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舞台 『 納涼 茂山狂言祭2011 〜茂山千之丞追善公演 』
 
 ブログのアップと実際の日程が前後してややこしくなってしまったが、20日に国立能楽堂にて『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』を観劇して来たので、遅ればせながらその感想を書いておく。

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 6月に国立能楽堂にて大蔵流茂山千五郎家の狂言を観賞したとき、
伝統芸能の枠からこぼれる「笑い」の面白さに、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
それは国立能楽堂の重厚な桧造りの舞台で展開される古典芸能に対し、学びに行くという心構えそのものが頭でっかちで、漫才やコントを観に行くときのように純粋に「笑い」を求めに来たらいいさと、狂言師たちから示唆されたような気がしたのだ。
古典芸能なのに面白いのではなく、古典芸能だからこそ面白い。
長年にわたって継承され、練られてきた芸能を目前にすることの至福。
その芸の殆んどは笑わすことに収斂する。
まさに贅沢な時間を過ごさせてもらったわけだ。

茂山千五郎家 今回の『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』。
 茂山家の家系図を改めて見てみると、人間国宝である茂山千作の子が千五郎、七五三、千三郎。千五郎の子が正邦と茂で七五三の子が宗彦と逸平。
一方の茂山千之丞は、子があきらで、孫が童司ということになる。

 今日は茂山家ほぼ総出演で、第一部では逸平、第二部ではモッピーがそれぞれ重鎮たちが得意とした役に挑戦する。
これはもう昼夜行くしかないとなって、さっそく通し券を購入していた次第。
もちろん私は狂言ビギナーであるため、御大の人間国宝・茂山千作はもちろん、去年亡くなられた茂山千之丞の存在は知らない。
この人たちのことを知らないというのはつくづく残念ではあるが、もともと伝統芸能に「遅れてきたファン」というのはつきもので、伝統芸は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるならば、我々は常に継承の途上を観ているのだろう。
このたびの上演は「リクエスト狂言」ということで狂言ファンからのリクエストによって曲が選ばれるという趣向だ。


■第一部(午後13時30分開演)

◎ 『 寝音曲 』
主人 茂山千五郎 / 太郎冠者 茂山七五三
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◎ 『 濯ぎ川 』
男 茂山童司 / 女房 茂山正邦 / 姑 茂山千三郎
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◎ 『 豆腐小僧 』
豆腐小僧  茂山逸平 / 大名 茂山千五郎
太郎冠者 茂山茂 / 次郎冠者 茂山宗彦
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 まず茂山あきらの「お話」(前説?)から始まる。
・・・ビギナーとしては狂言師たちを敬称略で書くのは何とも臆するところではあるが、そこは何とか慣れていかなければならない。
茂山あきらはこの回のメイン曲である『豆腐小僧』の演出も兼ねているので、千之丞の十八番を若い逸平と童司が演じることへの工夫。台本の書き直しなどを紹介。
また茂山家は京都が本拠であることから、例の「五山の送り火」騒動について、
「あんなものちょっとぐらい心配でも、供養なんですから、ちゃっちゃっと燃やしてしもたら良かったんですがね〜、いや、これはあたしのひとり言ということにさせてもらいますけど」と客席を和ませる。

 最初の曲である『寝音曲』は千五郎、七五三の兄弟の組合せ。
茂山千五郎家の重鎮の共演ということでいいのだろうか。内容はびっくりするほどに分かりやすい曲だった。
たまたま太郎冠者の謡の声を聴いた主人が、自分の前で謡えと命じるも、客が来るたびに呼ばれて謡わされてはかなわないと、太郎冠者は「酒を飲まねば謡えない」「妻の膝枕でないと声が出ない」などと難癖をつけて逃げようとする話。
還暦を過ぎた男ふたりの膝枕の滑稽感で大いに笑ってしまうのだが、芝居の間もさることながら謡をしっかりと聴かせなければならない。
解説によると膝枕の体勢で朗々と謡うことは相当に難易度が高いのだという。
コントのような筋書でも芸の深みが問われるわけで、「古典芸能」だから面白いという見本のような曲だ。

 続く『濯ぎ川』で真っ先に目が行ったのは演出が武智鉄二だったこと。
もう故人なのだろうが、私の武智鉄二のイメージは映画『白日夢』に尽きる。
物議を醸したこの映画を私は大学生の時、1964年版も1981年版も映画館で観ている。
「芸術かワイセツか」と話題となったが内容は非常にシュールなもので、内容は殆どチンプンカンプンだったが、何と1981年版の『白日夢』に茂山千五郎がキャスティングされていて、しかも千作、千之丞の兄弟は武智の実験演劇などに関わったことで能楽協会から退会勧告を受けた経緯があったとWikipediaに記されていた。
そのことからも、かつて若き日の茂山兄弟が伝統芸能に革新性をもたらせようと野心を滾らせた赤心を垣間見る思いなのだが、『濯ぎ川』は武智演出のイメージとはほど遠い大らかな笑いに包まれた曲だった。
ただ夫を演じた童司の芝居がやや大人しすぎて、女房の正邦、姑の千三郎の強烈な女形の攻勢に圧倒されたままだつたのは少々気になった。
圧倒されながらも、とぼけた味がもっと出せれば文句なしだったと思う。

