上111下64 2021-01-14T18:42:12+09:00http://blog-zatopek11.net/
「雑途往還」ブログ 阪神タイガース+映画・演劇+戯言---超自己満足主義
JUGEM年賀 平成31年http://blog-zatopek11.net/?eid=4142019-01-02T21:10:00+09:002019-01-02T12:10:25Z2019-01-02T12:10:00ZZAto]]>年賀 平成30年http://blog-zatopek11.net/?eid=4132018-01-19T22:20:00+09:002018-01-19T13:20:32Z2018-01-19T13:20:00ZZAto]]>年賀 平成29年http://blog-zatopek11.net/?eid=4112017-01-12T21:33:28+09:002017-01-12T12:33:28Z2017-01-12T12:33:28ZZAto時事]]>年賀 平成28年http://blog-zatopek11.net/?eid=4092016-01-03T01:58:00+09:002016-01-02T17:04:45Z2016-01-02T16:58:00Z
ZAto時事
]]>年賀 平成27年http://blog-zatopek11.net/?eid=4072015-01-03T11:24:00+09:002018-01-19T13:08:00Z2015-01-03T02:24:00ZZAto時事]]>年賀 平成26年http://blog-zatopek11.net/?eid=4032014-01-03T09:45:55+09:002015-01-03T01:40:20Z2014-01-03T00:45:55ZZAto時事
]]>叔母のことhttp://blog-zatopek11.net/?eid=4022013-01-07T23:59:00+09:002013-01-08T14:55:20Z2013-01-07T14:59:00Z
年末に脳血栓で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれた叔母について。
両親とも大家族なので、私には大勢の叔母、叔父が大勢いる。
大勢いると近い人と遠い人、顔も知らない叔父、叔母もいるのだが、
先日、脳血栓で病院に運ばれた叔母には幼い頃からずっと付き合...ZAto戯言
年末に脳血栓で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれた叔母について。
両親とも大家族なので、私には大勢の叔母、叔父が大勢いる。
大勢いると近い人と遠い人、顔も知らない叔父、叔母もいるのだが、
先日、脳血栓で病院に運ばれた叔母には幼い頃からずっと付き合ってもらっている。
幼い頃どころか、大雪の日の難産のとき姉である母親に付き添ってくれたのが、当時高校生の叔母だった。
つまり自分が産まれたときに立ち会ってくれた人。
叔母ではあるが今でも「まっちゃん」と呼んでいる。ずっと姉のような存在だった。
そのまっちゃんは十人兄妹のうちで唯一、恋愛結婚をした人だ。
婚約中の伯父とのデートに子供だった自分はよくお邪魔虫をした。
田舎者ばかりの中で都会的な雰囲気のまっちゃんことは好きだったし、
まっちゃんも随分と可愛がってくれた。
結婚式のときもよく憶えているが、父親が長期不在なのが最適だったのだろう、従弟を産むときに我が家に滞在たことがあり、勉強も見てもらったことを思い出す。
一番ありがたかったのは、自分が高校のときフラフラしているのを、出産のとき苦しんだ母親のことを手紙にして、たしなめてくれたことなのだけど。
しかし勤め人だった伯父が身体を壊して職を失うと、一念発起して墨田の玉ノ井で焼鳥屋を開業。
玉ノ井は昔遊郭が軒を並べた「ぬけられます」の赤線地帯。
都会的センスに溢れたまっちゃんがいきなり下町向島の焼き鳥屋の女将となった。
たまにそのことをぼやいていたが、夫婦は懸命に激務をこなしていたと思う。
その甲斐もあって常連客もついて、店は繁盛して増築もした。
早くも開業して35年を超えた。従弟も立派に二代目として厨房に立っている。
身内の贔屓目としても、この店のつくねは大変美味い。
軟骨からレバーまで肉の旨味をギュッと凝縮して、ここのつくねを味わってしまうと、ちょっと他のは食べられないんじゃないだろうか。
残念なことに伯父もまっちゃんも身体が丈夫とはいえず、
二人して交互に病院に担ぎ込まれることもしばしばで、危篤の報せを受けたこともあった。
血管病は母方の家系病で、母親も十年前に大きな手術をして人工動脈が埋められているが、まっちゃんが病院に運ばれるのは今回で三回目だ。
今夜、BSの人気番組「吉田類の酒場放浪記」でまっちゃんの店が紹介された。
画面の中で手製のぬたを「ワカメとネギと鮟肝で和えて・・・」と吉田類に差し出すと、
「味が練れている。練れているということは味が洗練されている。こういうのが下町の奥の深いところ」との評価を貰って、何とも嬉しそうだった。
これ、いつの収録だったのだろう。
まっちゃんも伯父も従弟もオンエアを楽しみにしていたことだろう。
画面のまっちゃんと病床のまっちゃんとがオーバーラップして、
一層、急の病魔が本当に恨めしくてならない。
見舞いに行ったとき、伯父がスプーンで流動食をまっちゃんの口に運んでいた。
夫婦水入らずの機会もそうはなかったろうから、何十年ぶりかのお邪魔虫だ。
まだ70前なのだからこれから辛いリハビリにも耐えてくれることだろう。
身内のことながら「頑張ろう!」の一言を。
]]>さて、このブログどうしましょう?http://blog-zatopek11.net/?eid=4012013-01-05T11:19:00+09:002013-02-08T16:10:37Z2013-01-05T02:19:00Z 友人たちがやっているブログが、軒並み更新の頻度が減ってきている。
それは仕方がない。更新が滞ってしまう事情はおおよその察しはつく。
