に供えてきた。
昨日の開幕戦は勝たなかったし、負けなかったという試合。
常識的に考えれば、能見が投げて、球児まで繋いで星を逃したのだから「負け」か。
オープン戦は惨憺たる成績で12球団の最下位だった我がタイガース。
一方、東京のマスコミでは中畑が元気一杯に一面を飾っていたベイスターズ。
どうもその勢いのまま、濃紺のユニフォームの方が躍動感に溢れている。
スタンリッジの制球力も今イチで、カウントを不利にしてストライクを取りに行ったボールを弾き返され、早くも初回に点を失う。
チラと見たOP戦の登板も良くなかったが、昨年の後半から調子は落ちたままなのか。
2か月連続で月間MVPを獲った昨年前半は、カーブ、スライダーを生かすべくストレートが走りまくっていた印象だったが、その威力は完全に影を潜めている。
そして開幕まで最低のチーム打率だった打線も相変わらず湿っていた。
六回表に追加点を獲られ2点差となった時点で、一安打だけのタイガースに対して、ベイは既に8安打。
中盤まで完全に主導権を取られたままで、重苦しい展開が続く。
双眼鏡で配球を観察していた虎友は、「緩急つけられて最後に緩い球でやられとる」と。
思えばこの彼とも9年前に阪神球団の公式BBSで西と東とでエールを送り合った仲だ。
こうして肩を並べて観戦していることもなかなか感慨深いものはあった。
そうはいうものの、せっかくの機会にこちらは強行日程が祟り、時々舟を漕ぐ始末。
油断していると眠りに落ちかけて、歓声に「ハッ」とする体たらくだ。
新井がドンピャシャのタイミングでボールをぶっ叩く。
やはり四番の仕事はこうでないといけない。
試合後のお立ち台では「どんな気持ちでバッターボックスに入ったか?」と聞かれて、
「気合い全開で入りましたと」と答え、「打った瞬間はどうでしたか?」の質問には、
「ホッとしました」と正直にいってしまう真面目ぶり。タイガースの四番は大変だ。
それと金城の一二塁間を抜けるという当たりをダイビングキャッチした城島。
後々、3月31日の開幕2戦目ってどんな試合だっけとなった時、
この二つの場面で脳内に沈殿した記憶を引っ張り出すことは可能だろう。
なにはともあれ和田豊、辛勝なれど初勝利を飾った。
◎3月31日(土)|DeNA2回戦(京セラドーム大阪)14:00開始/32830人/3時間33分
先発:スタンリッジ×ブランドン|スコア:3-2|勝:スタンリッジ/S:藤川/負:ブランドン
※Tigers DATA Lab.
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阪神タイガース・野球
2012-04-23T23:59:00+09:00
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イチローが来た! 【3.25東京ドーム】
一ヶ月も近くも前の試合観戦記を書くのはしんどい。
しかも、ちょっと観戦記どころではなかった諸々の出来事があり、
それでもここ数年間せっかく続けて来たのだからという思いもあり、
つまりはその辺りの葛藤をぐちゃぐちゃと巡らせながら時間が過ぎていき、
...
一ヶ月も近くも前の試合観戦記を書くのはしんどい。
しかも、ちょっと観戦記どころではなかった諸々の出来事があり、
それでもここ数年間せっかく続けて来たのだからという思いもあり、
つまりはその辺りの葛藤をぐちゃぐちゃと巡らせながら時間が過ぎていき、
時間が過ぎれば過ぎるだけ失われていくのが記憶というもの。
我が阪神タイガースがシアトルマリナーズと対戦した東京ドーム。
脳裏にかろうじて引っ掛かるのは----
打席に入ったイチローにスタンドから浴びせられる無数のフラッシュ。
そのイチローが見上げるしかなかった金本のライト上段に飛び込む一発。
川崎宗リンの嬉々としてグランドを駆け回っている姿。
淡々とメジャーリーガーたちを手玉にとる岩田。
そして試合後に関東在住の虎党たちと過ごした楽しいひととき。
幸いにして試合経過は簡単にネットから引っ張ってこれる時代。
試合経過を辿って行けば、あの時のあの場面は蘇ってくる。
ただそれは小説を読みながら場面を想像するのと同じで、
実像がひどくあやふやな、現実感の薄い茫洋とした風景のようにも感じられる。
「イチロー〜スズ〜キ」というコールがドームに轟く。
日本人にとって、最大級のスーパースターだ。
イチローが出演する広告の看板が常設され、ビジョンには別のCMも流れる。
おそらくマリナーズナインは改めてイチローの凄さを思い知ったはずだ。
大きな体躯のメジャーリーガーたちの中では圧倒的に細身ながらも、
やはりスーパースターから滲み出る色気は半端ではない。
最初の打席で三塁線を突破するもその後はノーヒット。
岩田にバットを折られる場面もあったが、やはりそこは親善試合だ。
オリックス時代のイチローを一度でいいから見ておくべきだったと思う。
試合はタイガースが快勝した。
◎3月25日(木)|シアトルマリナーズ (東京ドーム)12.08開始/42137人/2時間48分
先発:岩田×ノエシ|スコア:5-1|勝:岩田 /負:ノエシ
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阪神タイガース・野球
2012-04-17T23:00:00+09:00
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映画 『 ドラゴン・タトゥーの女』
スティーグ・ラーソンの原作『ミレニアム』は、現在三部作目を絶賛読書中だ。
先に本国のスウェーデンでは映画化済みということで、本作はデビット・フィンチャーによるハリウッドリメイク版ということになっている。
実は細かいカットを矢継ぎ早に繋いだ予告編を観...
スティーグ・ラーソンの原作『ミレニアム』は、現在三部作目を絶賛読書中だ。
先に本国のスウェーデンでは映画化済みということで、本作はデビット・フィンチャーによるハリウッドリメイク版ということになっている。
実は細かいカットを矢継ぎ早に繋いだ予告編を観たときに、へんてこりんなアレンジの「移民の歌」が流れているのを聴いて一抹の危惧は抱いていた。
何というか、Zepのスピリットをガチャガャに混ぜたようなサウンドがこのハリウッド版のキワモノ感を象徴しているような気がしていたのだ。
ミカエル・ブルムクヴィストにダニエル・クレイブ、リスベット・サランデルにルーニー・マーラーという配役。
原作のイメージからするとダニエル・クレイブのミカエルはない。
私は原作を読んでいてミカエルのイメージは(年代は違うが)ずっとマイケル・ジェイストンのイメージだった。
本来のミカエルはピュアだがジャーナリストとして熱い正義感を持つ明るいキャラクターであり、ダニエル・クレイブにはその間逆のイメージがある。
もちろん映画は必ず原作小説を忠実に踏襲する必要はないし、加賀恭一郎=阿部寛とは違って、私が現在進行形で読んでいる『ミレニアム』のミカエルにダニエル・クレイブの面影をちらつかせてしまうこともない。
もともと映画は映画としての世界観をしっかりと持つべきであるというのが持論だ。
原作のミカエルとリスベットの取り合わせは文系と理系のアンバランスさが妙な雰囲気を醸し出しているのだが、映画はストレートにダニエル・クレイグのクールな佇まいとエキセントリックなリスベットを対比させて静と動のコントラストを演出する。
その狙いもわからないではない。従ってダニエル・クレイブの起用もありだとはともいえる。
もちろん「ミレニアム」編集室の作りも編集長のエリカもイメージとは程遠いし、リスベットをレイプする破廉恥な弁護士はあんなデブとは違う。
ミカエルが絶体絶命の危機に陥る拷問部屋のイメージはもっと暗かったはずだし、ましてリスベットの上司、アルマンスキー社長は恰幅のいい禿げ頭でなければならず、『ER』のDr.コバチが出てきたときにはズッコケたりと、そんなことを気にしていてはキリがない。
こんな具合になまじ原作から映像を作ってしまうと映画とのギャップが気になってしまうもので、本来なら映画を観るときはきっぱりと原作を忘れて臨むのが正しいのだろう。
しかし私が本当に危惧したのは、果たしてデビッド・フィンチャーの資質が長編の原作ものにきちんとアジャスト出来るものかどうかにあった。
実際、文庫本レベルで1000ページ超の原作を158分の尺でまとめるのは難しい。
下手をするとストーリーだけを追いかけたダイジェスト版みたいな映画になりかねず、MTV出身のデビッド・フィンチャーだとスピード感を信条とするあまり、そういう拙速極まる絵にしてしまう恐れも十分にあった。
そんな悪い予感は当たってしまったということだろうか。
『ベンジャミン・バトン』は見逃しているが、ここには『セブン』の革新も、『ファイトクラブ』の創造も、『ソーシャルネットワーク』の独善もなく、『ドラゴン・タトゥーの女』は妙に匂いのない映画に仕上がってしまっている。
結果的には原作の大きな魅力であったジャーナリズムの高貴な精神性と、スウェーデンへの土着と負の歴史のパートをすっぽりと飛ばし(ついでにオーストラリアへのロケも止めて)、ミステリーの部分だけをかろうじて完結させたような映画になってしまった。
しかし『ドラゴン・タトゥーの女』そのものが二部、三部への伏線として、キャラクターの紹介に徹したとすればこういう作り方も納得できないではない。
これからリスベット・サランドラを全面に押す映画にするつもりならば、ルーニー・マーラーの出だしは悪くないと思った。
余談だが、エンドクレジットで分かったのだが、ミカエルに事件を依頼するヘンリック・ヴァンデル老人をクリストファー・プラマーが演じていたことには驚いた。いわずと知れた『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐ではないか。
映画館から離れていると思わぬ人と出会って面食らうことがしばしばあるものだ。
2012.2.25 109シネマズグランベリーモール
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2012-03-01T01:13:00+09:00
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映画 『 麒麟の翼』
被害者は腹部を刺されたまま8分間も歩き続けた後に、日本橋の翼のある麒麟像の下で力尽きていた。なぜ、誰の助けも求めず、彼は一体どこへ向かおうとしていたのか。一方、事件の容疑者、八島冬樹は現場から逃亡しようとしたところを車に轢かれて意識不明の重体だった...
被害者は腹部を刺されたまま8分間も歩き続けた後に、日本橋の翼のある麒麟像の下で力尽きていた。なぜ、誰の助けも求めず、彼は一体どこへ向かおうとしていたのか。一方、事件の容疑者、八島冬樹は現場から逃亡しようとしたところを車に轢かれて意識不明の重体だった。報せを聞いた八島の恋人、中原香織は、彼の無実を訴えるが・・・。
スクリーンの大きさを掴みきれていないテレビスタッフにありがちな平板な映像。電気的に思えるのは、35mのプリントではないからだろう。
日本の映画会社が映画を撮ることはなく、テレビ局が制作した映画を全国の映画館に配給するのが仕事になって久しい。ポスタータイトルは『麒麟の翼〜劇場版・新参者〜』だが、メインタイトルは『麒麟の翼』。
今や主流となっているテレビシリーズの劇場版で、制作はTBS。映画興行でトントンの成績であれば、後は劇場公開作品の箔付けで放映時にたっぷりと儲けられるという仕組みなのか。
映画会社にとってテレビ局は重要なスポンサーなのだからあまり文句をいってはいけないのだが、それでも以前はテレビ局が出資する映画でもきちんと映画監督が撮っていた。それだけ撮影所にはテレビディレクターにおいそれと足を踏み込ませない結界が敷かれていた。結局、この風潮はデジタル時代を迎え、誰でも映画が撮れる時代となり、昔の撮影所システムが消滅したという証左なのだろう。
・・・それにしてもスクリーンを見つめながら放映時にはここでコマーシャルが入るというタイミングまで見えてしまうのは如何なものかと思うのだが。
それでも無難にエンディングまで観ていられたのは、骨子のしっかりとした原作を得て、ストリーが澱みなく流れていたことと、阿部寛という大画面に耐えうるだけの絵面をもった俳優の力なのだろうと思う。
阿部寛といえば、日本人離れした体躯と甘いマスクで本人曰く「フェラーリで乗り付けるだけの二枚目」から完全に脱皮して、今や日本の演技陣を牽引するほどの活躍を見せているが、その転機となったとされるつかこうへいの舞台『熱海殺人事件/モンテカルロイリュージョン』を昔、パルコ劇場で観たとき、いくらなんでもあんな木村伝兵衛はないだろうと思いながらも、つかこうへいに徹底的に鍛えられ、必死に殻を破ろうとする阿部寛のドキュメンタリーに触れたような鮮烈な感銘を覚えたものだった。
この『麒麟の翼』での加賀恭一郎という刑事役に阿部寛自身がどれだけの手応えを感じているのかはわからないが、上手く映画のトーンに溶け込んでいたことに感心する。喜怒哀楽の少ない役柄で完全無欠の主役というのは想像以上に難しい仕事だったのではないだろうか。これで加賀恭一郎といえば阿部寛というイメージは完全に出来上がってしまった。
原作はいわずと知れた東野圭吾。加賀恭一郎ものは『新参者』しか読んでおらず、『麒麟の翼』は文庫待ちの状態ではあったのだが、原作を読まずしても東野圭吾のプロットの作り方巧みさは十分に窺うことができる。
日本橋という江戸時代からの中心地でありながら(だからこそか)大都会と古くからの下町情緒が混在する街並みの空気感に、その地ならではの現象と人間模様を巧みに取り入れた物語作りの上手さはさすがといったところだ。
私は東野圭吾の本を読むたびに感心するのは、物や人から浮かび上がるあらゆる要素を物語にしてしまう発想力にある。
この物語でいえば日本橋に翼の生えた麒麟の像があり、周辺には七福神の寺があり、とくに水天宮は安産と水難除けの神様として有名であるという要素が紡ぎ出され、それを組み合わせて感動のミステリーに仕立ててしまう発想は見事だとしかいいようがない。
監督の土井裕泰はTBSのエースディレクターとのことだが、映画としてのクオリティにはやや欠けたとしても、「原作に忠実に作られていることに感動した」という東野圭吾のコメントにあるように、監督なりの新解釈を盛り込んでやろうなどと妙なヤマっ気を起こさず、原作の流れに任せたのは正解だったのだろう。
どうでもいいような場面に顔の売れている俳優を起用するなど、テレビ局が作った劇場映画らしい悪癖は垣間見えるものの、おそらくテレビ放映時にはもっと完成度があがって見えるに違いない。
2012.1.30 TOHOシネマズ渋谷
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2012-02-18T23:59:00+09:00
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映画 『 J・エドガー』
レオナルド・ディカプリオが主人公の20代から77歳までを演じ、話題となったクリント・イーストウッド監督作品で、相変わらずスクリーンを見つめる観客たちの息遣いを見計らうように、カットを積み重ねていく手腕はお見事。
しかし『ミリオン・ダラー・ベイビー』や『...
