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映画 『 麒麟の翼』

麒麟の翼.jpg 被害者は腹部を刺されたまま8分間も歩き続けた後に、日本橋の翼のある麒麟像の下で力尽きていた。なぜ、誰の助けも求めず、彼は一体どこへ向かおうとしていたのか。一方、事件の容疑者、八島冬樹は現場から逃亡しようとしたところを車に轢かれて意識不明の重体だった。報せを聞いた八島の恋人、中原香織は、彼の無実を訴えるが・・・。

スクリーンの大きさを掴みきれていないテレビスタッフにありがちな平板な映像。電気的に思えるのは、35mのプリントではないからだろう。
日本の映画会社が映画を撮ることはなく、テレビ局が制作した映画を全国の映画館に配給するのが仕事になって久しい。ポスタータイトルは『麒麟の翼〜劇場版・新参者〜』だが、メインタイトルは『麒麟の翼』。
今や主流となっているテレビシリーズの劇場版で、制作はTBS。映画興行でトントンの成績であれば、後は劇場公開作品の箔付けで放映時にたっぷりと儲けられるという仕組みなのか。
映画会社にとってテレビ局は重要なスポンサーなのだからあまり文句をいってはいけないのだが、それでも以前はテレビ局が出資する映画でもきちんと映画監督が撮っていた。それだけ撮影所にはテレビディレクターにおいそれと足を踏み込ませない結界が敷かれていた。結局、この風潮はデジタル時代を迎え、誰でも映画が撮れる時代となり、昔の撮影所システムが消滅したという証左なのだろう。
・・・それにしてもスクリーンを見つめながら放映時にはここでコマーシャルが入るというタイミングまで見えてしまうのは如何なものかと思うのだが。

 
 それでも無難にエンディングまで観ていられたのは、骨子のしっかりとした原作を得て、ストリーが澱みなく流れていたことと、阿部寛という大画面に耐えうるだけの絵面をもった俳優の力なのだろうと思う。
阿部寛といえば、日本人離れした体躯と甘いマスクで本人曰く「フェラーリで乗り付けるだけの二枚目」から完全に脱皮して、今や日本の演技陣を牽引するほどの活躍を見せているが、その転機となったとされるつかこうへいの舞台『熱海殺人事件/モンテカルロイリュージョン』を昔、パルコ劇場で観たとき、いくらなんでもあんな木村伝兵衛はないだろうと思いながらも、つかこうへいに徹底的に鍛えられ、必死に殻を破ろうとする阿部寛のドキュメンタリーに触れたような鮮烈な感銘を覚えたものだった。
この『麒麟の翼』での加賀恭一郎という刑事役に阿部寛自身がどれだけの手応えを感じているのかはわからないが、上手く映画のトーンに溶け込んでいたことに感心する。喜怒哀楽の少ない役柄で完全無欠の主役というのは想像以上に難しい仕事だったのではないだろうか。これで加賀恭一郎といえば阿部寛というイメージは完全に出来上がってしまった。

 原作はいわずと知れた東野圭吾。加賀恭一郎ものは『新参者』しか読んでおらず、『麒麟の翼』は文庫待ちの状態ではあったのだが、原作を読まずしても東野圭吾のプロットの作り方巧みさは十分に窺うことができる。
日本橋という江戸時代からの中心地でありながら(だからこそか)大都会と古くからの下町情緒が混在する街並みの空気感に、その地ならではの現象と人間模様を巧みに取り入れた物語作りの上手さはさすがといったところだ。
私は東野圭吾の本を読むたびに感心するのは、物や人から浮かび上がるあらゆる要素を物語にしてしまう発想力にある。
この物語でいえば日本橋に翼の生えた麒麟の像があり、周辺には七福神の寺があり、とくに水天宮は安産と水難除けの神様として有名であるという要素が紡ぎ出され、それを組み合わせて感動のミステリーに仕立ててしまう発想は見事だとしかいいようがない。

 監督の土井裕泰はTBSのエースディレクターとのことだが、映画としてのクオリティにはやや欠けたとしても、「原作に忠実に作られていることに感動した」という東野圭吾のコメントにあるように、監督なりの新解釈を盛り込んでやろうなどと妙なヤマっ気を起こさず、原作の流れに任せたのは正解だったのだろう。
どうでもいいような場面に顔の売れている俳優を起用するなど、テレビ局が作った劇場映画らしい悪癖は垣間見えるものの、おそらくテレビ放映時にはもっと完成度があがって見えるに違いない。



2012.1.30 TOHOシネマズ渋谷


author:ZAto, category:映画, 23:59
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