始めた頃は話題も豊富で楽しい。それが閲覧者が増えると次第に義務化する。
新鮮味がなくなると宿題が溜まってしまう。
ブロ...ZAto戯言
それは仕方がない。更新が滞ってしまう事情はおおよその察しはつく。
始めた頃は話題も豊富で楽しい。それが閲覧者が増えると次第に義務化する。
新鮮味がなくなると宿題が溜まってしまう。
ブログに書きたくて始めたことが、実はブログに書かされてしまう。
もしかしたら、ブログにアップするのが目的で何かしらの行動をとる場合もあるかもしれないが(そのこと自体は否定しない)、そこまでのやる気も時間もない。
まぁ大体そんなところだろう。山守のおやっさん、、、ワシもおんなじじゃ。
改めて我がブログをスクロールしてみると、殆ど映画と野球のことしか書いていない。
もともと広く閲覧される努力をまったく放棄した勝手気ままなブログだとしても、
そもそもHP「雑途往還」に映画も野球のページがあるのだから、
果たしてこのブログって必要だろうか。
自分の場合、自由に使える時間が人よりも圧倒的に多いはずだとしても、
書き始めてからアップするまで(文字量が増える悪癖もあって)人の何倍もの時間がかかってしまうとなると、アップ予定の映画評も溜まり、消化するまで観賞を自粛してしまう。
何だかもの凄い本末転倒だ。
野球の試合評(一応ね)も、今日の勝利を称賛するつもりが、翌日にボロ負けされると途端にキーを叩くのが億劫になる。
結局、消化出来ずにシーズン終盤に失速し、金本知憲引退というトピックスも手がつけられず放置したまま年を越してしまう。
そもそも書くことより画像を作ることにエネルギーを使ってしまうのが良くない。
仙台、北海道と旅したことも結局は賞味期限を切らしてしまった。
(旅について書かないブログってなかなか凄くないか)
さらに、日常のあれやこれやを綴ることも「日めくり」で充足されているとなると、
自分にとってブログの存在意味は殆どないのだ。
それでもブログは書く方からすると楽は楽だし、スマホから閲覧、編集もできる簡便性も捨てがたい。
いっそ「日めくり」をブログに移管してしまうかと何度考えたことか。
まず今後はこのブログに通常の映画評と野球観戦記は書かない。
何かトピックスがあればそれだけを書く。
映画についてはHPに「映画観賞記録」を新設した。
野球についてもこれから考える。
従ってブログの方は一層、更新頻度が減るだろうが、
アップしたらHPの「更新履歴」で必ずお知らせするので、
「日めくり」に行ったついでにクリックしてしていただければ無駄足を踏まずに済むはずです。
って、私は閲覧して戴ける方々に何を指示しているのでしょうか?
]]>年賀 平成25年http://blog-zatopek11.net/?eid=4002013-01-01T00:00:00+09:002015-01-03T01:40:34Z2012-12-31T15:00:00Z
ZAto時事
]]>映画 『 007/スカイフォール 』http://blog-zatopek11.net/?eid=3992012-12-21T00:16:00+09:002012-12-22T04:01:18Z2012-12-20T15:16:00Z
自分としては『ダイ・アナザー・デイ』以来の007シリーズとなる。
あの時も随分と久々だったが、さらに十年が経っているのだから驚きだ。
この機会に少々007シリーズの思い出話に触れてみたい。
初めて劇場で見たのが中学3年のときの正月映画『黄金銃を持つ男』だっ...ZAto映画
自分としては『ダイ・アナザー・デイ』以来の007シリーズとなる。
あの時も随分と久々だったが、さらに十年が経っているのだから驚きだ。
この機会に少々007シリーズの思い出話に触れてみたい。
初めて劇場で見たのが中学3年のときの正月映画『黄金銃を持つ男』だった。
その時は遅れてきたボンドファンのつもりでいたが、何てことはない、あれも今やシリーズ前半の作品になっている。
シリーズを世代別に分類すると、私はロジャー・ムーア世代ということになる。
しかし、その当時から「ジェームズ・ボンドはやっぱりショーン・コネリーだ!」という声が圧倒的だった。
そこで「コネリーこそボンド」と堂々といえる資格を得ようと、TVで見ていたのでは駄目だという規律を勝手に科して、名画座やリバイバルを駆けずり回りコネリー版の初期作品は早々にすべて劇場で観た。
おかげで以来のボンド映画の見方が、コネリーだったらどんな感じに演じ、どんな仕上がりになるだろうかと想像する偏狭な癖が身に着いてしまった。
しかし、何だかんだいってシリーズもロジャー・ムーア以降、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経て、現在のダニエル・クレイグになって、新生ボンドもこれで3作目になる。
もはや「コネリーこそボンド」なんて言い草はオヤジの証明でしかなく、当然、イアン・フレミングの原作もとっくの昔にネタ切れとなって、往年の宿敵スペクターとの対決のバックボーンだった東西冷戦も終息。
母国イギリスもリトル・ハリウッド化して『007は殺しの番号』などというベタな邦題がつけられた時代から50年が過ぎて、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』などと英語音痴を嘲笑うかのように原題がそのまま使われるようになっていた。
そもそも“ゼロゼロセブン”ではなく“ダブルオーセブン”という呼び名が定着した時点でひと世代変わったのかも知れない(嗚呼、淀川長治さんの“ゼロゼロなな”というトークが妙に懐かしい)。
そして『ダイ・アナザー・デイ』を観たときに思った。
オールドファンにはもうレンタルで十分かも知れない、と。
そこにはイギリス野郎のユーモアとダンディズムの欠片もなく、完全にノー天気ハリウッド・エンタティメントが堂々と罷り通っていた。
冒頭、嵐の大海原をサーフィンしながら朝鮮半島に乗り込むボンドの姿は、『オースティン・パワーズ』以上におバカに見え、むしろあっちの方が初期シリーズのテイストを踏まえて微笑ましいぐらいだと感じた。
(消えるボンドカーなど、オースティンでもやらん!)