レオナルド・ディカプリオが主人公の20代から77歳までを演じ、話題となったクリント・イーストウッド監督作品で、相変わらずスクリーンを見つめる観客たちの息遣いを見計らうように、カットを積み重ねていく手腕はお見事。
しかし『ミリオン・ダラー・ベイビー』や『父親たちの星条旗』、そして何といっても『グラン・トリノ』で観客を魅了してきた近々の諸作品と比べると、やや違和感を覚えてしまったことを白状しなければならない。
48年間で8人の大統領に仕えたFBI長官のジョン・エドガー・フーバーは、人生の終盤に差し掛かり、部下に命じて回顧録を書き取らせるのだったが・・・。
当然、イーストウッドのことなので、ジョン・エドガー・フーバーの回顧に合せて画面を作っていくような安易な手法はとっていない。
記憶はFBI誕生以前へと遡り、彼の表向きの経歴が語られるとともに、その裏側の野望、企み、葛藤、苦悩が次第に明らかにされていくといった具合に、時にはフーバーの回顧を裏切るような映像を展開させていく。
決してFBI長官のジョン・E・フーバーの伝記に縛られるのではなく、あくまでもJ・エドガーとして映画は自在に謎多き人物像を突き詰めているのだが、そこで合衆国の近代史を彼の人生を借りて浮かび上がらせようとしたのであれば、それは意図したほどは巧くはいっていなかったと思う。
ひとつはイーストウッドが巨匠すぎることにあり、大人すぎることにある。
せっかく特殊メイクを駆使してディカプリオが熱演をしているのだから、この題材はもっとポップに跳ねさせてもよかったのではないか。
共産主義を口汚く罵倒し、デリンジャーは俺が仕留めたのだと虚勢を張り、キング牧師を罠にかけようとした男の危うさや狡猾さをもっと前面に出すべきで、引いたところから冷静に人物をフォーカスするのではなく、ディカプリオの完全スター映画になるのも厭わずに、もっと寄って、もっとエキセントリックな映画にすべきだったと思うのだ。
ディカプリオもナオミ・ワッツもかなり頑張っていたのだが、結局はイーストウッドの冷徹な演出の中にスポイルされてしまっている。それが今回の映画に限っては残念だった。
イーストウッドはインタビューで「完璧なエドガー像は、観客の解釈が加わって完成するものだ。同じ絵画を見ても解釈が人によって違うように。観客はこの映画からそれぞれ自分なりの完璧な結論を見い出してくれるはずだ。私は答えを出すのではなく、疑問を投げかける映画が好きだ。」と語っている。
その演出論は裏目に出たのではないかという気がしてならない。
そして、それ以前の問題として日本の観客にとってジョン・エドガー・フーバーなる人物に殆ど馴染みがないことも恨めしい。
彼の自宅に飾られた無数の甲冑や日本刀。最愛の母を亡くし、強さを象徴する武器に精神的に守られようとしていた心情は痛々しいくらいで、マザコンであり、ホモセクシャルな側面もしっかりと描いているのだが、アイゼンハワー、デリンジャー、ジョージとロバートのケネディ、リンドバーグ、キング牧師、ニクソンと主人公の周辺の賑やかさから、この人物の存在感や影響力を想像していかなければならない作業がなんとももどかしかった。
2012.1.29 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-02-04T23:59:00+09:00
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映画 『 ヒミズ 』
観終った後、席を立つのが妙に億劫で、掌を見れば汗でぐっしょりになっていた。
久々にこんな映画体験をした。
すでに監督の園子温(その・しおん)の評価はすでに固まっているようだが、何分、すっかりと映画オンチと化してしまった私は初めて園子温作品に触れるこ...
観終った後、席を立つのが妙に億劫で、掌を見れば汗でぐっしょりになっていた。
久々にこんな映画体験をした。
すでに監督の園子温(その・しおん)の評価はすでに固まっているようだが、何分、すっかりと映画オンチと化してしまった私は初めて園子温作品に触れることとなった。
「 “ヒミズ”とは、トガリネズミ目モグラ科に分類される哺乳類。夜になると地上を徘徊することもあるが、日光が照る所には出てこない。“日見ず”という和名もここに由来する」
Wikipediaのヒミズの説明から連想されるものは、ストレートに日陰のイメージだ。
確かに明るい映画ではない。行き場のない絶望を描いてもいる。
しかしこの『ヒミズ』という映画。単なる日陰者たちの日常を陰々と綴ったものではなかった。
絶望を突き抜けたところから訪れる光を力強く模索した映画となっている。
まず冒頭から震災によって壊滅した東北の実景から始まる。
荒涼とした瓦礫の山の中でヴィヨンの詩を朗読する少女。
そこに少年が現れ、自らのこめかみに拳銃をあてる。
実際、津波による被災地の光景の中で展開されるそれらの場面に「不謹慎ではないか」と異を唱える人もいるだろう。
私も少年や少女の心象を瓦礫の中に投影するのは少し違うのではないかと感じていた。
しかし、では2011年の絶望を描こうとしたときに3.11を避けて通っていいのかといえば、それはあり得ないとも思う。
もともと映画は世の中のあらゆる公序良俗の対極にあるものだ。
映画が本来内包していた毒みたいなものを園子温という監督が呼び覚ましたのであれば、それを受け入れて消化するのも観客の選択肢のひとつではある。
そもそも津波に呑まれた瓦礫の風景というものを我々はニュースでずっと見てきたわけで、それをドキュメンタリーならば許されるものがフィクションはけしからんという理屈などあるはずもなく、そこに斬り込むことも映画の使命の内なのかもしれない。
この光景は今しか撮れないし、これをセットで再現しても意味はない。
ましてニュース映像でお茶を濁すのではなく、実際に現地にロケし、そこに俳優を立たせて芝居をされることに意味があるのだろう。
おそらく深作欣二や今村昌平が存命なら、彼らもカメラを回すことを厭わない。
主人公は中学生の同級生・住田祐一と茶沢景子。
ごく普通に生きることを願っていた祐一は、震災で財産を失った夜野さんや田村さんたちを実家の敷地に住まわせ、愛する人と守り守られ生きていくことを夢見る景子は、祐一に疎まれながら彼との距離を縮めていく。
ところがある日、借金で蒸発していた祐一の父が金をせびりに舞い戻ってきて、祐一を殴りつけ、母親も中年男と駆け落ちしてしまう。
普通の日常を求めたい祐一の気持ちは痛いほどわかる。しかしこの状況で祐一が普通の日常を送ることがいかに現実的ではないのかもよくわかってしまう。
父親は祐一に繰り返しいう言葉は「俺はなぁ、ずっとお前のことがいらなかったんだよ」。
祐一も景子もそれぞれの親が望んでいたことは「死んでほしい」ということ。
それを15歳の二人が普通に受け止める姿は悲惨であり、哀しい。
ストーリーは更に暗転して父親殺しに発展していく。
『青春の殺人者』での水谷豊の父親殺しにはギラギラする青春の迸りがあったものだが、『ヒミズ』はひたすら暗くモノトーンな闇に包みこまれているようなイメージだった。
震災に見舞われた生徒たちを前に教師が「がんばれ」を連呼する。
なぜ頑張らなければならないのか理解できない祐一。普通じゃだめなのかと。
教師のいう「がんばれ」はある種の軽薄さを伴ってひどく空疎に聞こえる。
3.11以降、日本中のあちらこちらから響いた「がんばれ!」「がんばろう!」の大合唱は、醒めた耳には聞くに耐えないものだったのかもしれない。
確かに「がんばれ」の形骸化は私も感じないこともなかった。
しかし形骸化された「がんばれ」に腹を立てるほど私もガキではなく、たとえうわべの美辞麗句としての「がんばれ」であっても、3.11に際して「がんばれ」という言葉の役割りは一応機能していたと思っている。
しかし園子温はうわべの「がんばれ」を否定し、『ヒミズ』を観る者すべてが形骸から突き抜けた本当の「がんばれ」に呼応するように仕向けることに執心する。
少年をどん底に突き落としながら、そのどん底の先にあるものを見ようとした。
15歳同士の純愛物語が突き抜けた「がんばれ」には心が締め付けられる思いだ。
もし入れ替え制のシネコンでなければ、一日中、映画館にいたかった気もする。
それにしても暴力が全編を覆う。先日見た『スマグラー』も随分と人が殴られる映画だったが、『ヒミズ』にはカリカチュアライズされていない暴力が蠢いている。
こういう絵が撮れる人は絶対に胸中に暴力を内向させているのだと思う。
この園子温という映画作家はどんな若手かと思っていたら、驚いたことに何と私と同じ生まれ年だった。
そうなると今まで生きてきた中で、刺激を受けたもの、唾棄して捨て去ったものに多少の共通項はあるのかもしれない。いや、あるに違いない。
そのひとつにはあの享楽と喧騒だけの80年代に20代を過ごしてしまったことへの世代的な憤りがあるのではないか。
あの年代に対する怨差なくして、50歳になったとき『ヒミズ』が撮れるとはとても思えない。
2012.1.22 TOHOシネマズ海老名
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映画
2012-01-27T23:59:00+09:00
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映画 『 ロボジー 』
弱小家電メーカーの窓際三人の技術者が新型ロボットの開発に失敗し、その場しのぎで中に老人を入れてロボット博に出場したことから巻き起こるコメディ。
もし監督・脚本が矢口史靖でなかったらまず観ないだろうという内容ではある。
新作の『ロボジー』で目指...
