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『 中島みゆき 縁会 2012〜3 』 〜東京国際フォーラム
 
 5、000席を上回る大ホールの二階席の後ろから3列目というステージを見下ろす席で、新調したばかりで慣れない遠近両用眼鏡の焦点を合わせるのに無駄な苦労をしたこと、舞台セットがブロック状に高く積まれたボックスでのバンド演奏のため、サウンドがやけに近くに感じられ、アップテンポの曲は中島さんの歌とバンドが喧嘩しているようで多少耳障りだったことは最初に書いておこうかと思う。
『最後の女神』 『地上の星』 『恩知らず』 『パラダイスカフェ』はとくに残念だった。
そのためかスローな曲ばかりがやけに心に残ったコンサートになった。

中島みゆき 縁会2012
 
 さて、晩秋恒例となっている中島さんのライブ。
「 「夜会」という舞台がありますが、あれと違って通常のコンサートの方はいつも宴会気分でやっていこうと思っとります。いっそツアータイトルも 「宴会」 にしまえと考えたんですが、一升瓶を持ってこられても困りますんで 縁が会うと書いて 「縁会」 としてみました」 と、例によってあの凄まじく脱力したトークを炸裂させる。

 五年連続となる。もはや時間の流れる早さを茫然と見送るのみだ。
誰かが言っていた。「時間が早く感じられるのは、あなたが遅くなったからだ」と。
確かにそういうこともあるのかもしれない。
例えば前回のコンサートよりも東京国際フォーラムの喫煙所がずっと縮小されて、満員電車状態になっていたことや、終了後のロビーに貼り出されたセットリストに群がっていた携帯電話がスマホになっていたなんて違いにも小さな時の変遷を感じる。
しかし五年なんてケチな話ではなく、今夜のセットリストの内、彼女が二十歳そこそこで作った 『時代』 を歌い、還暦を迎えて発売した 『恩知らず』 を歌う。
休憩後のお色直しでは黒のドレスでJAZZYにブルース3曲を披露するが、『真っ直ぐな線』 と 『悲しいことはいつもある』 という二十歳代の楽曲の間にニューアルバムから 『常夜灯』 を挟む。
40年ほどの時間を一夜のコンサートでパッケージされてもまったく違和感はない。
中島みゆきの世界観が二十歳代で既に完成され、成熟していたともいえるし、
『時代』 『化粧』 『世情』 という楽曲がすでに不変の価値を持っているのかもしれない。
しかし『世情』 などは「めぐるめぐるよ時代はめぐる」で、そういう社会情勢になってしまったともいえるわけで、それを聴いている自分自身に流れた時間も含めて、改めて40年という時の流れを考えてしまった。

 『世情』 が今回歌われるのはネットの書き込みで知っていた。
スポーツ紙にも “中島みゆき27年ぶり「世情」!2年ぶり全国ツアーで披露”と載った。
中島さん26歳のアルバム 『愛していると云ってくれ』 に収録されていた曲。
これが一曲丸々 『3年B組金八先生』 に使われて有名になったことは知っていたが、
実は十年くらい前にビデオで初めて観た(何せ金曜夜8時といえばプロレスだった)。
なるほど、公にはもうシュプレヒコールが失われていた時代に、それでも個の中にその衝動はあるのではないかという「声なき声」を代弁した(と勝手に思っている)『世情』 も、こういう使い方があるものだと感心してしまった。
「この曲を書いて歌っていた頃と比べて本当に世の中変わりました。でも変わらないものは何も変わっていないんだと思います」と語りから入った 『世情』。
今回のコンサートにメッセージ性を見出すのならこの瞬間だったのではないか。
確かに、かつての「公」から「個」へと向けられていた曲が、再び「公」へと回帰することになった今の世情は、作られた当時よりも圧倒的に暗くなっている。
しかし 『世情』 で歌われた主人公みたいに、誰もが闇雲に突き進めるわけではない。
休憩前に歌われた 『風の笛』は、我慢し続けている人々への応援歌になっている。
この曲に、まるで初めて 『ファイト!』 を聴いたときのような共感を覚えてしまった。
『風の笛』 はニューアルバムに収録されている曲だが、またひとつ中島さんから名曲が生まれたことを実感する。
中島さんは応援歌という評価に違和感があるというが、激愛から慈愛へと深めていく中島みゆき史の中で、それらの曲に私自身も共感し、癒されているのだ。
同じ脈絡に 『倒木の敗者復活戦』 という新曲もあり、このニューアルバムは結構いい。
何度も聴いて馴染みのある曲をライヴで聴けるのは楽しいが、こうしてまだ耳馴染んでいない曲をライヴで認知していく作業もまた格別ではないか。