かつての007には荒唐無稽の中に “情勢”があり、“政治”があった。
あの時、シリーズからショーン・コネリーの面影を追う必要がなくなったのを痛感したのだった。
そしてダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが誕生する。
ファッション誌の表紙モデルになりそうなブロスナンからガラリと趣が変わった。
残念ながらクレイグの前2本は観ていない。
それほど『ダイ・アナザー・デイ』の印象が良くなかったのだが、スチル写真で見る限り無味無臭のロジャー・ムーアやブロスナンのボンドと比べて、クレイグのひと癖ありそうな風貌にはある種の期待感はあったし、そこに製作者側の新生007へのアプローチも感じていた。
これは期待できるかもしれない。実は前2作を見逃したのを後悔もしていた。
そして何よりも『スカイフォール』の監督はサム・メンデスだ。
オスカー受賞監督を起用することの意味に興味をそそられたのも、劇場へ足を運ぶ十分な理由になった。
全世界に散らばっている諜報員たちのリストが奪われるという極めて危険な事態が発生。ボンドはリストを取り返すべく追跡する過程で、味方の誤射により橋から落下し姿を消した。さらにはイギリス情報部本部が何者かによってハッキングされ、爆破される事件が発生する!
確かにクレイグの007はブロスナンとはまったく違うシリーズかと思った。
まずテーマ曲に乗ってボンドがピストルを撃つ有名なオープニングが出てこない。
それより以前にコロンビア映画の自由の女神のトレードマークにも軽く驚いていた。
007といえば我々の世代ではユナイトのイメージが強かったのだが、いつからソニーの映画になったのだろう(そういえば劇中に出てくるノートパソコンもソニーのVAIOだったが)。
メインクレジット前のトルコでの車、オートバイ、列車を駆使した大チェイスはCG満載のド派手なもので、それ自体は時代の流れで仕方がないにしても、誤射されたボンドが海底に沈んでいくイメージから、九死に一生を得て、自暴自棄になって女や酒に溺れ、場末の賭博場でやさぐれる姿に、面喰ってしまったのも正直なところ。
ここまでテイストを変えてしまったことには驚かされっぱなしだった。
シリーズ50年。東西の冷戦が終結し世界情勢がすっかり変質した中での007。
これは否応なしにイギリス情報部の存在理由の矛盾も問われることになり、それがこの物語の根幹にもなっている。
かつてアイディア満載の新兵器をボンドに提供していた「Q」も世代交代し、ITに長け、諜報部員には無線機だけを渡して、あとの行動はすべてこちらがコントロールするという合理性を追求する若造になっていた。
イギリス情報部という組織にも、忠誠を誓った国家にも疎外されようとするボンドは、
アイデンティの揺らぎに苦しみながら、生まれ故郷のスコットランドの生家で敵を迎え撃つことになる。
まさかシリーズでボンドの「自分探しの旅」を仮想体験させられるとは思わなかった。
もはや超人的なスパイがスマートに世界を駆け巡る王道に胡坐をかいてる時代ではなくなっているということだろうか。
このように『スカイフォール』は既成の007とはまったく構成を異としているのだが、
このことの是非を問われれば、私は「是」だったと答えたい。
シリーズの存在証明はワルサーPPKとアストンマーチンで満たされれば結構で、
007が抱える矛盾を堂々とテーマに持っていた勇気は評価されるべきではないか。
イギリス野郎のユーモアは、ボンドガールを落とし込む軽妙なセリフなどではなく、
このIT犯罪全盛の時代に、あえてショットガンひとつで敵を待ち受ける 『真昼の決闘』 ばりのシチュエーションを現出させたことにあるような気がする。
そして、エンディングでようやく有名なボンドがピストルを撃つイメージが流れる。
何だかんだと書いてきたが、これには少し「ほっ」とした。
2012.12.2 TOHOシネマズ海老名
]]>映画 『 北のカナリアたち 』http://blog-zatopek11.net/?eid=3982012-12-05T00:20:00+09:002012-12-04T15:29:39Z2012-12-04T15:20:00Z
〔東映創立60周年記念作品〕
と銘打たれていた。
思い出すのは30周年記念作品が 『やくざ戦争・日本の首領』 だった。あの時 “東映、男の30年” のキャッチが踊っていたことを思うと、吉永小百合主演の60周年には隔世の感がある。
いや、実際に隔世と呼んでも可笑し...ZAto映画
〔東映創立60周年記念作品〕
と銘打たれていた。
思い出すのは30周年記念作品が 『やくざ戦争・日本の首領<ドン>』 だった。あの時 “東映、男の30年” のキャッチが踊っていたことを思うと、吉永小百合主演の60周年には隔世の感がある。
いや、実際に隔世と呼んでも可笑しくない歳月ではある。
それを思うと第一線で看板女優であり続けている吉永小百合は、隔世を超えた存在だといえるのだろう。
ところが以前、東映作品のビデオの販売会社に在籍していた経験では、とにかく吉永小百合のビデオは当たらないというのが定説になっていた。