弱小家電メーカーの窓際三人の技術者が新型ロボットの開発に失敗し、その場しのぎで中に老人を入れてロボット博に出場したことから巻き起こるコメディ。
もし監督・脚本が矢口史靖でなかったらまず観ないだろうという内容ではある。
新作の『ロボジー』で目指したものは「工学系コメディ」か。
相変わらずの矢口節とでもいうのか、どこか箍(たが)が外れた独特のユーモア感覚で楽しい映画に仕立てたとは思う。
しかし私が前作の『ハッピーフライト』のレヴューで「そろそろトリビアとは違う矢口のアプローチも観てみたいものではある」と書いた無いものねだりは今度も叶えられなかったようだ。
矢口はこの映画を撮るにあたり「人がひと皮剥くと中はロボットだったという映画はよくあるので、ロボットがひと皮剥いたら人が入ってたという方が良いんじゃないかと、今回の映画が思いついた」と語っている。
確かに矢口史靖は「怒り」や「悲しみ」といった自身の情動をフィルムに燃焼させるタイプの映画監督ではない。次回作を企画するときも「恋愛の深淵を描く」ことや「青春の焦燥を描く」という発想ではなく「次はどの業界を描こうか」「まだ映画が取り上げていない隙間があるのではないか」といった題材探しに腐心するのだと思う。
あるいは『ウォーターボーイズ』からフジテレビのバックアップがつき、よりコマーシャリズムの先端へと突き進むことに自らの監督人生を確立しようとしているのかもしれない。
まあそれはそれでいいのかもしれない。見つけた題材をいかに面白くエンターティメントに昇華させてヒット作を作っていく才能も十分に個性の内なのだから。
しかし語り口の上手さは相変わらず冴えている。
偏屈な老人に翻弄される三人組と、ロボットおたくの快活な女子大生に翻弄される三人組。
結局、常にエキセントリックなキャラクターの扇の要には彼ら三人組がいることになる。
すぐに状況に流される彼らは、良くいえばほっこりとさせて微笑ましいが、悪くいえばかなり優柔不断でじれったい。
思うに、実際、弱小電器メーカーの窓際エンジニアは概ねこんな感じなのだろう。
見方によっては彼ら三人の成長物語にもなっているが、それが押し付けがましくなく、木村電“機”ではなく木村電“器”という名称がいかにも白モノ家電を扱っているメーカーらしく、ロボットに名づけられた「ニュー潮風」という名前も洗濯機かエアコンの商品名に相応しい。
鈴木老人が家族や老人会で疎まれながら思いっ切り偏屈出来るのも、葉子が“製作者”の影を気にしないでニュー潮風に恋してしまうのも、彼ら三人組の存在感の薄さの賜物だろう。
でも濱田岳もチャン河合も川島潤哉も脇役ではない。間違いなく主役だった。
こういう引っ込んだ存在感を邪魔にならない程度に前面に押し出す術を矢口は心得ている。
おかげで鈴木老人を演じた五十嵐信次郎と、葉子を演じた吉高百里子はキャラクターが立ちまくる。
意外だったのは矢口の書いた脚本はこの二人をあて書きしたものだと思っていたのが、五十嵐信次郎も吉高百里子もオーディションで選出したのだという。
決してミッキー・カーチスを五十嵐信次郎としてキャスティングするというアイデアありきの企画ではなかったようだ。
考えるまでもなく鈴木老人はロボットの中に入ることで名声を勝ち得たわけではない。
老人会で自慢したくても周囲の苦笑を買うのみだ。
しかしニュー潮風として孫たちと撮った記念写真が人生最後の宝物となる。
正体を明かしたい欲求を抑えたのは正しい大人の判断で、なかなかいい場面になった。
そのニュー潮風に疑問を抱いた葉子が、木村電器の面々の足取りを追跡する場面。
吉高百里子という女優のテンションの高さが画面一杯に駆けめぐる。
あの『ひみつの花園』のヒロイン・西田尚美の守銭奴まっしぐらのテンションを思い出す矢口ファンも少なからずいたことだろう。
矢口史靖の作品発表のペースを思うと、次回作は2〜4年後になるのか。
次は一体何を狙っているのか興味は尽きない。
しかし、また話を戻してしまうようだが、これだけ語り口の上手い映画作家なのだから意趣返しにシリアスな犯罪ドラマを一発かまして矢口ファンを唖然とさせるというのはどうだろうか。
2012.1.16 TOHOシネマズ渋谷
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映画
2012-01-22T23:59:00+09:00
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映画 『 ニューイヤーズ・イブ 』
一昨年から「午前十時の映画祭」に足しげく通った甲斐あって、鑑賞マイレージが6000ポイントを超えたので一ヶ月間有効のパスポートと交換した。
これで晴れてTOHOシネマズのチェーン館での上映作品は1月30日まで見放題。
と思いきや、結局は年末年始の休みには一...
一昨年から「午前十時の映画祭」に足しげく通った甲斐あって、鑑賞マイレージが6000ポイントを超えたので一ヶ月間有効のパスポートと交換した。
これで晴れてTOHOシネマズのチェーン館での上映作品は1月30日まで見放題。
と思いきや、結局は年末年始の休みには一本も映画を観ることはなかった。
これは私にとってはかなり異常事態だ。何せタダで映画が見放題なのに・・・。
別に忙しかったわけではないし、家にこもりたかったわけでもない。
期待しなかった映画ほど面白かったときの喜びを他の誰よりも知っているつもりだし、観る前からつまらない映画など世の中にはないのだということもわかっている。
しかし、いざ出掛けようと思っても一向に足が映画館へと向かない。
一体、どうしたらいいのだろうかと内心ではかなり焦っていたのだ。
いくらなんでもこの三連休で一本も観ないわけにはいかない。三谷幸喜の監督作品が昨秋からロングランとなっているので、それにしようとようやく重い腰を上げたのだが、今度はカウンターでまごついてしまっているうちに上映が始まってしまう。
仕方なく開映時間が近かった『ニューイヤーズ・イブ』とカウンターに告げて入場券と交換した。
だからこの映画についての予備知識はゼロ。キャストも監督も知らないままに座席に着いたという次第だった。
結果的にはその予備知識ゼロというのが幸いしてかなり楽しめた。
オープニングにスタッフ&キャストのクレジットが出て来ない趣向は、賑やかな顔ぶれが画面に出て来るたびに「おおっ」と笑いを誘われる。
ヒラリー・スワンク、ミシェル・ファイファー、ハル・ベリー、ロバート・デ・ニーロ、ジョン・ヴォン・ジョビ、サラ・ジェシカ・パーカーなど出るわ出るわでかなり贅沢な気分にさせられる。
監督はゲイリー・マーシャル。もちろん『プリティ・ウーマン』が代表作だが、私は学生時代にこの監督のデビュー作『病院狂時代』というB級コメディを観ている。
あれは新宿で飲んでいて終電がなくなり、歌舞伎町の映画館で始発まで過ごしたときに上映されていた映画だった。
30年のスパンでこの監督の映画はわりといい加減な気分で観てしまったようだが、肩の力を抜いてリラックスして観るのにはもってこいの映画を撮る人のようだ。
2010年の大晦日のニューヨーク。ニューイヤーのカウントダウンイベントのため、タイムズスクエアに集まる人々。
一年前に出会った女性が忘れられない男。高校生の死期が迫った老人と看護師の交流。エレベーターの故障で二人きりで閉じ込められた若い男女。偶然再会した元カップルなど8組の男女の姿を描く群像劇となっている。
こういう群像劇はロバート・アルトマンやクエンティン・タランティーノの諸作を取りあげるまでもなく、伝統的なグランドホテル形式のシチュエーションドラマはハリウッドのお家芸ではあるし、今や海外ドラマなどでもすっかりお馴染みの手法ではある。
複数の人間のそれぞれが背負うエピソードをザッピングのように見せて、次第にパズルのピースを合わせていく。最後にどれだけ綺麗に完成させていくのかがキモとなる。
最後の着地点がカウントダウンに湧くタイムズスクエアという絵に描いたような舞台であり、これだけの芸達者が揃っているのだから、それ相応の出来になることは約束されていたのかもしれない。
しかし敢えて難癖をつけるとすれば、8つのエピソードを同じ方向に向けて走らせるのだから、どうしてもひとつひとつのエピソードは薄味にならざるを得ないこと。
エレベーターに閉じ込められたカップルの話など、ハプニングはハプニングとして、突然、恋愛感情が高まっていくようなアイディアが欲しかったし、女料理人に復縁をせまるロックスターの話も結局、なんだ二度もビンタされるヴォン・ジョビを見せたかっただけかいなとなる。
だからヒラリー・スワンクに感動的な演説をさせ、ハル・ベリーが戦地に赴任している恋人とスカイプで束の間の逢瀬をさせるなど「泣き」のスパイスを効かせたのではないかと思う。
もちろんそこはオスカー女優たちの貫録と、ここにデ・ニーロが加わったスリーショットは豪華そのもの。空気が一気に支配された瞬間があって、そこは贅沢だった。もしかしたらゲイリー・マーシャルもそれを狙っていたのかもしれない。
2012.1.9 TOHOシネマズららぽーと横浜
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映画
2012-01-10T02:48:00+09:00
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年賀
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戯言
2012-01-01T13:35:00+09:00
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中島みゆき 『夜会 Vol.17 2/2 』 〜赤坂ACTシアター
冷たい雨 降りしきる赤坂に 歌姫の歌うを聴きにゆく・・・
四年連続。すっかり晩秋初冬の吉例行事となった中島みゆき公演から既に数日が経過してしまった。
去年はツアーコンサートで今年は『夜会』。
こういうサイクルもなかなか乙で、四年続...
冷たい雨 降りしきる赤坂に 歌姫の歌うを聴きにゆく・・・
四年連続。すっかり晩秋初冬の吉例行事となった中島みゆき公演から既に数日が経過してしまった。
去年はツアーコンサートで今年は『夜会』。
こういうサイクルもなかなか乙で、四年続けばこういうめぐりにもなるのだろう。
今にして思えば、レコードだけで中島さんに浸っていた時間の何と勿体なかったことか。
歌の聴きはじめこそ古いが、巷の筋金入りと達とは比べるべくもなく私の知識は深くない。
過去の公演記録を読み返すたびに「はぁ」と溜め息をついてしまうのだが、そんな思いを知ってか知らずか(いや知っているはずはないが)、このたびの『夜会』は1995年と97年に上演された『2/2』の再々演となった。
彼と私ともう1人。
どこかに“それ”は居る。
圭を愛することを自分の幸福として生きたい、
そう願う気持ちが、
つのればつのるほど、“それ”は莉花の中から
凶悪な力を増大させながら正体を顕して来た---
舞台版、小説版、映画版を経て、
あの「2/2」が21世紀へ蘇る。
コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」。
記録によれば、この『2/2』から『夜会』は全曲が舞台書き下ろしになったのだという。
それは『夜会』の舞台を観れば既成曲で構成するのに限界があったことはよくわかる。
シンボルとして通奏低音のように高々と歌いあげる名曲『二雙の舟』は別として、演目と楽曲が常に背中合わせにあることによって舞台はひとつの方向性へと進行していく。
主人公の莉花と、自分のせいで生まれてこなかった双子の姉の茉莉。
莉花は常に茉莉の影に怯え、恋人との逢瀬の途中にも茉莉が現われて狂乱する。
前回の『今晩屋』同様にまったくの予備知識もなく観たステージなので、私は莉花の心象の中に茉莉がいるものだと思っていたのだが、解説によるとはっきりと「多重人格」と書かれていた。
しかし鏡に映っては莉花を追い詰めていく茉莉という関係性にこだわりたいとは思った。
莉花は震えるほど茉莉の存在に意識し、その影を自覚しているのだから多重人格者のそれとは違うように思うのだがどうだろう。
茉莉への贖罪の思いが募った挙句にせめて莉花が出来ることは、恋人の圭からの逃避だ。
莉花はベトナムへと旅に出る。どうせ茉莉の呪縛からは逃れられないのなら、恋人に辛い思いをさせないことを選ぶ。
そして恋人・圭を演じるコビヤマ洋一が懸命に莉花の後を追う。
荒れた大海原をさまようように遂に莉花の過去の秘密に辿り着く。
このあたりの展開は観念一辺倒だった前回の『今晩屋』と違い、ミステリーテイストでわかりやすく、映像を使った舞台演出もなかなか凝っている。
しかしここまでの展開では中島さんの色が薄い印象もあった。
一途に追いかける圭の歌声の方が逃げる莉花よりも力強く感じてしまうのだ。
男の声がステージに鳴り響くのを聴きながら、今ひとつ中島さんの声が入ってこない。
正直言うと前半が終了して、幕間の時間で煙草をふかしながら私はやや焦燥感を募らせていたように思う。
20分の休憩の後、ステージは一気に中島みゆきワールドが全開となる。
二階席だったこともあり、オーケストラボックスの瀬尾一三の指揮などが見て取れたのだが、恥ずかしながら舞台にセリがあるのがわからなかったこともあって、いきなり巨大な竹船に乗った中島さんが現れたときにはど肝を抜かれてしまった。
そこで切々と滔々と歌われる名曲『紅い河』。
♪ 流れゆけ 流れゆけ あの人まで さかのぼれ さかのぼれ あの人まで〜
異国情緒満点の曲のスケールもさることながら、いよいよ夜会が夜会らしい本領を見せてきたのではないか。
そしてベトナムのホテルでの圧巻のクライマックス。
植野葉子の莉花と中島さんの茉莉の入れ替わりで初見の私は完全に騙されたが、こういう「騙され」は遅れてきた『夜会』ファンであり、小説やDVDで勉強もしないという初見の怠け者だけに許された特権ではある。
とにかくクライマックスは『目撃者の証言』 『7月のジャスミン』 『幸せになりなさい』 『二雙の舟』 『恋人よ我に帰れ』とたたみかけ、怒涛の熱唱で圧倒してくる。
その真っ赤な衣装が神々しくもあり、痛々しくもある。
私は『夜会』の鑑賞後はいつも「解釈」を放棄してきた。
正確にいえば「解釈」を述べるほど消化できてもいないのだが、「解釈」をしながら舞台を観るなどという器用なことはとても出来ない。
カーテンコールで「今年は、日本も世界も、生き物が踏んだり蹴ったりの年でした。2012年はほんの少しでも良い年になりますように」と挨拶で締めた中島さん。
産経新聞に載っていたレビューでは「全体から感じたのは、死者から託された「生きろ」というメッセージだ。中島がなぜこの物語を東日本大震災後の日本で再演したのか、その理由が最終幕に凝縮されているように感じた」とあった。
・・・なるほど、そういうことなのかもしれない。
2010.12.1 赤坂ACTシアター
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舞台・ステージ
2011-12-23T09:31:00+09:00
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映画 『 ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル 』
シリーズ一作目はブライアン・デ・パルマが才気をとうとう枯渇させたかと思うほど面白くなかったが、メガホンを引き継いだジョン・ウーの二作目は得意の様式美をたっぷりと披露してなかなか楽しめた印象がある。
しかし、さすがに別の監督による三作目には食指が動か...