 第一部のトリとなった『豆腐小僧』は、作家の京極夏彦が千之丞のためにアテ書きした新作なのだという。
その意味でも茂山狂言が別名で「お豆腐狂言」と呼ばれていることも含めて、『豆腐小僧』は茂山家の代表的な曲なのかもしれない。
妖怪・豆腐小僧は他の妖怪と違って人から怖がられたことがなく、ある日、太郎冠者に出会い、彼の主人が人間なのに恐れられているのを聞いて、「自分も人を怖がらせたいと」と願ったところへ、主人が次郎冠者を連れて通りかかり・・・というお話。
写真で見る千之丞の豆腐小僧を見ているとそれだけで可笑しみが湧いてくる。
おそらく年輪を重ねた芸が醸す小僧の可愛らしさというのがキモなのだろう。
それを若い逸平と童司のWキャストで上演するのがこのたびの目玉となっているのだが、私は逸平の方の『豆腐小僧』を観た。
実際の(?)豆腐小僧の実年齢は逸平世代に近いのだというが、何せ80歳の千之丞にアテ書きした台本なので、老人から滲み出る可愛らしさや滑稽感よりも、若輩の妖怪が俗世間に翻弄されつつも、おっとりとした純真さが強調された舞台となり、これはこれで、逸平によって練られていけば、新たな『豆腐小僧』が茂山狂言に根付いていくのだと思う。


■第二部(午後17時30分開演)

◎ 『 蝸牛 』
山伏 茂山千五郎 / 主人 茂山七五三 / 
太郎冠者 茂山あきら
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◎ 『 死神 』
男 茂山宗彦 / 死神 茂山茂 / 
従者1 丸石やすし / 従者2 茂山童司 /
女房 茂山千三郎
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 第一部が掃けて、北参道駅前のSUBWAYのサンドウィッチとコーヒーで有川浩の小説で暇を潰すこと2時間。いよいよ午後5時開場の本日の第二部となる。
前説は茂山茂。彼は6月に千五郎御大を相手に死神を演じたが、今回はモッピーが相手。もともと『死神』は落語のお題を狂言に翻訳して、千之丞が演出した舞台。死神役はずっとあきらが勤めてきたのだという。
あきらが作った死神の芝居は独特の台詞回しと間合いがあるため、千之丞も稽古をつけながらも死神の手本を示してくれないので苦労したエピソードを披露。
『蝸牛』については「普通の狂言」(笑)だそうだ。

 普通の狂言ということは『蝸牛』はスタンダードということなのだろう。もちろん私は初めてだが、観客の多くは様々な配役でこの曲を観てきたに違いない。
しかしおそらく今回の『蝸牛』の配役は茂山千五郎家でも最強の布陣なのではないか。
主人は太郎冠者に、長寿の薬といわれるカタツムリを取りに行かせるが、太郎冠者はカタツムリを見たことがなく、藪の中で寝ていた山伏をカタツムリだと思い込んでしまう。
この曲のキモは面白がってカタツムリに成りすました山伏が、主人と太郎冠者を乱痴気騒ぎに巻き込んでしまうこと。
「狂言には殺しの場面は出てきません。狂言は平和主義です」という茂の解説にあったように、いかにも狂言がハッピーワールドであることを象徴する曲ではなかったか。
「お前、あれは山伏で、まんまと担がれているではないか、山伏を打擲してやれ!」と怒る主人だったが、「でんでんむしむし」のリズムに巻き込まれてしまい、囃し合いながら退場していくというオチは、考えてみれば理論のタテ糸もヨコ糸もなく、ただひたすら面白い方へと吸い込まれる可笑しさに溢れている。

 さて、いよいよ6月の公演で千五郎が演じた役を、茂山宗彦が初挑戦した『死神』。
思えば6月に『死神』の後見役をモッピーが勤めていたのは、この8月を見据えた伏線になっていたのかもしれない。
s_moppie.jpg 借金に追われて死のうとした「男」が、死神に気に入られて金儲けに生きるという話。
紆余曲折のストーリーはややこしいので6月公演の際のブログを参照してもらえばいいのだが、落語で三遊亭圓生が得意としたお題を狂言に翻訳し、千之丞が演出として名を記している新作狂言。
台本は死神退散のおまじない以外は、千五郎御大とまったく同じで、役の実年齢は千五郎よりもモッピーの方が近いのかもしれない。
ただ、千五郎の「男」は本当に可笑しかった。
借金に追われて進退窮まり、首をくくろうか、それとも身を投げようかと思案するあたりの哀れな可笑しみ、そして死神と出会って人生が急展開することに対して、小柄な体躯から滲み出る小市民の滑稽感は半端ではなかった。
モッピーに千五郎が示したハードルを超えろというのは難しい。
初演から演じ続け、たっぷり練り上げた名人の芸と比べても意味はないだろう。
しかし欲に駆られて金儲けに走ってしまった狡猾な感じはよく表現されていたのではないか。
千五郎がファンタジーだとすればモッピーにはギラついたリアリズムがあった。
たまに、しょげたり、驚いて「ええーっ」という仕草に小草若がもろ見えしたのも楽しかったが・・・。
またこの『死神』が実によく出来ていると思うのは、病に伏した金持ちの家に呼ばれた「男」が自宅から移動していく距離感と時間経過のとり方の旨さだ。
最小限の舞台装置の中でも表現は無限に広がるということか。

 同じ役を2か月の内に30歳離れた狂言師同士の競演。
私がこのまま狂言を観続けていくのかどうかはわからないが、こういう時間を少しでも多く過ごすことによって、日々の幸福が数ポイントでも上げられることが出来たならば、それは非常に素晴らしく有難いことなのだと思う。




2011.8.20 国立能楽堂



author:ZAto, category:舞台・ステージ, 22:13
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