実際、劇場の成績はそこそこでも、ビデオソフトは見事にコケまくり、大ヒットメーカーの深作欣ニでさえ 『華の乱』 のセールスは不調に終り、ビデオショップでの稼動も芳しいものにはならなかった。
要するに吉永小百合で劇場に来る固定客の年齢層が、ビデオショップ利用の客層とかけ離れていたこともあったが、仕事帰りにビデオを借りて、寝床に着く前に気軽に観るのに「吉永小百合はちょっと」と敬遠されていたのだと想像する。
吉永小百合なのだから悪い映画はないのだろうけど、良くも悪くも破綻がない。
それは岡田裕介がプロデューサーに就任して以来、定期的に製作されてきた東映の吉永小百合映画全般においての評価なのだと思う。
さて、もうひとつ悲しいお報せとして、『北のカナリアたち』 のチケットが金券屋で450円という廉価で売られていたこと。
まぁ自分も購入しておいてなんだが、〔東映創立60周年記念作品〕が封切りで450円というのは「なんだかなぁ」ではある。
鑑賞券も、二次流通に出回るときは需要と供給のバランスで価格は決まってくるので、
節操なく前売りを発行しまくると供給過多を招き、市場でダンピングが発生するのは市場の原理で、おそらく金券屋にタダ同然で大量に持ち込まれたのだろう。
かつてのブロックブッキングで無敵の王座を保持し続けた東映も、シネコンの興隆ですっかり東宝に水を開けられて久しいが、東映映画を東宝系のシネコンで観ているのだから、さもありなんということか。
日本最北の島・礼文島と利尻島で小学校教師をしていた川島はる。
彼女は20年前にある事件で夫を失ったのをきっかけに追われるように島を出た。
しかし教え子のひとりを事件の重要参考人として追う刑事の訪問がきっかけとなり、はるはかつての生徒たちに会う旅へ出る。
再会を果たした恩師を前に生徒たちはそれぞれの思いを口にし、現在と過去が交錯しながら事件の謎が明らかになっていく。
形式としてはデュヴィヴィエの名作 『舞踏会の手帳』 を彷彿とさせる。
意外といっては坂本順治にも吉永小百合にも失礼だが、結構面白かった。
もちろんまったく破綻が無かったわけではないが、吉永小百合という旗艦があって、その破綻を見せない大女優が狂言回に徹したことが良かったのだと思う。
確かに不治の病を抱える夫との葛藤や、警察官との不倫など、彼女にもドラマは用意されているのだが、離島の小学校教諭という役柄で、子役や若手俳優たち相手の受けの芝居になったことで、ドラマに安定感をもたらすことに成功していたのではないか。
吃音の少年の叫びにオルガンを合わせて「カリンカ」を歌わせる場面はこの映画の白眉。
歌を覚えたことで小さな分校の生徒たちがまとまっていく過程は、実はこの映画の後に、『サウンド・オブ・ミュージック』を観て、コーラスの素晴らしさが符合して何とも楽しい思いをした。
しかし20年の歳月は子供たちを変えていく。
小さなカナリアたちは成長とともに、現実の中で歌を忘れてしまう。
失業する者、不倫をなじられる者、ずっと殻に閉じこもり生きる者、罪を犯して逃亡中の者と、それを追う警察官になった者・・・。
歌詞のようにカナリアは山へ捨てられていたということか。
それが紆余曲折の末、彼らが再び歌を取り戻していくエンディングへの流れは森山未来の熱演も光り、非常に良かったのではないか。
森山未来のキレのあるダンスや歌はYouTubeで観たが、底知れぬ才能を日本の演劇界は得たのではないか。
湊かなえの原作『往復書簡』は読んでいない。
聞くところによると手紙のやり取りだけで構成した短編だというので、先に映像で観てしまったらまず原作に手を出さない私も、ちょっと読んでもいいかなと思いはじめている。
そういう原作をきちんとした映画に仕立てたのだから、那須真知子も会心の仕事だったのではないか。
坂本順治の演出も20年の過去と現在を流れるような編集の妙味で2時間を飽きさせない。
思えば坂本順治も衝撃的なデビュー作 『どついたるねん』 から23年。
初期の “大阪新世界三部作” の頃から円熟した演出力は持っていたが、とうとう佐藤純弥や降旗康男が登板しそうな大作を任されるようになったかとの感慨もあった。
残念だったのはデジタル撮影では冬の離島の寒さがまるで伝わってこなかったこと。
白波が岩に砕けて海猫が舞うショットなど、木村大作らしい絵を撮っているのだが、そもそも劇映画のカメラマンの仕事はいかに情動を表現することであって、NHKの紀行番組のように風景を額縁にはめることではない。
遠くの地平線や水平線の淵が電気的に思えてしまったのは私だけだろうか。
フィルムで味わうべき映画だったと思う。
2012.12.25 TOHOシネマズ海老名
]]>映画 『 人生の特等席 』http://blog-zatopek11.net/?eid=3972012-11-24T23:59:00+09:002013-01-03T07:19:39Z2012-11-24T14:59:00Z
長年メジャーリーグのスカウトマンとして辣腕を振るってきたガスは頑固一徹の男。
しかし年齢のせいか視力が衰えはじめ、球団本部から契約の打ち切りを打診されていた。
一方、家庭を顧みない父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキーは、弁護士と...ZAto映画