シリーズ一作目はブライアン・デ・パルマが才気をとうとう枯渇させたかと思うほど面白くなかったが、メガホンを引き継いだジョン・ウーの二作目は得意の様式美をたっぷりと披露してなかなか楽しめた印象がある。
しかし、さすがに別の監督による三作目には食指が動かないでいた。
最新作の『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』を観る気になったのは、IMAXカメラで撮影された映像がどんなものか、最先端技術を結集したとされるIMAXシアターで体感してみようと思ったからだ。
通常の倍近い入場料を払っただけあって、確かにスクリーンの鮮明さや音響の良さ、観賞環境の居心地のよさは体感できたと思うのだが、やはり画面の質感があまりに電気的であることが最後まで違和感として残ってしまった。
今やCGであることは当然と割り切ったうえで、CG技術にどんなアイディアが盛り込まれているのかに注目すべき時代なのだろう。
しかしトム・クルーズがいくらスタントなしで身体を張ったとしても、どこか映画の撮影というより素材撮りに終始していたのではないかと訝しく思う。
そう映画はブタペストからロシア、ドバイ、インドと舞台が目まぐるしく変わるものの、これもクレムリンを大爆破させ、イーサン・ハントにブルジュ・ハリーファをよじ登られてしまうと、実はすべてパラマウントのスタジオでCG合成したのではないかと疑ってしまうのだ。このあたり割り切らねばと思いながらもなかなか苦しい。(エンドロールに各国のクルーがクレジットされているのできちんとロケはしていたと思うが)
それでもラロ・シフリンのテーマ曲がかかるとパブロフの犬みたいに気分は高揚する。
『燃えよドラゴン』から始まって『ブリット』 『ダーティ・ハリー』へと遡り、私は今までこの人のスコアに何度気分を踊らされてきたことか。
そして導火線。『スパイ大作戦』である以上、導火線に火がつかなければ始まらない。
そもそも『スパイ大作戦』の魅力は諜報のアィディアと大小様々な道具に思わずニヤリとさせられることだった。
そのテイストはこの映画にも十分に生かされている。
打ち出の小槌かドラえもんのポケットかというぐらい、次々と小道具が飛び出して楽しませてくれるのだが、一方で5秒経っても消滅しない指令、途中で機能停止する吸盤手袋(?)、未完成のまま時間切れで使わなくなったフェイスマスクなどの失敗例も洒落が効いている。
さらに第一作、二作と観る限りは、ややもするとトム・クルーズ“イーサン・ハント”のワンマンショーになりがちだったのだが、今回はIMFのチームが上手く機能する。
技術屋のベンジー、冷静な分析官ウイリアム、紅一点のカーター。それぞれに思いがあり物語の中でいかんなく個性を発揮している。
そう『スパイ大作戦』は同じ諜報部員を描いてもジェームズ・ボンドはいない。適材適所に配置されたチームプレーの面白さを描くドラマでもあった。
そう思うと、この最先端技術を結集したハリウッド最新超大作に対し、私はテレビシリーズの残り香を嗅ごうとしていたのかもしれない。
別にデジタルの中に見え隠れするアナログを求めていたつもりはないのだが。
さて来年からフィルムも映写機も消え、デジタルプロジェクターが運用されると聞く。
映画がトーキーとなりカラーとなり、いよいよ第三の改革期を迎えたということだろう。
映画興行がシネコン化された時点でそれは想定されていたことで、映画を観続けていく以上はいつまでもフィルムへの郷愁に浸っていても仕方がないのかもしれない。
しかし昔はテレビへの対抗のため、映画はスタンダードからシネマスコープ、大作では70?のフィルムを使うなどスケールの大きさを目指して膨大な投資がされてきた。
それがデジタル技術であらゆることが可能となった。
そうCGなどの技術革新だけではなく、デジタル化があくまでも効率を求めた結果である側面も見逃してはならない。
2011.12.17 109シネマズグランベリーモール/IMAX-THEATER
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2011-12-18T09:30:00+09:00
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映画 『 いちご白書 』
40年前の映画がリバイバルされた。
映画『いちご白書』はバンバンの歌が大ヒットした際、中学の担任に教えてもらった。
その頃はいっぱしの映画好きを自認していたのだが、この映画のことは知らなかった。
おそらく正式にロードショウ館でリバイバル上映されてい...
40年前の映画がリバイバルされた。
映画『いちご白書』はバンバンの歌が大ヒットした際、中学の担任に教えてもらった。
その頃はいっぱしの映画好きを自認していたのだが、この映画のことは知らなかった。
おそらく正式にロードショウ館でリバイバル上映されていはいなかったのだろう。
荒井由実が ♪いつか君といった映画がまた来る〜 と書いたのは名画座に『いちご白書』が回ってきたときにインスピレーションが湧いたのだと思う。
そのバンバンの『いちご白書よもう一度』は1975年の発売なので、映画の公開から5年後のことだった。
学生運動が華やかし頃へのノスタルジーとしても、まだ当時の若者たちには挫折した闘争の傷が生々しく膿んでいたに違いない。
師走の新宿武蔵館の最終回。席はガラガラだと思っていたところ、還暦過ぎのおじさんたちで席はそこそこ埋まっていた。
膿んでいた傷はかさぶたすらも残っていないだろうが、映画を観ながら消えてしまった傷痕を疼かせていたのではないだろうか。
それにしても夜の上映という事情もあるが、女性客は驚くほどまばらだった。
この調子では ♪君も観るだろうか いちご白書を〜 はおじさんたちだけのメモリーになっていたのかもしれない。
ラジオでの受け売りで、女は思い出を「上書き保存」してしまうが、男は「名前をつけて保存」するという話は頷けなくもない。男と女ではメモリーの機能が違うのだろう。
そんな保存された記憶がそこかしてこで疼いているような館中で、当然にして私はどこか疎外感を味わうことになる。
映画は後追いながらテレビで観ていた。バフィー・セント=メリーの主題歌「サークル・ゲーム」も何度も聴いた。歌が流れた時は懐かしいとも思った。
やはり曲と映像が寄り添っている映画は、今、この映画を観ているのだという臨場感が味わえるのが有難く、このことは「午前十時の映画祭」でも痛感している。
しかし、やはり『いちご白書』は自分らの映画ではなかった。
大学の時、学生運動の記録フィルムの上映会に出掛けたことがあった。
東大や日大での大学立法粉砕デモや国際反戦デー、新宿のフォークゲリラの映像を見ながら、十年前の日本はこんなに熱かったのかと目を瞠る思いがしたものの、所詮、我々は全共闘、学園紛争を冷めた目で見てきた世代ではある。
そういえば校門前でマスクをした学生が配っていたアジビラを職員が回収する大学を受験したとき、「ダメだこの大学は」と思ったし、いざ自分の大学でも、ある事件が勃発して学内が騒然として、今までろくに授業に顔を出さずにだらだらしていた奴が、嬉々としてシュプレーヒコールをしているのを眺めながら「ダメだこいつは」とも思ったものだ。
私は『いちご白書』の主人公にはあらかじめ共感できない前提があったと思う。
逆にいえば、その分だけ『いちご白書』を冷静に観ることが出来たつもりでもいる。
35mmニュープリントの綺麗な画面はそれほどの古さを感じさせなかった。
今、電車の中でつけ睫毛をする女の子たちを大勢見かけるように、流行サイクルがちょうど70年当時にシンクロしていることもあるかもしれない。
各国で起こっている民主化運動のデモや騒動のニュース映像がしばらく続き、政治状況も当時と似ているということもある。
バリケードで封鎖された大学構内の場面なども大した違和感もなく観ることができるが、もし十年前に『いちご白書』を観たらもっと古めかしく感じていたのだろうか。
もともと革命思想に燃えたぎる若者たちを描く映画ではない。
舞台はサンフランシスコ郊外のわりと牧歌的なキャンパス。
一応、部屋には流行としてチェ・ゲバラや毛沢東の拡大写真を貼っているが、
学園構内でアジっている学生たちをぼんやりと眺めていたボート部所属のサイモン。
おそらく、貧しい子供たちの遊び場になっている土地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとした学校側を糾弾するというスローガンにも興味を持てなかったのだろう。
ところが彼はキュートなリンダにひと目惚れしてしまい学生運動に参加する。
サイモンが紛争に巻き込まれていくのはそんな他愛のない動機がきっかけだったが、何か若者らしい衝動を欲しがっていたこともあったのだと思う。
『いちご白書』の特筆すべきは、まさにその時代の渦中に作られているということで、ノスタルジーとは別の次元で学生運動を描いているということだ。
ベトナムがあって反戦があって、そこに資本の横暴を見出した若者たちがムードに乗って雪崩現象を引き起こしたというのが闘争の実際なのだとすれば、映画は時代の空気をよく描いていたと思う。
このたびのリバイバルために作られた公式HPで「アメリカン・ニューシネマを代表する1本」と紹介されている。
実はこの映画をニューシネマとした記事に初めてお目にかかり、一瞬「え?」と思う。
おそらく製作者もニューシネマとして作ったのではないだろうし、日本での封切りも配給会社の宣伝はニューシネマとしては売らなかっただろう。
しかし、なるほど「時代の中で生まれ、時代に翻弄されて、時代に消されていく」のがニューシネマの定義だとすれば、『いちご白書』は間違いなくニューシネマだった。
洋楽に対する知識が浅く、バフィー・セント=メリー「サークル・ゲーム」は別としても、ジョニー・ミッチェルもC、S、N&Yも知らないので作中に氾濫する音楽には少なからず退屈させられたが、学生たちが大学構内の体育館に輪を作って立てこもり、床を鳴らして抗議するところを突入した武装警察に蹴散らされる場面は今観ても迫力十分だ。
それまで音楽に合わせて映像をスナップショットのように重ねていく牧歌的な展開だっただけに、ひたすら暴力によって狩られていく学生たちをドキュメンタリーのようにリアルに映し出したクライマックスと、警官に棍棒で殴られたリンダめがけてダイブしたサイモンのストップモーションで終わるラストはそれなりに衝撃的だった。
上映が終わり、館内が明るくなって席を立つおじさんたちに、『いちご白書』のラストがどう映ったのかは知る由もないが、彼らがサイモンたちと同じ若者だったという記憶まで35mmニュープリントリマスター版で再現されていればいいな、とふと思った。
2010.12.12 新宿武蔵野館
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映画
2011-12-16T23:59:00+09:00
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海へ
平泉以来、すっかり寺社を参拝してご朱印を戴く楽しみに目覚めている。
そこで久々に好天の週末ということもあり、江ノ島神社を目指した。
きっかけは中村勘太郎が弁天小僧の由来を紹介する旅番組だったが、
何せ電車一本30分で行ける。活のいい魚が食える。何より...
平泉以来、すっかり寺社を参拝してご朱印を戴く楽しみに目覚めている。
そこで久々に好天の週末ということもあり、江ノ島神社を目指した。
きっかけは中村勘太郎が弁天小僧の由来を紹介する旅番組だったが、
何せ電車一本30分で行ける。活のいい魚が食える。何より海が見たい。
思えば住処から江ノ島へのアクセスの良さには無頓着すぎていた。
腹も満たされ、弁財天でお参りを済ませたあと岩屋まで腹ごなしに歩いてみる。
辺津宮、銭洗白龍王、八坂神社、庚申塔、中津宮、奥津宮、龍宮。
いやいや江ノ島がこんなに神々に囲まれた霊験あらたかな島だとは知らなかった。
稚児ヶ淵では視界のすべてに白波が躍り、トンビが夕陽にシルエットのように舞う。
やがて潮が波を足元まで運び出すと、雲が切れて誰かに見せたかったような富士山。
灯台にイルミネーションが輝いて人が集まり出したのをきっかけに退散。
ここまで江ノ島を堪能したのは小学校の遠足以来だったかもしれない。。
※12.10「日めくり」より。写メがちょと良かったので掲載
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旅
2011-12-11T09:00:00+09:00
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映画 『 スマグラー おまえの未来を運べ 』
死体を運搬して処理するスマグラーという職業。
役者志望で300万の借金を抱えたフリーターの青年・砧。
彼は闇金の斡旋で日当5万円のアンダーグラウンドな世界に入り込む。
この砧という青年がこの映画で唯一、(俗世間的に)まともな男。
あとは出演者のほぼ...
