RSS | ATOM | SEARCH
映画 『 いちご白書 』
 
 40年前の映画がリバイバルされた。
映画『いちご白書』はバンバンの歌が大ヒットした際、中学の担任に教えてもらった。
その頃はいっぱしの映画好きを自認していたのだが、この映画のことは知らなかった。
おそらく正式にロードショウ館でリバイバル上映されていはいなかったのだろう。
荒井由実が ♪いつか君といった映画がまた来る〜 と書いたのは名画座に『いちご白書』が回ってきたときにインスピレーションが湧いたのだと思う。
そのバンバンの『いちご白書よもう一度』は1975年の発売なので、映画の公開から5年後のことだった。
学生運動が華やかし頃へのノスタルジーとしても、まだ当時の若者たちには挫折した闘争の傷が生々しく膿んでいたに違いない。

いちご白書

 師走の新宿武蔵館の最終回。席はガラガラだと思っていたところ、還暦過ぎのおじさんたちで席はそこそこ埋まっていた。
膿んでいた傷はかさぶたすらも残っていないだろうが、映画を観ながら消えてしまった傷痕を疼かせていたのではないだろうか。
それにしても夜の上映という事情もあるが、女性客は驚くほどまばらだった。
この調子では ♪君も観るだろうか いちご白書を〜 はおじさんたちだけのメモリーになっていたのかもしれない。
ラジオでの受け売りで、女は思い出を「上書き保存」してしまうが、男は「名前をつけて保存」するという話は頷けなくもない。男と女ではメモリーの機能が違うのだろう。

 そんな保存された記憶がそこかしてこで疼いているような館中で、当然にして私はどこか疎外感を味わうことになる。
映画は後追いながらテレビで観ていた。バフィー・セント=メリーの主題歌「サークル・ゲーム」も何度も聴いた。歌が流れた時は懐かしいとも思った。
やはり曲と映像が寄り添っている映画は、今、この映画を観ているのだという臨場感が味わえるのが有難く、このことは「午前十時の映画祭」でも痛感している。
しかし、やはり『いちご白書』は自分らの映画ではなかった。

 大学の時、学生運動の記録フィルムの上映会に出掛けたことがあった。
東大や日大での大学立法粉砕デモや国際反戦デー、新宿のフォークゲリラの映像を見ながら、十年前の日本はこんなに熱かったのかと目を瞠る思いがしたものの、所詮、我々は全共闘、学園紛争を冷めた目で見てきた世代ではある。

 そういえば校門前でマスクをした学生が配っていたアジビラを職員が回収する大学を受験したとき、「ダメだこの大学は」と思ったし、いざ自分の大学でも、ある事件が勃発して学内が騒然として、今までろくに授業に顔を出さずにだらだらしていた奴が、嬉々としてシュプレーヒコールをしているのを眺めながら「ダメだこいつは」とも思ったものだ。
私は『いちご白書』の主人公にはあらかじめ共感できない前提があったと思う。
逆にいえば、その分だけ『いちご白書』を冷静に観ることが出来たつもりでもいる。

 35mmニュープリントの綺麗な画面はそれほどの古さを感じさせなかった。
今、電車の中でつけ睫毛をする女の子たちを大勢見かけるように、流行サイクルがちょうど70年当時にシンクロしていることもあるかもしれない。
各国で起こっている民主化運動のデモや騒動のニュース映像がしばらく続き、政治状況も当時と似ているということもある。
バリケードで封鎖された大学構内の場面なども大した違和感もなく観ることができるが、もし十年前に『いちご白書』を観たらもっと古めかしく感じていたのだろうか。

 もともと革命思想に燃えたぎる若者たちを描く映画ではない。
舞台はサンフランシスコ郊外のわりと牧歌的なキャンパス。
一応、部屋には流行としてチェ・ゲバラや毛沢東の拡大写真を貼っているが、
学園構内でアジっている学生たちをぼんやりと眺めていたボート部所属のサイモン。
おそらく、貧しい子供たちの遊び場になっている土地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとした学校側を糾弾するというスローガンにも興味を持てなかったのだろう。
ところが彼はキュートなリンダにひと目惚れしてしまい学生運動に参加する。
サイモンが紛争に巻き込まれていくのはそんな他愛のない動機がきっかけだったが、何か若者らしい衝動を欲しがっていたこともあったのだと思う。
『いちご白書』の特筆すべきは、まさにその時代の渦中に作られているということで、ノスタルジーとは別の次元で学生運動を描いているということだ。
ベトナムがあって反戦があって、そこに資本の横暴を見出した若者たちがムードに乗って雪崩現象を引き起こしたというのが闘争の実際なのだとすれば、映画は時代の空気をよく描いていたと思う。

 このたびのリバイバルために作られた公式HPで「アメリカン・ニューシネマを代表する1本」と紹介されている。
実はこの映画をニューシネマとした記事に初めてお目にかかり、一瞬「え?」と思う。
おそらく製作者もニューシネマとして作ったのではないだろうし、日本での封切りも配給会社の宣伝はニューシネマとしては売らなかっただろう。
しかし、なるほど「時代の中で生まれ、時代に翻弄されて、時代に消されていく」のがニューシネマの定義だとすれば、『いちご白書』は間違いなくニューシネマだった。

 洋楽に対する知識が浅く、バフィー・セント=メリー「サークル・ゲーム」は別としても、ジョニー・ミッチェルもC、S、N&Yも知らないので作中に氾濫する音楽には少なからず退屈させられたが、学生たちが大学構内の体育館に輪を作って立てこもり、床を鳴らして抗議するところを突入した武装警察に蹴散らされる場面は今観ても迫力十分だ。
それまで音楽に合わせて映像をスナップショットのように重ねていく牧歌的な展開だっただけに、ひたすら暴力によって狩られていく学生たちをドキュメンタリーのようにリアルに映し出したクライマックスと、警官に棍棒で殴られたリンダめがけてダイブしたサイモンのストップモーションで終わるラストはそれなりに衝撃的だった。

 上映が終わり、館内が明るくなって席を立つおじさんたちに、『いちご白書』のラストがどう映ったのかは知る由もないが、彼らがサイモンたちと同じ若者だったという記憶まで35mmニュープリントリマスター版で再現されていればいいな、とふと思った。



2010.12.12 新宿武蔵野館


author:ZAto, category:映画, 23:59
comments(0), trackbacks(0), pookmark
Comment









Trackback
url: http://blog-zatopek11.net/trackback/351
みんなのブログポータル JUGEM