長年メジャーリーグのスカウトマンとして辣腕を振るってきたガスは頑固一徹の男。
しかし年齢のせいか視力が衰えはじめ、球団本部から契約の打ち切りを打診されていた。
一方、家庭を顧みない父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキーは、弁護士としてのキャリアが試されている中、父親の最後になるかもしれないスカウトの旅に同行することを決意する。
監督としてクレジットされていないイーストウッドを観るのは何年ぶりだろう。
アルパソプロの製作であり、プロデューサーも兼任しているので、完全にアクターとして素材に徹したわけでもないだろうが、少なくともイーストウッドが演技者としてガス・ロベルの役を楽しんでいることは画面から伝わって来る。
長年のファンとしてはもうそれだけで満足だ。
確かにイーストウッドの監督作品みたいな人物の深みも、映像の奥行きもやや薄いのかもしれないし、締めくくり方もかなりご都合主義的なところもあったと思う。
妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父に確執を抱いていたわりには、ガスとミッキーの親子関係がよほど親密でなければ成り立たない場面もある。
♪You're my sunshine〜の歌も然り、ミッキーの野球眼と実際の野球実技もそうだ。
6歳の時のある出来事がきっかけに父娘はほとんど没交渉だったのだとすれば、やや矛盾があるように思えるのだがどうなのだろう。
でも、いい映画だった。
アメリカは父性の国だといわれているが、頑固者を描くとき野球は絶好のアイテムだ。
マネー・ベースボール理論が脚光を浴びる現代であっても、アメリカ人にとって打球音が轟く野球のグランドには郷愁があり、父子の絆を確かめる聖域なのだろう。
シネコンの完全入替え制という無粋なシステムさえなければ、もう一度観てもよかったし、何となくグラブの革の匂いを嗅ぎながら、誰かとキャッチボールをしたくもなった。
この感覚は 『フィールド・オブ・ドリームス』 を観終わったときに似ていたようにも思う。
もちろん 『人生の特等席』 は、はっきりと「野球映画」ではない。
しかし、父と子が絆を取り戻すという語りつくされたテーマの中で、野球へのオーマージュが随所に込められていたのが、個人的には嬉しかった。
おそらく主演イーストウッドであて書きしたような脚本なのだろうが、かといってイーストウッドのワンマン映画にもなっていないのは、知的で負けず嫌いだが、決して大人の女として完璧じゃないミッキーを演じたエイミー・アダムスによるところが大きかった。
今後、作品に恵まれさえすればメリル・ストリープの域にまで成長するのではないだろうか。
今世紀に入ってからそれほど経ったわけではないが、
私は四年前の 『グラン・トリノ』 は今のところ21世紀最高傑作だと思っている。
そしてあれはクリント・イーストウッドの監督・主演でないと成立しなかったという点で、驚くべき傑作だった。
強靭な頑固一徹親父(爺)の幕引きが俳優としてのイーストウッドの幕引きとオーバーラップしてかなり感傷的な思いで 『グラン・トリノ』 のフィナーレを観たものだったが、
そのイーストウッドが人に演出を委ねる形でスクリーンに還って来たのはかなり意外だった。
CSで放映されていた『ローハイド』のクレジットにテッド・ポストの名を見つけたとき、イーストウッドの義理固さに感心してしまったように、『人生の特等席』 で監督デビューとなったロバート・ロレンツが長年、アルパソプロのプロデューサーをやっていたというから、愛弟子の門出に体を張ったのだとしたら、それはイーストウッドらしいと思った。
そう 『グラン・トリノ』 で自らの履歴を総決算したイーストウッドにとって、同じ頑固爺を演じても、それは決してウォルト・コワルスキーの世界観と同じ脈絡になることはない。
あくまでもガスという老人のキャラクターを演じたのであって、そこに自身を投影したわけではなく、だからこそ眉間にシワを寄せて偏屈なガスを演じていてもイーストウッドは随分と楽しげだった。
そう思わなければミッキーに会心の一撃を浴びて、ダイヤモンドを一周する娘に笑いかけた、あのチャーミングな笑顔の説明がつかないではないか。
2012.11.23 TOHOシネマズ海老名
]]>『 中島みゆき 縁会 2012〜3 』 〜東京国際フォーラムhttp://blog-zatopek11.net/?eid=3962012-11-17T19:17:00+09:002012-12-11T14:26:33Z2012-11-17T10:17:00Z
5、000席を上回る大ホールの二階席の後ろから3列目というステージを見下ろす席で、新調したばかりで慣れない遠近両用眼鏡の焦点を合わせるのに無駄な苦労をしたこと、舞台セットがブロック状に高く積まれたボックスでのバンド演奏のため、サウンドがやけに近くに感...ZAto舞台・ステージ
5、000席を上回る大ホールの二階席の後ろから3列目というステージを見下ろす席で、新調したばかりで慣れない遠近両用眼鏡の焦点を合わせるのに無駄な苦労をしたこと、舞台セットがブロック状に高く積まれたボックスでのバンド演奏のため、サウンドがやけに近くに感じられ、アップテンポの曲は中島さんの歌とバンドが喧嘩しているようで多少耳障りだったことは最初に書いておこうかと思う。
