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映画 『 ドラゴン・タトゥーの女』
 
 スティーグ・ラーソンの原作『ミレニアム』は、現在三部作目を絶賛読書中だ。
先に本国のスウェーデンでは映画化済みということで、本作はデビット・フィンチャーによるハリウッドリメイク版ということになっている。
実は細かいカットを矢継ぎ早に繋いだ予告編を観たときに、へんてこりんなアレンジの「移民の歌」が流れているのを聴いて一抹の危惧は抱いていた。
何というか、Zepのスピリットをガチャガャに混ぜたようなサウンドがこのハリウッド版のキワモノ感を象徴しているような気がしていたのだ。
ドラゴン・タトゥーの女 ミカエル・ブルムクヴィストにダニエル・クレイブ、リスベット・サランデルにルーニー・マーラーという配役。
原作のイメージからするとダニエル・クレイブのミカエルはない。
私は原作を読んでいてミカエルのイメージは(年代は違うが)ずっとマイケル・ジェイストンのイメージだった。
本来のミカエルはピュアだがジャーナリストとして熱い正義感を持つ明るいキャラクターであり、ダニエル・クレイブにはその間逆のイメージがある。
もちろん映画は必ず原作小説を忠実に踏襲する必要はないし、加賀恭一郎=阿部寛とは違って、私が現在進行形で読んでいる『ミレニアム』のミカエルにダニエル・クレイブの面影をちらつかせてしまうこともない。
もともと映画は映画としての世界観をしっかりと持つべきであるというのが持論だ。
原作のミカエルとリスベットの取り合わせは文系と理系のアンバランスさが妙な雰囲気を醸し出しているのだが、映画はストレートにダニエル・クレイグのクールな佇まいとエキセントリックなリスベットを対比させて静と動のコントラストを演出する。
その狙いもわからないではない。従ってダニエル・クレイブの起用もありだとはともいえる。
もちろん「ミレニアム」編集室の作りも編集長のエリカもイメージとは程遠いし、リスベットをレイプする破廉恥な弁護士はあんなデブとは違う。
ミカエルが絶体絶命の危機に陥る拷問部屋のイメージはもっと暗かったはずだし、ましてリスベットの上司、アルマンスキー社長は恰幅のいい禿げ頭でなければならず、『ER』のDr.コバチが出てきたときにはズッコケたりと、そんなことを気にしていてはキリがない。
こんな具合になまじ原作から映像を作ってしまうと映画とのギャップが気になってしまうもので、本来なら映画を観るときはきっぱりと原作を忘れて臨むのが正しいのだろう。

 しかし私が本当に危惧したのは、果たしてデビッド・フィンチャーの資質が長編の原作ものにきちんとアジャスト出来るものかどうかにあった。
実際、文庫本レベルで1000ページ超の原作を158分の尺でまとめるのは難しい。
下手をするとストーリーだけを追いかけたダイジェスト版みたいな映画になりかねず、MTV出身のデビッド・フィンチャーだとスピード感を信条とするあまり、そういう拙速極まる絵にしてしまう恐れも十分にあった。
そんな悪い予感は当たってしまったということだろうか。
『ベンジャミン・バトン』は見逃しているが、ここには『セブン』の革新も、『ファイトクラブ』の創造も、『ソーシャルネットワーク』の独善もなく、『ドラゴン・タトゥーの女』は妙に匂いのない映画に仕上がってしまっている。
結果的には原作の大きな魅力であったジャーナリズムの高貴な精神性と、スウェーデンへの土着と負の歴史のパートをすっぽりと飛ばし(ついでにオーストラリアへのロケも止めて)、ミステリーの部分だけをかろうじて完結させたような映画になってしまった。
 しかし『ドラゴン・タトゥーの女』そのものが二部、三部への伏線として、キャラクターの紹介に徹したとすればこういう作り方も納得できないではない。
これからリスベット・サランドラを全面に押す映画にするつもりならば、ルーニー・マーラーの出だしは悪くないと思った。
 
 余談だが、エンドクレジットで分かったのだが、ミカエルに事件を依頼するヘンリック・ヴァンデル老人をクリストファー・プラマーが演じていたことには驚いた。いわずと知れた『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐ではないか。
映画館から離れていると思わぬ人と出会って面食らうことがしばしばあるものだ。



2012.2.25 109シネマズグランベリーモール




author:ZAto, category:映画, 01:13
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