2012.11.15 東京国際フォーラム ホールA



author:ZAto, category:舞台・ステージ, 19:17
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中島みゆき 『夜会 Vol.17 2/2 』 〜赤坂ACTシアター
 
     冷たい雨 降りしきる赤坂に 歌姫の歌うを聴きにゆく・・・
   
中島みゆき「夜会VOL.17」 四年連続。すっかり晩秋初冬の吉例行事となった中島みゆき公演から既に数日が経過してしまった。
去年はツアーコンサートで今年は『夜会』。
こういうサイクルもなかなか乙で、四年続けばこういうめぐりにもなるのだろう。
今にして思えば、レコードだけで中島さんに浸っていた時間の何と勿体なかったことか。
歌の聴きはじめこそ古いが、巷の筋金入りと達とは比べるべくもなく私の知識は深くない。
過去の公演記録を読み返すたびに「はぁ」と溜め息をついてしまうのだが、そんな思いを知ってか知らずか(いや知っているはずはないが)、このたびの『夜会』は1995年と97年に上演された『2/2』の再々演となった。

     彼と私ともう1人。
     どこかに“それ”は居る。
     圭を愛することを自分の幸福として生きたい、
     そう願う気持ちが、
     つのればつのるほど、“それ”は莉花の中から
     凶悪な力を増大させながら正体を顕して来た---
     舞台版、小説版、映画版を経て、
     あの「2/2」が21世紀へ蘇る。

 コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」。
記録によれば、この『2/2』から『夜会』は全曲が舞台書き下ろしになったのだという。
それは『夜会』の舞台を観れば既成曲で構成するのに限界があったことはよくわかる。
シンボルとして通奏低音のように高々と歌いあげる名曲『二雙の舟』は別として、演目と楽曲が常に背中合わせにあることによって舞台はひとつの方向性へと進行していく。


 主人公の莉花と、自分のせいで生まれてこなかった双子の姉の茉莉。
莉花は常に茉莉の影に怯え、恋人との逢瀬の途中にも茉莉が現われて狂乱する。
前回の『今晩屋』同様にまったくの予備知識もなく観たステージなので、私は莉花の心象の中に茉莉がいるものだと思っていたのだが、解説によるとはっきりと「多重人格」と書かれていた。
しかし鏡に映っては莉花を追い詰めていく茉莉という関係性にこだわりたいとは思った。
莉花は震えるほど茉莉の存在に意識し、その影を自覚しているのだから多重人格者のそれとは違うように思うのだがどうだろう。
茉莉への贖罪の思いが募った挙句にせめて莉花が出来ることは、恋人の圭からの逃避だ。
莉花はベトナムへと旅に出る。どうせ茉莉の呪縛からは逃れられないのなら、恋人に辛い思いをさせないことを選ぶ。
そして恋人・圭を演じるコビヤマ洋一が懸命に莉花の後を追う。
荒れた大海原をさまようように遂に莉花の過去の秘密に辿り着く。
このあたりの展開は観念一辺倒だった前回の『今晩屋』と違い、ミステリーテイストでわかりやすく、映像を使った舞台演出もなかなか凝っている。
しかしここまでの展開では中島さんの色が薄い印象もあった。
一途に追いかける圭の歌声の方が逃げる莉花よりも力強く感じてしまうのだ。
男の声がステージに鳴り響くのを聴きながら、今ひとつ中島さんの声が入ってこない。
正直言うと前半が終了して、幕間の時間で煙草をふかしながら私はやや焦燥感を募らせていたように思う。