死体を運搬して処理するスマグラーという職業。
役者志望で300万の借金を抱えたフリーターの青年・砧。
彼は闇金の斡旋で日当5万円のアンダーグラウンドな世界に入り込む。
この砧という青年がこの映画で唯一、(俗世間的に)まともな男。
あとは出演者のほぼ全員がホットにクールにキレまくっている。
全編にほとばしる流血とバイオレンス、そして死体の山。
螺子の外れた男たちの脳天が陥没し、画面狭しと飛び散る大量の涎。
スタイリッシュではあるのだが、あまりに作り込みすぎて笑ってしまう。
石井克人のほどほどのところで手を打たない姿勢には常に期待してしまうのだが、
新作の『スマグラー』も期待に違わぬキッチュな出来栄えとなった。
しかし十人が観て全員が面白いという映画でもない。
今回の新作は、万人受けしたと思われる『鮫肌男と桃尻女』や『Party7』より、“顧客満足度”は低いのかもしれない。
まず“キレ”という部分に於いては左に中国人マフィアの殺し屋・安藤政信がいて、右に暴力団幹部の高嶋政宏がいる。
この二人をキレの両極に据え、真ん中に砧を演じた妻夫木聡を置く。
その周囲をクールだが実はかなりぶっ飛んでいる永瀬正敏、満島ひかり、松雪泰子で固め、さらに石井克人ではレギュラーの我修院達也と島田洋八が賑わかすという構造。
そう、これは最後の最後に砧までキレてしまう過程を描いた映画ともいえるし、もうひとりの“キレ”キャラを獲得していく映画ともいえる。
中国の殺し屋・背骨を演じた安藤政信は、いかにもコミックが原作ですといわんばかりにヌンチャクを駆使して究極に近いキレのカッコ良さを披露していたが、それよりも何よりもサディスティックな拷問マニア(当たり前か)を演じた高嶋政宏の怪演は特筆ものではなかったか。
砧の頭に上着を被せてのハンマー打ち込みを皮切りに、火で真っ赤になったになった針で足の親指と人差し指の間を突き刺しながら狂喜する表情もさることながら、「クワイ河マーチ」の口笛とともにゲシュタポまがいの制服を着て、最後は紙おむつ姿で現れるという馬鹿馬鹿しさ。
高嶋の新境地というより、完全にリミッターが吹っ切れた狂いっぷりには、観ている方が「高嶋、大丈夫か?」と心配したくなってしまうほどだった。
では石井克人がこの映画でどんなメッセージを投げかけたのだろうか。
この問いの答えは実に難しい。
映画作家というよりも映像クリエーターというのが石井克人のプロフィールだ。
今までの作品を見ても「この映像で何かを訴えたい」よりも「これをどう映像にして見せるか」に全力を傾け続けているように思う。
それぞれキャラクターのアクの強さといったらないのだが、前述の高嶋の怪演ならぬ狂演を見ると、ある意味では役者としての良識の限界を超えさせる才能が石井克人にはあるのかもしれない。
そう思うと今までの石井作品から浮かび上がってきたものは、映画そのものよりも映画作りのチームワークであったような気もする。
惜しむらくは、高嶋政宏ワンマンショーのヒキが強すぎて、映画そのものの印象が拷問に持って行かれてしまったことだろうか。
2011.11.7 TOHOシネマズららぽーと横浜
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映画
2011-11-26T20:20:00+09:00
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映画 『 ツレがうつになりまして。 』
無料観賞ポイントがたまっていたので早く消化しないと、と仕事帰りに映画館へ。
食わず嫌いはよくないのだが、観たい映画がないのは本当に困る。
気を引いたのが三池崇史の最新作『一命』。
小林正樹の名作『切腹』のリメイクということで面白いかもしれない。
と...
無料観賞ポイントがたまっていたので早く消化しないと、と仕事帰りに映画館へ。
食わず嫌いはよくないのだが、観たい映画がないのは本当に困る。
気を引いたのが三池崇史の最新作『一命』。
小林正樹の名作『切腹』のリメイクということで面白いかもしれない。
ところが3D上映だと。・・・あほくさ。
ならば『篤姫』で息の合った将軍夫婦ぶりを見せたコンビの共演作なら外さないかと 『ツレがうつになりまして。』という映画を選ぶ。
冒頭で波がザブンの三角マークに「これ、東映かいな?」と思わずズッコケる。
こんな具合にまったく予備知識なし、うつにかかるのが宮崎あおいなのか堺雅人なのかも知らなかった。
最近の傾向なのだろうか。昔は劇場映画のスピード感と比べてテレビドラマののろさに僻々させられていたものだったが、今はテレビドラマの展開の早さについていけない。
むしろ映画の方がじっくり、ゆっくりと物語が進行する作品が増えてきたのではないか。
常日頃から「映画は所詮セックスと暴力」などと暴言を吐きながらも、寄る年波もあって嗜好が変わりつつある。
佐々部清監督 『ツレがうつになりまして。』はそんな嗜好にはもってこいのリズムで、夫がうつ病となった結婚五年目の夫婦の日常が綴られていく。
夫婦の愛情物語のキャスティングとして宮崎=堺は申し分なかった。
とくにうつにかかったツレに対して「がんばらなくていいんだよ」といいながら、自分は人生を頑張らなければならなくなったハルの「天真爛漫な覚悟」を宮崎あおいはよく表現していた。
堺雅人も深刻な状況を持ち前のとぼけたユーモアで作品に柔らか味をもたらしている。“イグ”のように寝癖で髪が逆立ち、“チビ”のように布団に丸まる姿も可笑しいし、泣きべそをかいている場面も陰々滅々にならないところがいい。
ただ先に藤原紀香と原田泰造のコンビでテレビドラマ化されたそうだが、紀香はともかく泰造のツレも観たかったような気がする。
確かに原作のコミックエッセイでのキャラやイグやチビの存在がオブラートをかけているが、現実には相当に重い題材ではある。
もともと神経質だったツレは、細かいことに無頓着なハルと衝突し、激しく落ち込んで浴室で首をタオルに巻きつけてパニックを起こす。
ハルの地元の理髪店での “次男坊” が自殺するエピソードも含めて、それなりに厳しい場面も少なくない。
この夫婦が良かったのはうつという病気を早くから明るい妻が受け入れたことだろう。
やや残念だったのは、展開が「こうして私たち夫婦はうつを克服してきました」的な流れに傾いてしまったことか。
うつが珍しい病気なのかそうでもないのかは知らない。
しかし本人の苦しみに対して、他人にはなかなか理解を得られないだろうことだけは想像がつく。
この映画でいえば「がんばれ」「気合いをいれろ」と叱咤激励してしまうツレの兄のように、世間の無理解は根深く、うつ病患者は常にそういった無理解に晒される運命にあるのだろうと思う。
それでも個人的には最後まで夫婦のラブストーリーとして完結してほしかった。
天真爛漫でのんびり屋だったのだけど、あくせく働かなければならなくなった妻がいて、
あくせく働きすぎて病気になってしまって、子供みたいに駄々をこねるツレがいる。
それを見つめるように(あるいはまったく無関心のように)ペットのイグアナがいる空間。
だから居心地のよい空間から飛び出て、ツレに講演会の壇上に立たせるなどなんて無粋なのだろうと思えてしまう。
その講演会にかつての職場の上司が現れ、かつてのクレーマーの声を聞く。クレーマーは元上司が連れてきたのだろうか?ツレがうつから立ち直り、外へ向かって自立していく姿を描きたかったのだろうが、どちらにしても作りすぎではなかったか。
そもそもツレは教会でも人前でスピーチをやっているのだから、重複も気になるところだ。
読んでいないが、おそらくうつ病への理解を世間に認知させることも原作出版の動機になっていたのだろうとは思う。
もちろんこの映画を選んで観賞したことについては一切の後悔はないのだけど。
2011.10.19 109シネマズグランベリーモール
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映画
2011-10-22T14:32:00+09:00
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Photo digest 〜 奥州路へ
気がつけば今年は旅に出ていなかった。
ここはひとつドーンと連休+有休を使ってロンドンにでも行って、念願の映画『 フォロー・ミー 』のロケ地巡りでもやってしまおうかと、現地スポークスマン(?)と連絡を取ったりもしたのだが、突然の引越し話しが持ち上がって断...
気がつけば今年は旅に出ていなかった。
ここはひとつドーンと連休+有休を使ってロンドンにでも行って、念願の映画『 フォロー・ミー 』のロケ地巡りでもやってしまおうかと、現地スポークスマン(?)と連絡を取ったりもしたのだが、突然の引越し話しが持ち上がって断念。
結局、岩手を中心に飲んで食って温泉へと、誘われるまま3泊4日の旅に出ることにした。
欧州旅行が奥州旅行に化けたものの、微力ながら復興支援になれば自分としても嬉しい。
以下、携帯で写メを撮りまくったので、ざっとダイジェストで旅を振り返ってみたい。
題して『 Photo digest〜 奥州路へ、命の大洗濯 』の記録となる。
【16日】 東京 ------ 新花巻 ------ 遠野 ------ 花巻温泉(泊)
【17日】 花巻温泉 ------ 平泉 ------ 渡り温泉(泊)
【18日】 渡り温泉 ------ 小岩井農場 ------ 乳頭温泉 ------ 新玉川温泉(泊)
【19日】 玉川温泉 ------ 八幡平 ------ 盛岡 ------ 上野
写真を並べてとっととアップしようと思ったのだが、
Fhotshopによるいらぬ労作をはじめてしまったことと、引越し作業やネットの不具合などもあって旅から早くも半月が経ってしまった。
近所への引越しなので荷物は手運びを延々と続けているので、日頃の運動不足に鈍っていた身体はくたくたで、今からでも玉川温泉の強烈な硫黄の湯に浸かりたいぐらいではある。
旅の移動でレンタカーを使い、凡そ500キロほど走りながら、カーラジオから流れる地元の放送を聴いていると、
震災から半年以上経ち、被害によるダメージや悲劇を伝えるのではなく、小さなニュースでも復興への明るい話題を提供しようとしていたこと感じる。
しかし天気予報は大雨による浸水の注意を促し、交通情報は満潮による通行止めを呼びかけていた。
遠野の田園風景の中、二両編成でのどかに走りる姿に限りない郷愁を感じさせてくれた石巻線も、全線開通の道筋は立っていないのだという。
半年以上経ったといっても、所詮は半年でしかないということか。
まあ、私もいつもの旅なら貧乏旅行を追及するのを今回はそこそこ散財させてもらった。
岩手は昔は陸奥(むつ)の国と呼ばれていた。
陸(みち)の奥(おく)ということで、ここら辺りは「みちのく」の本場なのかもしれない。
例によって、あそこも行きたかった、あれを食いたかった、もっとゆっくりしたかった、と、旅の心残りは多かったが、次に課題を残して終わるのが旅の醍醐味という持論をのたまいつつ、ざっとの奥州旅行記を締めることにしたい。
2011年、秋。
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旅
2011-10-08T14:39:00+09:00
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藤川への遠い道 【9.29明治神宮球場】
8回の表からブルペンで藤川球児が肩を作っていた。
すかさず本日は控えの藤井がブルペンまで駆け寄り相手を務める。
九回の表に小宮山のところに林か桧山を代打に出すつもりだろう。
これでようやく野球を観に来た気分になっていた。
結果的には三夜の逆転負け...
8回の表からブルペンで藤川球児が肩を作っていた。
すかさず本日は控えの藤井がブルペンまで駆け寄り相手を務める。
九回の表に小宮山のところに林か桧山を代打に出すつもりだろう。
これでようやく野球を観に来た気分になっていた。
結果的には三夜の逆転負け。そして、とうとう神宮は二カード連続の三タテ負け。
その悲惨な三夜を2階ネット裏でたっぷりと味わうことになった。
もっとも逆転負けというには、どの試合も3点以上の点差がついていたのだから、
惜敗だったという阪神ファンは誰もいないだろう。
初回にいきなり能見がバレンティンに被弾。いきなり3点を先制される。
昨日、一昨日が逆転負けという体裁だとしたら、今夜はいよいよワンサイドか。
相手は苦手とするエースの館山。もうスタンドは完全に弱気になっている。
しかし能見が立ち直る。結局七回裏まで無安打投球。
金本のホームランが出た、鳥谷のタイムリーも出た。
そしてブラゼルのフラフラと上がったフライを三人が追いかけたがポテンで逆転。
今日は運も味方についた。ようやく一矢報いるのか。
そして八回裏を抑えればようやく藤川につなぐことが出来る。
その藤川はブルペンでバッターを立たせ、投球に力が入っているのがわかる。
能見からダイレクトに藤川へ繋ぎたかったベンチの気持ちはわかる。
連日のように中継ぎ陣は打ち込まれ、精神的な疲労も貯まっていたはずだ。
しかも昨日は温存した渡辺亮を八回の頭から行く選択肢もあった。
ところが能見は先頭の川島をフォアボールで出してしまう。
一番やってはいけないことをやってしまったわけだが、
崖っ淵のチーム状況。連夜の逆転負け。この回をゼロで抑え藤川にバトンを渡したい。
能見篤史という男はそのあたりのプレッシャーに潰される投手だとは思わないが、
はっきりと外れるボールもあって、明らかに肩に力が入りまくっていた。
無死一二塁からの田中浩の送りバントはライン上で切れそうで切れない。
結局、味方をしてくれていたはずの運も、先頭四球で逃がしてしまったのだろう。
ならば八回の頭から亮で行くべきだったという話も出てくるが、その亮も打ち込まれる。
前回の神宮3タテはスワローズの気合いに圧倒的された感があったが、
今回はすべての試合で相手の安打数を下回ることなく打つべき人はそこそこ打っていたし、
先発投手が早々と崩れた試合やしょうもないエラーでの失点もお互い様。
それほど完膚なきまで叩きのめされたという印象はない。
しかし前述したように惜敗が続いたともとても思えず、ベンチワークの差だとしかいいようがなかった。
ここぞという場面で相手のクリーンアップは思いっきりバットを振り抜く。
スワローズ主軸の勝負強さと、タイガース投手陣の勝負弱さ。
これもまたベンチの雰囲気がそうさせるのだと思えてならない。
最終回のタイガースの攻撃。すでにブルペンに藤川の姿はなかった。
ブルペンからマウンドまで、駆け足で30秒もあれば到着するのだが、
チームにとっても藤川にとっても、そのマウンドは果てしなく遠かった。
9月29日(木)|ヤクルト19回戦(神宮)18:00開始/20068人/3時間06分
先発:能見×館山|スコア:4-7|勝:押本/S:林昌勇/負:能見
※Tigers DATA lab.