『最後の女神』 『地上の星』 『恩知らず』 『パラダイスカフェ』はとくに残念だった。
そのためかスローな曲ばかりがやけに心に残ったコンサートになった。
さて、晩秋恒例となっている中島さんのライブ。
「 「夜会」という舞台がありますが、あれと違って通常のコンサートの方はいつも宴会気分でやっていこうと思っとります。いっそツアータイトルも 「宴会」 にしまえと考えたんですが、一升瓶を持ってこられても困りますんで 縁が会うと書いて 「縁会」 としてみました」 と、例によってあの凄まじく脱力したトークを炸裂させる。
五年連続となる。もはや時間の流れる早さを茫然と見送るのみだ。
誰かが言っていた。「時間が早く感じられるのは、あなたが遅くなったからだ」と。
確かにそういうこともあるのかもしれない。
例えば前回のコンサートよりも東京国際フォーラムの喫煙所がずっと縮小されて、満員電車状態になっていたことや、終了後のロビーに貼り出されたセットリストに群がっていた携帯電話がスマホになっていたなんて違いにも小さな時の変遷を感じる。
しかし五年なんてケチな話ではなく、今夜のセットリストの内、彼女が二十歳そこそこで作った 『時代』 を歌い、還暦を迎えて発売した 『恩知らず』 を歌う。
休憩後のお色直しでは黒のドレスでJAZZYにブルース3曲を披露するが、『真っ直ぐな線』 と 『悲しいことはいつもある』 という二十歳代の楽曲の間にニューアルバムから 『常夜灯』 を挟む。
40年ほどの時間を一夜のコンサートでパッケージされてもまったく違和感はない。
中島みゆきの世界観が二十歳代で既に完成され、成熟していたともいえるし、
『時代』 『化粧』 『世情』 という楽曲がすでに不変の価値を持っているのかもしれない。
しかし『世情』 などは「めぐるめぐるよ時代はめぐる」で、そういう社会情勢になってしまったともいえるわけで、それを聴いている自分自身に流れた時間も含めて、改めて40年という時の流れを考えてしまった。
『世情』 が今回歌われるのはネットの書き込みで知っていた。
スポーツ紙にも “中島みゆき27年ぶり「世情」!2年ぶり全国ツアーで披露”と載った。
中島さん26歳のアルバム 『愛していると云ってくれ』 に収録されていた曲。
これが一曲丸々 『3年B組金八先生』 に使われて有名になったことは知っていたが、
実は十年くらい前にビデオで初めて観た(何せ金曜夜8時といえばプロレスだった)。
なるほど、公にはもうシュプレヒコールが失われていた時代に、それでも個の中にその衝動はあるのではないかという「声なき声」を代弁した(と勝手に思っている)『世情』 も、こういう使い方があるものだと感心してしまった。
「この曲を書いて歌っていた頃と比べて本当に世の中変わりました。でも変わらないものは何も変わっていないんだと思います」と語りから入った 『世情』。
今回のコンサートにメッセージ性を見出すのならこの瞬間だったのではないか。
確かに、かつての「公」から「個」へと向けられていた曲が、再び「公」へと回帰することになった今の世情は、作られた当時よりも圧倒的に暗くなっている。
しかし 『世情』 で歌われた主人公みたいに、誰もが闇雲に突き進めるわけではない。
休憩前に歌われた 『風の笛』は、我慢し続けている人々への応援歌になっている。
この曲に、まるで初めて 『ファイト!』 を聴いたときのような共感を覚えてしまった。
『風の笛』 はニューアルバムに収録されている曲だが、またひとつ中島さんから名曲が生まれたことを実感する。
中島さんは応援歌という評価に違和感があるというが、激愛から慈愛へと深めていく中島みゆき史の中で、それらの曲に私自身も共感し、癒されているのだ。
同じ脈絡に 『倒木の敗者復活戦』 という新曲もあり、このニューアルバムは結構いい。
何度も聴いて馴染みのある曲をライヴで聴けるのは楽しいが、こうしてまだ耳馴染んでいない曲をライヴで認知していく作業もまた格別ではないか。
2012.11.15 東京国際フォーラム ホールA
]]>映画 『 悪の教典 』http://blog-zatopek11.net/?eid=3952012-11-12T23:59:00+09:002012-11-23T14:18:41Z2012-11-12T14:59:00Z
ハスミンというニックネームで呼ばれ、生徒たちから圧倒的な人気と支持を集める高校教師・蓮実聖司。
生徒だけでなく、ほかの教師や保護者も一目を置く模範的な教師だったが、その正体は他人への共感や良心を持っていない反社会性人格障害者だった。
その異常性格...ZAto映画
ハスミンというニックネームで呼ばれ、生徒たちから圧倒的な人気と支持を集める高校教師・蓮実聖司。
生徒だけでなく、ほかの教師や保護者も一目を置く模範的な教師だったが、その正体は他人への共感や良心を持っていない反社会性人格障害者だった。
その異常性格が発覚しそうになったとき、蓮見はクラスの生徒全員を抹殺する決意を固め、実行していった・・・!
