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映画 『 ヒミズ 』

 観終った後、席を立つのが妙に億劫で、掌を見れば汗でぐっしょりになっていた。
久々にこんな映画体験をした。
すでに監督の園子温(その・しおん)の評価はすでに固まっているようだが、何分、すっかりと映画オンチと化してしまった私は初めて園子温作品に触れることとなった。
「 “ヒミズ”とは、トガリネズミ目モグラ科に分類される哺乳類。夜になると地上を徘徊することもあるが、日光が照る所には出てこない。“日見ず”という和名もここに由来する」
Wikipediaのヒミズの説明から連想されるものは、ストレートに日陰のイメージだ。
確かに明るい映画ではない。行き場のない絶望を描いてもいる。
しかしこの『ヒミズ』という映画。単なる日陰者たちの日常を陰々と綴ったものではなかった。
絶望を突き抜けたところから訪れる光を力強く模索した映画となっている。

ヒミズ

 まず冒頭から震災によって壊滅した東北の実景から始まる。
荒涼とした瓦礫の山の中でヴィヨンの詩を朗読する少女。
そこに少年が現れ、自らのこめかみに拳銃をあてる。
実際、津波による被災地の光景の中で展開されるそれらの場面に「不謹慎ではないか」と異を唱える人もいるだろう。
私も少年や少女の心象を瓦礫の中に投影するのは少し違うのではないかと感じていた。
しかし、では2011年の絶望を描こうとしたときに3.11を避けて通っていいのかといえば、それはあり得ないとも思う。
もともと映画は世の中のあらゆる公序良俗の対極にあるものだ。
映画が本来内包していた毒みたいなものを園子温という監督が呼び覚ましたのであれば、それを受け入れて消化するのも観客の選択肢のひとつではある。
そもそも津波に呑まれた瓦礫の風景というものを我々はニュースでずっと見てきたわけで、それをドキュメンタリーならば許されるものがフィクションはけしからんという理屈などあるはずもなく、そこに斬り込むことも映画の使命の内なのかもしれない。
この光景は今しか撮れないし、これをセットで再現しても意味はない。
ましてニュース映像でお茶を濁すのではなく、実際に現地にロケし、そこに俳優を立たせて芝居をされることに意味があるのだろう。
おそらく深作欣二や今村昌平が存命なら、彼らもカメラを回すことを厭わない。

 主人公は中学生の同級生・住田祐一と茶沢景子。
ごく普通に生きることを願っていた祐一は、震災で財産を失った夜野さんや田村さんたちを実家の敷地に住まわせ、愛する人と守り守られ生きていくことを夢見る景子は、祐一に疎まれながら彼との距離を縮めていく。
ところがある日、借金で蒸発していた祐一の父が金をせびりに舞い戻ってきて、祐一を殴りつけ、母親も中年男と駆け落ちしてしまう。

普通の日常を求めたい祐一の気持ちは痛いほどわかる。しかしこの状況で祐一が普通の日常を送ることがいかに現実的ではないのかもよくわかってしまう。
父親は祐一に繰り返しいう言葉は「俺はなぁ、ずっとお前のことがいらなかったんだよ」。
祐一も景子もそれぞれの親が望んでいたことは「死んでほしい」ということ。
それを15歳の二人が普通に受け止める姿は悲惨であり、哀しい。
ストーリーは更に暗転して父親殺しに発展していく。
『青春の殺人者』での水谷豊の父親殺しにはギラギラする青春の迸りがあったものだが、『ヒミズ』はひたすら暗くモノトーンな闇に包みこまれているようなイメージだった。

 震災に見舞われた生徒たちを前に教師が「がんばれ」を連呼する。
なぜ頑張らなければならないのか理解できない祐一。普通じゃだめなのかと。
教師のいう「がんばれ」はある種の軽薄さを伴ってひどく空疎に聞こえる。
3.11以降、日本中のあちらこちらから響いた「がんばれ!」「がんばろう!」の大合唱は、醒めた耳には聞くに耐えないものだったのかもしれない。
確かに「がんばれ」の形骸化は私も感じないこともなかった。
しかし形骸化された「がんばれ」に腹を立てるほど私もガキではなく、たとえうわべの美辞麗句としての「がんばれ」であっても、3.11に際して「がんばれ」という言葉の役割りは一応機能していたと思っている。
しかし園子温はうわべの「がんばれ」を否定し、『ヒミズ』を観る者すべてが形骸から突き抜けた本当の「がんばれ」に呼応するように仕向けることに執心する。
少年をどん底に突き落としながら、そのどん底の先にあるものを見ようとした。
15歳同士の純愛物語が突き抜けた「がんばれ」には心が締め付けられる思いだ。
もし入れ替え制のシネコンでなければ、一日中、映画館にいたかった気もする。

 それにしても暴力が全編を覆う。先日見た『スマグラー』も随分と人が殴られる映画だったが、『ヒミズ』にはカリカチュアライズされていない暴力が蠢いている。
こういう絵が撮れる人は絶対に胸中に暴力を内向させているのだと思う。
この園子温という映画作家はどんな若手かと思っていたら、驚いたことに何と私と同じ生まれ年だった。
そうなると今まで生きてきた中で、刺激を受けたもの、唾棄して捨て去ったものに多少の共通項はあるのかもしれない。いや、あるに違いない。
そのひとつにはあの享楽と喧騒だけの80年代に20代を過ごしてしまったことへの世代的な憤りがあるのではないか。
あの年代に対する怨差なくして、50歳になったとき『ヒミズ』が撮れるとはとても思えない。



2012.1.22 TOHOシネマズ海老名


author:ZAto, category:映画, 23:59
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