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阪神タイガース・野球
2011-10-02T09:28:00+09:00
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コピー&ペースト 【9.28明治神宮球場】
それにしても先日の巨人戦で投手の西村を代走に使った場面はショックだった。
去年の外野守備も大概だと思ったが、いくらなんでも投手の代走はない。
あんなもの采配といえるのか。
あれで私の真弓明信への信頼は地に落ちたような気がする。
いや、理解不能な采配...
それにしても先日の巨人戦で投手の西村を代走に使った場面はショックだった。
去年の外野守備も大概だと思ったが、いくらなんでも投手の代走はない。
あんなもの采配といえるのか。
あれで私の真弓明信への信頼は地に落ちたような気がする。
いや、理解不能な采配や選手起用はシーズンを通せばとのチームにもあるだろうし、
過去を遡れば星野仙一にも岡田彰布にもあった。
今季の作戦面での「?」は、横浜スタジアムで二度観た鳥谷の送りバントが最たるものだったが、少なくともそこに “作戦” というものが存在するのであれば、所詮は素人の結果論の範疇だと思うことにもした。
しかし西村の代走起用だけは次元が違っていた。
監督を信頼できなくなったチームを応援するのはしんどい。
すべてが疑心暗鬼となってしまう。
新井が会心のスリーランをレフトスタンドに放り込んだところで、どうせまた再逆転されるのだろうという予感は消えることなく、バレンティンのバットが快音を響かせると「ほら、やっぱりね」となる。
現役時代の真弓を嫌いだったというタイガースファンはまずいないと思う。
鋭いスイングとしなやかな体躯から繰り出されるパンチ力。
我々に田淵幸一の喪失感を忘れさせるほどの活躍であったし、クールな風貌と佇まいも人気に拍車をかけていた。
それは真弓の選手時代の勇姿は目に焼き付いているし、記憶を“上書き保存”せず、きちんと“名前を付けて保存”しているつもりではいる。
しかし選手時代のクールさが今は淡白に思えてならない。
そもそも指揮官として熱血でもなければクレバーでもない。
三年も真弓の野球を観てきて思うのは、セオリーに従って淡々と日常業務をこなす助役のイメージか。
セオリーに従うにしても、それを動かす駒を揃えなければならず、
それを揃えていく作業にどれだけのセンスがあるのかがさっぱりわからない。
少なくとも選手を叱咤し、激励しながら力を引き出す図がまるで浮かんでこないし、
「そういうのはコーチの役目だから」などと割り切っている風でもある。
ファンが監督を信頼しないのは勝手だが、選手たちとの相互信頼まで疑わしいとなるとこれは問題ではないか。
野村や星野のように指揮官の言動が突出するチームがベストはいわないが、
選手たちに「この監督を胴上げするんだ」という気持ちを抱かせなければ、とてもチームとして高揚するものにはならない。
私が書いているのは、これまでの試合ぶりと外見から勝手に想像したイメージが大半なので、来季も契約が残っているならば、選手に尊敬される器になってもらいたいし、そうなるべく努力はすべきだろう。
そして、これを書いた私がとんだ赤っ恥を掻くぐらいの結果を見せてもらいたい。
先発が打たれ、一旦はホームランで逆転するも継投に失敗。
結局、ビッグイニングを作られての再逆転負け。
ヒット数は相手を上回るも得点に結びつかず九回裏の藤川球児の出番はなし。。
先頭打者を出し、守備の乱れが失点につながり、ランナーを溜めてはスコーンと打たれる。
この試合と前日の試合で、どこに差異を見出せばいいのか。
まるでコピーした27日の展開を、28日にペーストしたような試合ではないか。
私は「金返せ」という言葉は大嫌いで、これほどファンとして恥ずかしい言葉はないと信じているが、今回はあまりにユーザーに対して失礼な試合だったのではないだろうか。
◎9月28日(水)|ヤクルト18回戦(神宮)18:00開始/19968人/3時間32分
先発:秋山×七條|スコア:5-8|勝:松井光/S:林昌勇/負:秋山
※Tigers DATA lab.
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阪神タイガース・野球
2011-09-29T23:59:00+09:00
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彼岸過迄 【9.27明治神宮球場】
暑さ寒さも何とやらで、めっきりと気温が下がった神宮外苑。
この時節の蚊は攻撃的で、最後の足掻きで避けても避けてもアタックしてくる。
球場脇のトイレがちょっとした藪になっていて、そこでしこたま蚊に刺された。
頭に来たが、この闘争心を少しは見習って・・・...
暑さ寒さも何とやらで、めっきりと気温が下がった神宮外苑。
この時節の蚊は攻撃的で、最後の足掻きで避けても避けてもアタックしてくる。
球場脇のトイレがちょっとした藪になっていて、そこでしこたま蚊に刺された。
頭に来たが、この闘争心を少しは見習って・・・って、虎を蚊に例えても仕方がないか。
そんなこんなで、今月初めの神宮決戦と比べてもテンションの低下は逃れようもなく、
“残り試合数は” “首位との直接対決は” “奇跡を信じて”
ペナントレースのすべてがサンテレビの実況席の世界で完結していたら、
それはそれで楽しいのだろうと思いながらゲートに向かっていた。
毎年のことながら秋風の吹く頃の神宮では散々な目に遭うが、
9月に入ってから神宮4連敗となると、また今年も風物詩がやってきたかとなってしまう。
スタンリッジが三回裏でマウンドを降りた時、「Why?」と口が動いたそうだ。
自分のふがいない投球に自己嫌悪したのか、早々に交代を告げたベンチへの不満だったのか。
しかし藤井のゲッツーでランナーが消えたバッターボックスでも、何とかフルカウントからフォアボールを選ぶ、少なくともスタンの気持ちは折れてはいなかった。
もしかしたらスタン自身は立ち直れるのとの手応えを感じていたのかもしれない。
青木にレフト前に弾かれたのは仕方がない。田中にバントで送られたのも想定の内としても、
ここで交代なのか?という思いは強かったように思う。
確かにスタンの立ち上がりは酷かった。これはベンチにとっては誤算であったし、
これ以上傷口を広げては、今後のタイトな日程でスタンを使えなくなるという心配もあったかもしれない。
しかし尻上がりに調子を上げてくるのを期待する余裕がベンチになかったのも事実だった。
味方ピッチャーがヒットを打たれると、自ら外野からの返球を受け取り、言葉を添えてボールをピッチャーに渡していたブラゼル。
相手の気合いに完全に呑まれていた前回と違って、何とかしなければという意志は伝わっていた。
しかし先発のスタンを早々に見切り、渡辺、福原を打席に送ってイニングを跨がせ、
藤川まで繋ごうかというベンチの意図がことごとく裏目に出てしまうと、
もう試合のリズムもへったくれもなくなってしまう。
青木に死球を与えて満塁。川端に2ボールとなった時点でルーキーはいっぱいいっぱい。
満塁の2ボールからライトスタンドに運んだ川端は敵ながら天晴だった。
毎年、この時期は敵を褒めている気がする。
まったく、つらい季節ではある。
◎9月27日(火)|ヤクルト17回戦(神宮)18:00開始/18813人/3時間53分
先発:スタンリッジ×村中|スコア:4-8|勝:日高/負:福原
※Tigers DATA lab.
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阪神タイガース・野球
2011-09-28T23:59:00+09:00
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綻び 【9.10明治神宮球場】
神宮の喫煙所で阪神ファンの「あー」という叫びとどよめきを聞いた。
何事かと携帯の実況掲示板を見ると、鳥谷がエラーした瞬間だったらしい。
だから直に落球は観ていないが、スタンドの雰囲気は十分に伝わる。
そのどよめき声は、怒声と絶望と諦観がない交ぜ...
神宮の喫煙所で阪神ファンの「あー」という叫びとどよめきを聞いた。
何事かと携帯の実況掲示板を見ると、鳥谷がエラーした瞬間だったらしい。
だから直に落球は観ていないが、スタンドの雰囲気は十分に伝わる。
そのどよめき声は、怒声と絶望と諦観がない交ぜになったようなやるせなさで、とても首位スワローズとの決戦に臨むテンションとは程遠いものだった。
さて、スワローズの8安打6得点に対して、タイガースは11安打を放って2得点。
どちらかといえばタイガースの自滅だとしても、完敗には違いない。
小川淳史と真弓明信の勝利に対する執念の違いがもろに出てしまったように思う。
その象徴がマートン、関本の連続ヒットで無死一二塁となった6回表の場面。
金本三振の後に林が代打に送られると、すかさず小川監督は左の日高にスイッチ。
6−2の場面で、金本を三振に抑えた押本を下げるあたり、「何が何でもこの一戦をものにする」という執念の違いを感じる。
結局、タイガースはむざむざと林の打席を消されてしまうことになるのだが、
こういう時、感情を表に出さない真弓が淡白に映ってしまうのだ。
毎度、神宮で劣勢になるとかつてここが鬼門だった頃のことを思い出す。
昔から梶間や安田という虎キラーがいた。
とくに梶間が出てくると手も足も出なかった。
さらにタイガースの長い暗黒時代はスワローズが強かった。
大量リードを喫しているにも関わらず、野村克也にスクイズでおちょくられた試合など、
泣きたくなるほど強烈な思い出として残っている。
それにしても昨日、今日でタイガースの失策数が6とはどういうことだろう。
集中力が欠けていたのか、それとも緊張して力んでいたのか。
関本、鳥谷、平野という面子ならば、そのどちらもあり得ないと思うので、
これもやはり負の連鎖といえるのかもしれない。
去年もそうだったが、今季もヤクルト戦は勝ち越してはいるものの、
ローテーションの裏に当たったり、館山、石川の左右のエースとの対戦がなかったりと、わりとラッキーな対戦が続いていた。
案の定、館山、石川との対決では勝てなかった。
まだスワローズとは明日も含めて9試合が残っているので、非常に心配だ。
◎9月10日(土)|ヤクルト15回戦(神宮)18:00開始/30869人/3時間04分
先発:久保×石川|スコア:2-6|勝:石川/負:久保
※※Tigers DATA lab.
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阪神タイガース・野球
2011-09-11T04:49:00+09:00
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もっと牙を 【9.9明治神宮球場】
(相川の親指は折れている・・・)
スポーツニュースのスワローズ特集での冒頭のナレーション。
板を当ててテープで固めた相川の指。
そして館山が復帰した今日、由規が登録抹消される。
その相川のミットめがけて投げるエースの球に“気”が入らないわけがない。
怪...
(相川の親指は折れている・・・)
スポーツニュースのスワローズ特集での冒頭のナレーション。
板を当ててテープで固めた相川の指。
そして館山が復帰した今日、由規が登録抹消される。
その相川のミットめがけて投げるエースの球に“気”が入らないわけがない。
怪我から戻ったばかりの館山は万全の調子とはいえなかったと思う。
身体は重そうだし、カミソリのようなスライダーで三振の山を築くほどでもない。
しかしネット裏の2階スタンドに館山の気合いは嫌が応にも伝わっていた。
もちろん試合から遠ざかっていれば、立ち上がりに不安を抱いてはいただろう。
タイガースは鳥谷の左中間ツーベースから新井のセンターオーバーホームランで先制。
そんな館山の不安に付け込んだ初回の攻撃は鮮やかだった。
「この2点が“スミ2”にならなければいいけど・・・」
ツレとそんな話をしていた。今季のタイガースの攻撃陣には常に疑心暗鬼だ。
そしてそれが見事に的中してしまう。
岩田は先制を上げたすぐ裏の青木には大事に投げてほしかった。
総じて岩田の投球は心許ない。相手の気を跳ね返す気概に欠けていたのではないか。
何となく投げて、何となく打たれて、何となく降板したような雰囲気で、
気合満面でマウンドに立った館山と比べて、何とも淡白な印象しか残らなかった。
バレンティンの前にゲッツーが完成していれば。
新井の当たりに風のアシストがあれば。
金本の大ファールがうまくポールを巻いていたら。
こんなタラレバを気にしているうちは、まだ試合の流れはタイガースとスワローズの間で停滞していたのかもしれない。
ところが八回一死一三塁の場面で代打の上本が二飛。
続く鳥谷がインコースに手が出ずにストライクを見送って三振。
この絶好機を逃したことで、最終的な流れは完全にスワローズに傾いてしまった。
その裏の攻撃で畠山の二塁打を林が素直な送球を返していたら。
関本がきちんと捕球していれば。
さすがに、こんなタラレバは成り立つものではない。
スワローズに勝つには虎は牙を剥き出しにしなければならない。
マートンと大和が盗塁したように、もっと相川の負傷につけ込む非情さが必要ではないのか。
こうして毎年のように、秋になってCS出場権を巡る闘いに絡んでいることはファンとして有難いが、それだけでいいのだろうか。
ここ一番の試合で牙を剥き、猛々しく吠える姿。
我々が本当に観たいのはそういう虎なのだ。
◎9月09日(金)|ヤクルト14回戦(神宮)18:00開始/23845人/3時間05分
先発:岩田×館山|スコア:2-4|勝:館山/S:林昌勇/負:岩田
※Tigers DATA lab.