まずは結論をいう。つまらなかった。
何故つまらなかったのかといえば、あまりにも単調すぎた。
何が単調だったのかといえば、全体的に工夫が足りない。
何の工夫が足りないのかといえば、
同じ展開のリプレイを繰り返し見せられて退屈だった。
以上、おしまい。
って、こんなレビューではさすがに「映画化は絶対に出来ないつもりで書いた」と語った貴志祐介にも、「蓮実聖司を愛するものとして」と題して文庫本に解説を添えるほど入れ揚げていた三池崇史にも失礼だろうか。
しかし真面目に三池崇史監督 『悪の教典』 についてのレビューを書こうとすると、
「映画と原作はまったく別モノ」という私の持論を曲げなければならない事態になりそうで困る。
ただでさえ、この週末は原作の映画化作品を三本続けて観て、結局、「原作と映画化」の呪縛から逃れられていない。
『のぼうの城』は「あらかじめ映画化を前提とした」原作があり、『黄金を抱いて翔べ』 は「映画化は考えなかった」原作があり、この 『悪の教典』 には先述の通り、作家が「とても映画にはならないだろう」と踏んで書かれた原作がある。
では「映画と原作はまったく別モノ」なる持論をここで箇条書きにして確認しておきたい。
一、まず大抵の場合において読書に要する時間よりも、映画の上映時間は短い。
ニ、日常の中で割いた時間の大小はかなり評価に影響する。
三、原作を読みながら、既にその人にとって最高の映像が頭の中で作られている。
四、その映像は予算に上限はなく、ありとあらゆるキャスティングが可能となる。
五、長編小説の場合は2時間足らずの枠に収められないので大概は端折られる。
六、原作は読者ひとりひとりの思い入れの中で完結するが、映画は不特定多数を相手に一定の満足度を目指さなければならず、最大公約数的になり勝ちとなる。
七、そもそも映画は小説の挿絵ではない。
以上は「原作と比べると映画は物足りない」といわれることへの反証でもあるのだが、
不思議な話、あまりにも原作に感じたイメージ通りの映画を作られると、かえってつまらなく思う場合がある。
いや、読者は一度頭の中で映画を作ってしまっているのだから、それをなぞられても退屈に思うのは当然か。
映画は原作の再現フィルムではないのだ。
しかし 『悪の教典』 はまず忠実な再現フィルムにはならない。
私が読んだ原作はニ段組700ページのぶ厚い新書版だった。
そのボリュームを2時間にまとめ、しかもクライマックスの殺戮シーンに40分もの時間を割くのだから、脚本も手掛けた三池崇史としては、この原作のどこを捨てるかという作業になる。
ありがちな手として複数のキャラクターを一人にまとめてしまうというのがある。
映画で山田孝之が演じた体育教師がなどはそうだろう。
間引くべき人間は間引いてしまって、登場人物をタイトに絞るのは鉄則だ。
さらに必要に応じてエピソードをスパッと切る。
中途半端につまみ食いするくらいなら丸々切ってしまった方がいい。
吹越満の釣井教諭が犯す妻殺しと校長のエピなどがそれに当るのだろうか。
・・・って、ちょっと待てよと。
さっきから「映画と原作はまったく別モノ」と書いておきながら、思いっ切りそのことばかり書いているではないか。
思えばあまりの面白さに、あのボリュームを一気読みしたのが二ヶ月前。
「別モノ」と割り切つて、真っ白な状態で映画 『悪の教典』 を観るには、まだまだ原作の記憶が生々しすぎる。
逆に、まったく内容を知らないまま、この映画を観る人の気分が想像出来ない。
本当はそういう気分にならなければいけないのだが、多分それは無理だ。
もしかしたら、映画によって 『悪の教典』 に初めて触れたのだとすれば、「単調でつまらない」 「工夫が足りない」などという感想は出てこなかったのかもしれない。
それでは本末転倒もいいところで、「語るに落ちる」とはまさにこのことだ。
しかしそれを割り引いても40分の殺戮場面は退屈過ぎるのではないだろうか。
まず散弾銃で殺しまくる蓮実と、殺されるがままの生徒たちの関係がひどく単純だ。
校舎という階層のある密閉した空間が生かされていない。
階段は出てくるがワンフロアにしか見えないので、生徒の視点からサイコパスがすぐそこに迫っているという恐怖が今ひとつ希薄なのだ。
原作では(と、また書いてしまうが)、机をジグザグに築いたバリケード、エレキギターによる感電、階段に油を撒いた罠、AEDによるドンデン返しなど、とかく単調になりそうな場面を蓮実と生徒たちの攻防をバリエーション豊かに引っ張っていたが、映画ではそこまでやる余裕はなかったのかも知れない。
確かに大勢の生徒たちの弾着をつけての一発勝負は並大抵のことではなかっただろうが、アクションやバイオレンスに定評のある三池崇史にしては、随分とつまらない画を撮ったものだと思う。
ハスミンを演りきった伊藤英明については、サイコパスであっても全編、カッコをよく爽やかでなければならないので、自然演じられる役者は限られてくる。
不気味過ぎても、大芝居になり過ぎても困るとなれば、まぁ適任だったのではないか。
ただ三池崇史の「アンソニー・パーキンスか伊藤英明か」は大袈裟だったと思うが。
2012.11.11 TOHOシネマズ海老名
]]>映画 『 黄金を抱いて翔べ 』http://blog-zatopek11.net/?eid=3942012-11-11T13:10:00+09:002012-11-13T15:16:00Z2012-11-11T04:10:00Z
面白かった。まず間違いなく今年のキネ旬ベストテン入りは確実だろう。
本屋大賞やミステリー大賞など最新のベストセラー小説が次々と映画化され、
書店に行けば「映画化コーナー」の棚にズラリと原作本が並んでいる中で、