 20分の休憩の後、ステージは一気に中島みゆきワールドが全開となる。
二階席だったこともあり、オーケストラボックスの瀬尾一三の指揮などが見て取れたのだが、恥ずかしながら舞台にセリがあるのがわからなかったこともあって、いきなり巨大な竹船に乗った中島さんが現れたときにはど肝を抜かれてしまった。
そこで切々と滔々と歌われる名曲『紅い河』。
♪ 流れゆけ 流れゆけ あの人まで  さかのぼれ さかのぼれ あの人まで〜
異国情緒満点の曲のスケールもさることながら、いよいよ夜会が夜会らしい本領を見せてきたのではないか。
そしてベトナムのホテルでの圧巻のクライマックス。
植野葉子の莉花と中島さんの茉莉の入れ替わりで初見の私は完全に騙されたが、こういう「騙され」は遅れてきた『夜会』ファンであり、小説やDVDで勉強もしないという初見の怠け者だけに許された特権ではある。
とにかくクライマックスは『目撃者の証言』 『7月のジャスミン』 『幸せになりなさい』 『二雙の舟』 『恋人よ我に帰れ』とたたみかけ、怒涛の熱唱で圧倒してくる。
その真っ赤な衣装が神々しくもあり、痛々しくもある。

 私は『夜会』の鑑賞後はいつも「解釈」を放棄してきた。
正確にいえば「解釈」を述べるほど消化できてもいないのだが、「解釈」をしながら舞台を観るなどという器用なことはとても出来ない。
カーテンコールで「今年は、日本も世界も、生き物が踏んだり蹴ったりの年でした。2012年はほんの少しでも良い年になりますように」と挨拶で締めた中島さん。
産経新聞に載っていたレビューでは「全体から感じたのは、死者から託された「生きろ」というメッセージだ。中島がなぜこの物語を東日本大震災後の日本で再演したのか、その理由が最終幕に凝縮されているように感じた」とあった。
・・・なるほど、そういうことなのかもしれない。



2010.12.1 赤坂ACTシアター


author:ZAto, category:舞台・ステージ, 09:31
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舞台 『 納涼 茂山狂言祭2011 〜茂山千之丞追善公演 』
 
 ブログのアップと実際の日程が前後してややこしくなってしまったが、20日に国立能楽堂にて『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』を観劇して来たので、遅ればせながらその感想を書いておく。

s_kyogen.jpg

 6月に国立能楽堂にて大蔵流茂山千五郎家の狂言を観賞したとき、
伝統芸能の枠からこぼれる「笑い」の面白さに、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
それは国立能楽堂の重厚な桧造りの舞台で展開される古典芸能に対し、学びに行くという心構えそのものが頭でっかちで、漫才やコントを観に行くときのように純粋に「笑い」を求めに来たらいいさと、狂言師たちから示唆されたような気がしたのだ。
古典芸能なのに面白いのではなく、古典芸能だからこそ面白い。
長年にわたって継承され、練られてきた芸能を目前にすることの至福。
その芸の殆んどは笑わすことに収斂する。
まさに贅沢な時間を過ごさせてもらったわけだ。

茂山千五郎家 今回の『納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演』。
 茂山家の家系図を改めて見てみると、人間国宝である茂山千作の子が千五郎、七五三、千三郎。千五郎の子が正邦と茂で七五三の子が宗彦と逸平。
一方の茂山千之丞は、子があきらで、孫が童司ということになる。

 今日は茂山家ほぼ総出演で、第一部では逸平、第二部ではモッピーがそれぞれ重鎮たちが得意とした役に挑戦する。
これはもう昼夜行くしかないとなって、さっそく通し券を購入していた次第。
もちろん私は狂言ビギナーであるため、御大の人間国宝・茂山千作はもちろん、去年亡くなられた茂山千之丞の存在は知らない。
この人たちのことを知らないというのはつくづく残念ではあるが、もともと伝統芸能に「遅れてきたファン」というのはつきもので、伝統芸は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるならば、我々は常に継承の途上を観ているのだろう。
このたびの上演は「リクエスト狂言」ということで狂言ファンからのリクエストによって曲が選ばれるという趣向だ。