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阪神タイガース・野球
2011-09-10T13:59:00+09:00
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舞台 『 納涼 茂山狂言祭2011 〜茂山千之丞追善公演 』
ブログのアップと実際の日程が前後してややこしくなってしまったが、20日に国立能楽堂にて『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』を観劇して来たので、遅ればせながらその感想を書いておく。
6月に国立能楽堂にて大蔵流茂山千五郎家の狂言を観賞し...
ブログのアップと実際の日程が前後してややこしくなってしまったが、20日に国立能楽堂にて『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』を観劇して来たので、遅ればせながらその感想を書いておく。
6月に国立能楽堂にて大蔵流茂山千五郎家の狂言を観賞したとき、
伝統芸能の枠からこぼれる「笑い」の面白さに、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
それは国立能楽堂の重厚な桧造りの舞台で展開される古典芸能に対し、学びに行くという心構えそのものが頭でっかちで、漫才やコントを観に行くときのように純粋に「笑い」を求めに来たらいいさと、狂言師たちから示唆されたような気がしたのだ。
古典芸能なのに面白いのではなく、古典芸能だからこそ面白い。
長年にわたって継承され、練られてきた芸能を目前にすることの至福。
その芸の殆んどは笑わすことに収斂する。
まさに贅沢な時間を過ごさせてもらったわけだ。
今回の『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』。
茂山家の家系図を改めて見てみると、人間国宝である茂山千作の子が千五郎、七五三、千三郎。千五郎の子が正邦と茂で七五三の子が宗彦と逸平。
一方の茂山千之丞は、子があきらで、孫が童司ということになる。
今日は茂山家ほぼ総出演で、第一部では逸平、第二部ではモッピーがそれぞれ重鎮たちが得意とした役に挑戦する。
これはもう昼夜行くしかないとなって、さっそく通し券を購入していた次第。
もちろん私は狂言ビギナーであるため、御大の人間国宝・茂山千作はもちろん、去年亡くなられた茂山千之丞の存在は知らない。
この人たちのことを知らないというのはつくづく残念ではあるが、もともと伝統芸能に「遅れてきたファン」というのはつきもので、伝統芸は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるならば、我々は常に継承の途上を観ているのだろう。
このたびの上演は「リクエスト狂言」ということで狂言ファンからのリクエストによって曲が選ばれるという趣向だ。
■第一部(午後13時30分開演)
◎ 『 寝音曲 』
主人 茂山千五郎 / 太郎冠者 茂山七五三
--------------------------------------------------------
◎ 『 濯ぎ川 』
男 茂山童司 / 女房 茂山正邦 / 姑 茂山千三郎
--------------------------------------------------------
◎ 『 豆腐小僧 』
豆腐小僧 茂山逸平 / 大名 茂山千五郎
太郎冠者 茂山茂 / 次郎冠者 茂山宗彦
--------------------------------------------------------
まず茂山あきらの「お話」(前説?)から始まる。
・・・ビギナーとしては狂言師たちを敬称略で書くのは何とも臆するところではあるが、そこは何とか慣れていかなければならない。
茂山あきらはこの回のメイン曲である『豆腐小僧』の演出も兼ねているので、千之丞の十八番を若い逸平と童司が演じることへの工夫。台本の書き直しなどを紹介。
また茂山家は京都が本拠であることから、例の「五山の送り火」騒動について、
「あんなものちょっとぐらい心配でも、供養なんですから、ちゃっちゃっと燃やしてしもたら良かったんですがね〜、いや、これはあたしのひとり言ということにさせてもらいますけど」と客席を和ませる。
最初の曲である『寝音曲』は千五郎、七五三の兄弟の組合せ。
茂山千五郎家の重鎮の共演ということでいいのだろうか。内容はびっくりするほどに分かりやすい曲だった。
たまたま太郎冠者の謡の声を聴いた主人が、自分の前で謡えと命じるも、客が来るたびに呼ばれて謡わされてはかなわないと、太郎冠者は「酒を飲まねば謡えない」「妻の膝枕でないと声が出ない」などと難癖をつけて逃げようとする話。
還暦を過ぎた男ふたりの膝枕の滑稽感で大いに笑ってしまうのだが、芝居の間もさることながら謡をしっかりと聴かせなければならない。
解説によると膝枕の体勢で朗々と謡うことは相当に難易度が高いのだという。
コントのような筋書でも芸の深みが問われるわけで、「古典芸能」だから面白いという見本のような曲だ。
続く『濯ぎ川』で真っ先に目が行ったのは演出が武智鉄二だったこと。
もう故人なのだろうが、私の武智鉄二のイメージは映画『白日夢』に尽きる。
物議を醸したこの映画を私は大学生の時、1964年版も1981年版も映画館で観ている。
「芸術かワイセツか」と話題となったが内容は非常にシュールなもので、内容は殆どチンプンカンプンだったが、何と1981年版の『白日夢』に茂山千五郎がキャスティングされていて、しかも千作、千之丞の兄弟は武智の実験演劇などに関わったことで能楽協会から退会勧告を受けた経緯があったとWikipediaに記されていた。
そのことからも、かつて若き日の茂山兄弟が伝統芸能に革新性をもたらせようと野心を滾らせた赤心を垣間見る思いなのだが、『濯ぎ川』は武智演出のイメージとはほど遠い大らかな笑いに包まれた曲だった。
ただ夫を演じた童司の芝居がやや大人しすぎて、女房の正邦、姑の千三郎の強烈な女形の攻勢に圧倒されたままだつたのは少々気になった。
圧倒されながらも、とぼけた味がもっと出せれば文句なしだったと思う。
第一部のトリとなった『豆腐小僧』は、作家の京極夏彦が千之丞のためにアテ書きした新作なのだという。
その意味でも茂山狂言が別名で「お豆腐狂言」と呼ばれていることも含めて、『豆腐小僧』は茂山家の代表的な曲なのかもしれない。
妖怪・豆腐小僧は他の妖怪と違って人から怖がられたことがなく、ある日、太郎冠者に出会い、彼の主人が人間なのに恐れられているのを聞いて、「自分も人を怖がらせたいと」と願ったところへ、主人が次郎冠者を連れて通りかかり・・・というお話。
写真で見る千之丞の豆腐小僧を見ているとそれだけで可笑しみが湧いてくる。
おそらく年輪を重ねた芸が醸す小僧の可愛らしさというのがキモなのだろう。
それを若い逸平と童司のWキャストで上演するのがこのたびの目玉となっているのだが、私は逸平の方の『豆腐小僧』を観た。
実際の(?)豆腐小僧の実年齢は逸平世代に近いのだというが、何せ80歳の千之丞にアテ書きした台本なので、老人から滲み出る可愛らしさや滑稽感よりも、若輩の妖怪が俗世間に翻弄されつつも、おっとりとした純真さが強調された舞台となり、これはこれで、逸平によって練られていけば、新たな『豆腐小僧』が茂山狂言に根付いていくのだと思う。
■第二部(午後17時30分開演)
◎ 『 蝸牛 』
山伏 茂山千五郎 / 主人 茂山七五三 /
太郎冠者 茂山あきら
--------------------------------------------------------
◎ 『 死神 』
男 茂山宗彦 / 死神 茂山茂 /
従者1 丸石やすし / 従者2 茂山童司 /
女房 茂山千三郎
--------------------------------------------------------
第一部が掃けて、北参道駅前のSUBWAYのサンドウィッチとコーヒーで有川浩の小説で暇を潰すこと2時間。いよいよ午後5時開場の本日の第二部となる。
前説は茂山茂。彼は6月に千五郎御大を相手に死神を演じたが、今回はモッピーが相手。もともと『死神』は落語のお題を狂言に翻訳して、千之丞が演出した舞台。死神役はずっとあきらが勤めてきたのだという。
あきらが作った死神の芝居は独特の台詞回しと間合いがあるため、千之丞も稽古をつけながらも死神の手本を示してくれないので苦労したエピソードを披露。
『蝸牛』については「普通の狂言」(笑)だそうだ。
普通の狂言ということは『蝸牛』はスタンダードということなのだろう。もちろん私は初めてだが、観客の多くは様々な配役でこの曲を観てきたに違いない。
しかしおそらく今回の『蝸牛』の配役は茂山千五郎家でも最強の布陣なのではないか。
主人は太郎冠者に、長寿の薬といわれるカタツムリを取りに行かせるが、太郎冠者はカタツムリを見たことがなく、藪の中で寝ていた山伏をカタツムリだと思い込んでしまう。
この曲のキモは面白がってカタツムリに成りすました山伏が、主人と太郎冠者を乱痴気騒ぎに巻き込んでしまうこと。
「狂言には殺しの場面は出てきません。狂言は平和主義です」という茂の解説にあったように、いかにも狂言がハッピーワールドであることを象徴する曲ではなかったか。
「お前、あれは山伏で、まんまと担がれているではないか、山伏を打擲してやれ!」と怒る主人だったが、「でんでんむしむし」のリズムに巻き込まれてしまい、囃し合いながら退場していくというオチは、考えてみれば理論のタテ糸もヨコ糸もなく、ただひたすら面白い方へと吸い込まれる可笑しさに溢れている。
さて、いよいよ6月の公演で千五郎が演じた役を、茂山宗彦が初挑戦した『死神』。
思えば6月に『死神』の後見役をモッピーが勤めていたのは、この8月を見据えた伏線になっていたのかもしれない。
借金に追われて死のうとした「男」が、死神に気に入られて金儲けに生きるという話。
紆余曲折のストーリーはややこしいので6月公演の際のブログを参照してもらえばいいのだが、落語で三遊亭圓生が得意としたお題を狂言に翻訳し、千之丞が演出として名を記している新作狂言。
台本は死神退散のおまじない以外は、千五郎御大とまったく同じで、役の実年齢は千五郎よりもモッピーの方が近いのかもしれない。
ただ、千五郎の「男」は本当に可笑しかった。
借金に追われて進退窮まり、首をくくろうか、それとも身を投げようかと思案するあたりの哀れな可笑しみ、そして死神と出会って人生が急展開することに対して、小柄な体躯から滲み出る小市民の滑稽感は半端ではなかった。
モッピーに千五郎が示したハードルを超えろというのは難しい。
初演から演じ続け、たっぷり練り上げた名人の芸と比べても意味はないだろう。
しかし欲に駆られて金儲けに走ってしまった狡猾な感じはよく表現されていたのではないか。
千五郎がファンタジーだとすればモッピーにはギラついたリアリズムがあった。
たまに、しょげたり、驚いて「ええーっ」という仕草に小草若がもろ見えしたのも楽しかったが・・・。
またこの『死神』が実によく出来ていると思うのは、病に伏した金持ちの家に呼ばれた「男」が自宅から移動していく距離感と時間経過のとり方の旨さだ。
最小限の舞台装置の中でも表現は無限に広がるということか。
同じ役を2か月の内に30歳離れた狂言師同士の競演。
私がこのまま狂言を観続けていくのかどうかはわからないが、こういう時間を少しでも多く過ごすことによって、日々の幸福が数ポイントでも上げられることが出来たならば、それは非常に素晴らしく有難いことなのだと思う。
2011.8.20 国立能楽堂
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舞台・ステージ
2011-09-03T22:13:00+09:00
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INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜両国国技館
「27日にプロレス行こう」。
今週になってからプロレス者のKさんから突然のお誘いがあった。
もちろん、往年のプロレス者としてはスケジュールが空いていれば断る理由などないのだが、問題はこの日、日本武道館で新日本、ノア、全日本のメジャー3団体合同主催の...