22年前の高村薫のデビュー作に挑んだ井筒...ZAto映画
面白かった。まず間違いなく今年のキネ旬ベストテン入りは確実だろう。
本屋大賞やミステリー大賞など最新のベストセラー小説が次々と映画化され、
書店に行けば「映画化コーナー」の棚にズラリと原作本が並んでいる中で、
22年前の高村薫のデビュー作に挑んだ井筒和幸。
ずっと温めていた企画が、ようやく念願叶っての映画化となったらしい。
高村薫の原作は好みゆえ当然読んでいる。しかし数十年前の読書なので、さすがに細かい部分は忘れていたが、常に登場人物たちの心情をとことん掘り下げ、綿密に筆を進めていく高村薫にしては随分とアクションに特化した小説という印象だった。
憶えているのは銀行の地下金庫から金塊を強奪する計画を立てた男たちがいて、
近隣の変電所を爆破した隙にそれを実行するという大雑把なことくらいで、
北朝鮮の元工作員やら左翼の過激派やら、肝心の幸田の生い立ちにまつわるエピソードなどは綺麗さっぱり記憶から抜け落ちていた。
つまりは映画観賞にはわりとベターな条件が揃っていたわけだ。
そして井筒が目指したのは(或いはこの原作から得ようとしたものは)、ひたすら骨太な男性映画を指向することであり、それは見事に達成されたのではないかと思う。
とにかく男の体臭がムッとする映画に仕上がった。
言い方を変えれば男騒ぎする映画であり、「男は本当に馬鹿だ」と思わせる映画だ。
そもそも金塊強奪の話となれば、コンピューターの管理システムをハッキングして、
システマティックに計画を実行するのが今の犯罪映画の見せ方になっているのだが、
ダイナマイトで防犯扉を爆破し、金庫をバールでこじ開けるあたり、驚くべきアナクロ二ズムで徹底されている。
そう、犯罪の計画と実行を描くという娯楽映画の王道のような内容なのだから、
爆破の一つやニつやらねぇと娯楽にならんだろうという潔さがこの映画を支えている。
せっかく銀行本店のコンピューターに侵入できるエンジニアが居ながら、彼がやったことといえば、エレベーターの駆動を制御することと、ダイナマイトをセットすることだけというのは笑ってしまうのだが。
幸田は北川から大阪市の銀行本店地下にある金塊強奪計画を持ちかけられる。
メンバーは他にシステムエンジニアの野田、北朝鮮の工作員モモ、北川の弟・春樹、元エレベーター技師のジイちゃん。
しかし、計画の過程で謎の事件が次々と発生。
そこにはお互い知らない、それぞれの過去が複雑に絡み合っていた・・・。
そもそもワケありのメンバーたちで固められた金塊強奪計画だ。
計画が実行するまで、本筋の計画以前に様々な妨害が彼らを待ち受けている。
幸田は過去の武器調達などで左翼過激派へのしがらみを引き摺り、
祖国を“脱藩”した北朝鮮の元工作員のモモは、実兄を射殺し、日常的に二重スパイやら、刺客などの脅威に晒されている。
リーダー格である北川と弟の春樹も場当たり的にヤクザと悶着の渦中にあり、それが金塊強奪直前に想定外の悲劇に見舞われることになる。
この映画が徹底的に珍しかったのは、着々と計画を遂行する過程で、実行日まで彼らは生き残ることが出来るのかという矛先にドラマトゥルギーを持っていったことにある。
「はじめに金塊ありき、我々と共にありき。我々の結束は肉の欲によらず、ただ金塊によって生まれしものなり」と金塊強奪計画をメンバーに宣言したリーダーの北川。
しかし妻子を殺され、弟を貧死の目に遭わされながら、いつしか北川は金塊を手にすることよりも、計画を実行することが目的となってしまったのではないか。
「人間の住んでいない土地で死にたい」と願う幸田のニヒリズム。
幸田が北川と「黄金を抱いて翔ぶ」ロマンを共有していたかといえばどうなのだろう。
モモも自己破壊への衝動で北川たちの仲間に入るが、金塊への執着は見えてこない。
借金返済というシケた目的を持つ野田は別としても、春樹しかり、ジイちゃんしかりで、
メンバーの誰一人として金塊そのものに執着するメンバーがいないという異常。
第一、彼らは金塊強奪のエキスパートでもなんでもない。
それでもこの計画だけは止められないのだというどうしようもなさ。
そもそも「綿密にやるが細かいことまでは決めない」のが方針の金塊強奪計画。
彼らが場所も構わず計画を口にするものだから、会話を聞き齧った大阪のオバちゃんから鋭いツッコミを入れられる体たらくだ。
この大胆だが杜撰な計画はそのまま「この映画は細々とした説明は省いて進んでいきますよ」という井筒の方針に置き換えられるのではないだろうか。
それゆえに、彼らは次々と場当たり的なバイオレンスに遭遇してしまう。
そして、間違いなくその副産物ともいえるバイオレンスの数々が映画に狂ったような活気を与えていた。
頭を短く刈り込んでクール&ホットに北川を演じた浅野忠信も凄かったが、
満身創痍で鬱屈とした表情を全編で漂わせていた妻夫木聡も凄かった。
『アウトレイジ ビヨンド』での加瀬亮もそうだが、バイオレンスという素材を与えられた男優たちが躍動しているのは今後の日本映画にとって悪い傾向ではない。
その『アウトレイジ ビヨンド』のチンピラ役でいい味を見せた桐谷健太は、ここでは一転してネイティブな大阪弁を駆使してこの映画に最高のアクを与えている。
先ほどの鋭いツッコミを入れたオバちゃんではないが、『黄金を抱いて翔べ』の世界観は大阪が舞台だから成り立っているのは明白だ。
イケメンのチャンミンや溝端淳平を目当てに劇場にやって来た女の子たちが、
男の汗臭さプンプンの映画にどこまで着いてこられるかはまったく定かではないが。
2012.11.10 TOHOシネマズ海老名
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