「27日にプロレス行こう」。
今週になってからプロレス者のKさんから突然のお誘いがあった。
もちろん、往年のプロレス者としてはスケジュールが空いていれば断る理由などないのだが、問題はこの日、日本武道館で新日本、ノア、全日本のメジャー3団体合同主催のオールスター戦が開催され、一方でIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)が両国国技館で興行を打つこと。どちらも東日本大震災の復興支援興行になるという。
国技館と武道館の同日興行は今までもなかったわけではないが、一番有名なのはG馬場が武道館で「力道山十三回忌追悼興行」を主催した時、A猪木は蔵前国技館でビル・ロビンソン戦をぶち上げた。所謂「隅田川決戦」といわれるプロレス史に残る興行合戦。
あの時、私はまだ中学生で、翌日の東京スポーツの一面は見事に猪木が奪取したことを記憶しているが、あれから35年、猪木がまた仕掛けたわけだ。
国技館と武道館。当初、Kさんはどちらに誘ったのかメールでは明らかにしていなかったものの、ここは阿吽の呼吸という奴だったか。プロレス者のS氏ともうひとりプラスαも誘い、このメンバーではおそらく十年ぶりくらいとなるプロレス観戦と相成った。
正直申し上げてプロレス興行として純粋性や祭典としての一体感、現在進行形のプロレスを求めるならば武道館の方に行くべきだったのかもしれない。
国技館はバックボーンもよく知らないファイターたちと、K−1からのトウの経った大物たちによる取ってつけたような怪しげなカードが並ぶ。
しかし私も今更プロレスらしいプロレス興行よりも、怪しさ満点でもゴツゴツとしたハプニングの匂いが漂う方を選びたい。もっといえばよりスキャンダラスな方向に引きつけられてしまう。これはもう長年の猪木信者の性としかいいようがない。
結局まともにプロレスを観なくなって十年近くなってしまうと、プロレスの「現在」を知ってどうするのだという思いも強かった。
以下、2011年8月27日両国国技館の全カードと試合結果をざっと書き残す。
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■第1試合 シングルマッチ
定アキラ[時間切れ引き分け]松井大二郎
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■第2試合 IGFキックボクシングルール
○木村秀和[3R判定]●MASASHI
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■第3試合 柔術vsキックボクシング
○タカ・クノウ[腕十字固め]●バル・ハーン
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■第4試合 シングルマッチ
○ケンドー・カシン[雪崩式跳びつき十字]●ブラックタイガー
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■第5試合 シングルマッチ
○ボビー・ラシュリー[両者リングアウト]●エリック・ハマー
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■第6試合 レジェンドスーパースターズマッチ
藤波辰爾[時間切れ引き分け]ミル・マスカラス
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■第7試合 シングルマッチ
○蝶野正洋[STF]●長島☆自演乙☆雄一郎
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■第8試合 シングルマッチ
○小川直也[レフェリーストップ]●澤田敦士
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■第9試合 シングルマッチ
○レイ・セフォー[反則]●モンターニャ・シウバ
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■第10試合 シングルマッチ
○鈴木秀樹[体固め]●ハリー・スミス
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■第11試合 シングルマッチ
○ピーター・アーツ[TKO]●鈴川真一
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■第12試合 IGFチャンピオンシップ
○[王者]ジェロム・レ・バンナ[KO]●[挑戦者]藤田和之
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ミル・マスカラスはもうじき70歳になる。
それでも昭和のプロレスファンは暗転した会場に「スカイ・ハイ」が流れた途端にグッと身を乗り出してしまう。
もちろん“仮面貴族”のマスク越しから覗く顔は明らかに年寄りだし、当然のことながら上腕から肩にかけての肉は削げ落ちている。それでも、きちんと上半身を脱いでリングに上がったのは立派。プライドの高そうな佇まいは健在で、誰がどう見てもマスカラスであり、それ以外の何者でもないところが嬉しかった。
対する藤波辰爾とて58歳。こちらも十年前の藤波との差異はあまり感じられなかった。もちろん70歳の相手との比較で若く見えたことは否めなかったのかもしれないが、藤波もついに猪木の引退時の年齢を超えてしまったのかと思うと、それも感慨深い。
フライング・クロスチョップ、フライング・ボディアタックと、確かにマスカラスは跳んだ。
もともとマスカラスは全盛期から、決まった技を繰り出せば完結出来るレスラーなので、飛行高度さえ問わなければマスカラスの試合として十分に成立していた。
場外に逃れた藤波にブランチャを試みようとした場面で、もちろん飛ばないことは多くの観客が分かっているし、藤波がマスカラスをフルネルソンでとった場面も、ここからドラゴンスープレックスで投げることなどありえないことも知っている。
しかしマスカラスも藤波も一旦腰を落として観客をどよめかせた。
いや観客がどよめいて見せたというべきか。
幻のままで終わらせたブランチャと飛龍原爆固め。
つくづくプロレスはレスラーと観客との共犯関係で成り立っているのだと思う。
さて20分のインターミッションのあとに白装束姿のアントニオ猪木が登場。
ここに書くほどでもない衝撃的な猪木の小芝居が終わった後(悪)、
「サーベルタイガー」が場内に流れ、ケロちゃんの「お気を付けください!」の絶叫とともに椅子を投げ飛ばし、観客を蹴散らしながらタイガー・ジェット・シン入場。
どうだこのハイテンション。場内のボルテージが一気に上がる。
ピンクフロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」のテーマが鳴ってアブドーラ・ザ・ブッチャーの入場を待つ間、リングの四方で狂虎は大暴れだ。
もう武道館には申し訳ないが、シンの入場が見られただけで国技館を選んで良かった。
思えばシンと猪木の抗争こそが金曜夜8時の象徴だった。
中学生から大学生にかけてシンは新日本の会場の憎悪を一身に受け続けてきたわけだが、今まさに客席で暴れているシンに昭和の日々が蘇る。
ケロちゃんのコールをぶった切るようにリングから蹴落とすタイミングも上手い。
もう70を越えて杖をつきながら、すっかりプロレスラーの気配を消してエプロンに現れたブッチャーと比べても、シンのプロフェッショナルぶりは際立っていた。
もちろん、マスカラスの試合もシンとブッチャーの登場も興行の添え物であり、後者など試合ですらないのだが、申し訳ないが、その他の試合のことなどはあと一か月もすれば忘却の彼方に忘れ去ってしまうだろう。
松井大二郎がこんなところでまだ第一試合に出ていたのかと苦笑してしまったこと。
ケンドー・カシンの雪崩式の飛びつき逆十字のキレは健在だったこと。
蝶野正洋が随分と大人の試合で自演乙を仕留めたこと。
小川直也が相変わらずだったこと。
ピーター・アーツがまだまだ元気だったこと。
急遽試合を組まれた藤田和之はやる気まんまんのバンナ相手に気の毒だったこと。
しかし体を張って懸命に闘っていたアスリートたちには誠に失礼だったと思うのだが、
この8.27両国国技館で一番プロレスをやっていたのは間違いなくシンと猪木だった。
2011.8.27 両国国技館
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プロレス・格闘技
2011-08-29T20:03:00+09:00
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映画 『 ツリー・オブ・ライフ 』
「生き方にはふたつある。世俗に生きるか、神に委ねるか」。
母親の独白からこの映画は始まる。
音楽家の夢を絶たれ、発明の特許申請に執心するなど世俗に生きるしかなかった父親は、三人の男の子たちを厳しく育てようとする。
そんな父親と、慈愛に満ちた...
「生き方にはふたつある。世俗に生きるか、神に委ねるか」。
母親の独白からこの映画は始まる。
音楽家の夢を絶たれ、発明の特許申請に執心するなど世俗に生きるしかなかった父親は、三人の男の子たちを厳しく育てようとする。
そんな父親と、慈愛に満ちた母親との間で反抗期を迎えた長男の心は揺れ動くのだが、常に衝動に満ち、観るものを不安にさせていくあたりの演出力は半端ではない。
父親役のブラッド・ピットは家族の中で強権を発動する父親を厳格に演じながら、俗物であることの卑小さを表現し、母親のジェシカ・チャステインは日常生活の疲れを垣間見せながらも、男の子たちにとって永遠の女神であることを見事に演じていた。
それにしても相変わらずテレンス・マリックの映画は難しい。
何せガダルカナルの戦場で『楢山節考』的な世界観を描出した監督であるので、父と子の葛藤の物語には違いないものの、止めどもなく溢れていくイマジネーションの洪水が、私には映像の暴走に思えてしまう。
「理屈」ではなく「感性」で観るべきなのかもしれないが、根っこの部分で天地創造や人類創生といったキリスト教史観のアンテナを持っていないとお手上げのような気もする。
マリックは家族の絆と相克こそ天地創造以来の普遍なものと捉え、自然の摂理や営みをこれでもかと見せつけ(つまりはかなり長い時間)、最後に大人になったジャックに救済が訪れるという壮大な叙事詩に仕上げて見せたのだと思う。
それでいて何故、次男が突然死んでしまったのか、大人になったジャックが過去を辿ろうとした動機はなんだったのか、決して説明の多い映画ではない。
カンヌでパルムドールを受賞したと聞くと、なるほどそうなのかなとも思うものの、
「この映画を頭で理解しようとせず、映像のイマジネーションを受け止めよ」と、とても堂々と書く気にはなれない。
今はショーン・ペンの物憂いな表情と、
「モルダウ」「シチリアーナ」の旋律が耳に残っている状態だ。
2011.8.26 109シネマズグランベリーモール
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映画
2011-08-26T23:59:00+09:00
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スミ1と押し出し同点 【8.21横浜スタジアム】
強烈に印象に残る試合と、そうでもない試合とがある。
今夜の試合は残念ながら、雨の中で観た幾つかの記憶と一緒くたとなって、
残念ながら、あっという間に忘却の彼方に霞んでしまうだろう。
朝から雨が降ったりやんだりの愚図ついた天気。
気温が一気に...
強烈に印象に残る試合と、そうでもない試合とがある。
今夜の試合は残念ながら、雨の中で観た幾つかの記憶と一緒くたとなって、
残念ながら、あっという間に忘却の彼方に霞んでしまうだろう。
朝から雨が降ったりやんだりの愚図ついた天気。
気温が一気に下がって早くも秋の装いの中で行われた横浜スタジアム。
日も短くなり、この間まで西日のきついスタンドでプレーボールの声を聞いたのが嘘のようでもある。
そのすっかりナイターの様相を呈する中、タイガースの先制点は鮮やかだった。
マートン内野安打、平野送りバント、鳥谷タイムリーヒット。
初回の速攻であっさりと1点をもぎ取る。
この先制点で「今日は行けるぞ」と思いながらも、
どこかでこの先取点がスミ1となってしまう予感も走る。
悲しいかな今、タイガース打線は疑心暗鬼の中にある。
それほど京セラでのカープに三連敗したことが尾を引いているのかもしれない。
予感は的中。延長十一回が終了し、タイガースは1点のままだった。
試合が成立する五回あたりまで雨は降っていた。
降雨のゲームだと恣意的に試合成立を急ぐ判定になる傾向があるのかもしれないが、
それにしても球審の木内氏のストライクゾーンは異常に広かった気がする。
今年は統一球になって打球が失速することが取り沙汰されているが、
一方で審判もセパで統一されたことによるストライクゾーンの広がりを指摘する声もある。
両リーグとも今季は3割打者が異常に少なく、投手陣の防御率は異常に高い。
拙攻のベイスターズ打線とはいえ、10安打放ちながら結局得点は押出しの1点のみ。これは広いストライクゾーンと無関係だったとはとても思えない。
しかも雨も上がったあたりから、今度はストライクゾーンが狭くなった。
七回の押出しはメッセンジャーがそこそこ厳しいコースを突いたのが、すべてボール。
同じ試合の前半と後半でストライクゾーンが変わってしまったとすればメッセンジャーもたまったものではなかったろう。
そういうことも含めて納得のいかないことが多い試合だった。
七回、一死満塁のピンチでベンチがマウンドに送り出したのは渡辺亮。
修羅場くぐりの実績を買っての起用なのだろうが、石川、金城と左が続く場面だ。
野球が確率のゲームであるとするなら、やや博打的な采配だったのではないか。
ベンチが亮に絶対的な信頼を置いている、または榎田や小嶋では怖いという判断があったのならば仕方ないことかもしれないが、結果オーライだったとして、これからもそういう起用を続けて行くつもりなのだろうか。
逆に村田、中村紀、渡辺直と右が続くところでマウンドには榎田。
そして九回裏の7番から始まる下位打線で藤川球児。
確かに同点の場面でビジターが先に守護神をつぎ込むのは定石なのだろうが、
十回の表は大和から始まる下位打線。点が入る確率ならば次の回の攻撃だ。
時間的にあと2イニングまでは行ける場面での藤川投入はいかがなものだったか。
そしてうるさいベイのトップから始まる裏の攻撃でマウンドに福原。
一週間前の神宮の悪夢が蘇るというものではないか。
案の定、ランナーをためて二死満塁となってしまう。
下手すれば今回の観戦記のタイトルは『押出し同点、押出しサヨナラ』になってしまうのかと覚悟してしまったほど。
まあ選手起用にとやかく批判しても仕方ないので、疑問を呈するだけに留めておくが、
どうしても納得いかなかったのが、九回表の鳥谷のバント。
先頭の平野がヒットで出て俄かに盛り上った球場のボルテージも、一気に下がるというものだろう。
鳥谷へのバントのサインについては7月15日の浜スタの観戦記でも批判した。
また同じ内容の繰返しは避けるが、この時点で今日の勝ちはないと確信してしまった。
セカンドに走者を置いて四番の一打に賭けるのはわからないでもないが、
今日の試合に限っては(?)確率は新井よりも鳥谷だった。
おそらく藤江は鳥谷から自動アウトをもらえてどれだけ助かったことか。
結果はどう転ぶかわからないにしても、少なくとも相手がほっとする野球をやっていたのでは勝てるものも勝てない。
唯一、六回裏の一死3塁のピンチで、一二塁間に高いバウンドのゴロを狙っていた金城のバットコントロールを狂わせて、下園を本塁で仕留めた場面。
そこだけは「よっしゃ!」スタンドで叫んだ。
願わくは火曜日からの東京ドーム三連戦。
その「よっしゃ!」を連発するような展開になってくれればいいのだが。
◎8月21日(日)|横浜16回戦(横浜)18:00開始/14256人/3時間49分
先発:メッセンジャー×三浦|スコア:1-1
※Tigers DATA lab.
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阪神タイガース・野球
2011-08-22T01:15:00+09:00
ZAto
JUGEM
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