■第一部(午後13時30分開演)

◎ 『 寝音曲 』
主人 茂山千五郎 / 太郎冠者 茂山七五三
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◎ 『 濯ぎ川 』
男 茂山童司 / 女房 茂山正邦 / 姑 茂山千三郎
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◎ 『 豆腐小僧 』
豆腐小僧  茂山逸平 / 大名 茂山千五郎
太郎冠者 茂山茂 / 次郎冠者 茂山宗彦
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 まず茂山あきらの「お話」(前説?)から始まる。
・・・ビギナーとしては狂言師たちを敬称略で書くのは何とも臆するところではあるが、そこは何とか慣れていかなければならない。
茂山あきらはこの回のメイン曲である『豆腐小僧』の演出も兼ねているので、千之丞の十八番を若い逸平と童司が演じることへの工夫。台本の書き直しなどを紹介。
また茂山家は京都が本拠であることから、例の「五山の送り火」騒動について、
「あんなものちょっとぐらい心配でも、供養なんですから、ちゃっちゃっと燃やしてしもたら良かったんですがね〜、いや、これはあたしのひとり言ということにさせてもらいますけど」と客席を和ませる。

 最初の曲である『寝音曲』は千五郎、七五三の兄弟の組合せ。
茂山千五郎家の重鎮の共演ということでいいのだろうか。内容はびっくりするほどに分かりやすい曲だった。
たまたま太郎冠者の謡の声を聴いた主人が、自分の前で謡えと命じるも、客が来るたびに呼ばれて謡わされてはかなわないと、太郎冠者は「酒を飲まねば謡えない」「妻の膝枕でないと声が出ない」などと難癖をつけて逃げようとする話。
還暦を過ぎた男ふたりの膝枕の滑稽感で大いに笑ってしまうのだが、芝居の間もさることながら謡をしっかりと聴かせなければならない。
解説によると膝枕の体勢で朗々と謡うことは相当に難易度が高いのだという。
コントのような筋書でも芸の深みが問われるわけで、「古典芸能」だから面白いという見本のような曲だ。

 続く『濯ぎ川』で真っ先に目が行ったのは演出が武智鉄二だったこと。
もう故人なのだろうが、私の武智鉄二のイメージは映画『白日夢』に尽きる。
物議を醸したこの映画を私は大学生の時、1964年版も1981年版も映画館で観ている。
「芸術かワイセツか」と話題となったが内容は非常にシュールなもので、内容は殆どチンプンカンプンだったが、何と1981年版の『白日夢』に茂山千五郎がキャスティングされていて、しかも千作、千之丞の兄弟は武智の実験演劇などに関わったことで能楽協会から退会勧告を受けた経緯があったとWikipediaに記されていた。
そのことからも、かつて若き日の茂山兄弟が伝統芸能に革新性をもたらせようと野心を滾らせた赤心を垣間見る思いなのだが、『濯ぎ川』は武智演出のイメージとはほど遠い大らかな笑いに包まれた曲だった。
ただ夫を演じた童司の芝居がやや大人しすぎて、女房の正邦、姑の千三郎の強烈な女形の攻勢に圧倒されたままだつたのは少々気になった。
圧倒されながらも、とぼけた味がもっと出せれば文句なしだったと思う。

 第一部のトリとなった『豆腐小僧』は、作家の京極夏彦が千之丞のためにアテ書きした新作なのだという。
その意味でも茂山狂言が別名で「お豆腐狂言」と呼ばれていることも含めて、『豆腐小僧』は茂山家の代表的な曲なのかもしれない。
妖怪・豆腐小僧は他の妖怪と違って人から怖がられたことがなく、ある日、太郎冠者に出会い、彼の主人が人間なのに恐れられているのを聞いて、「自分も人を怖がらせたいと」と願ったところへ、主人が次郎冠者を連れて通りかかり・・・というお話。
写真で見る千之丞の豆腐小僧を見ているとそれだけで可笑しみが湧いてくる。
おそらく年輪を重ねた芸が醸す小僧の可愛らしさというのがキモなのだろう。
それを若い逸平と童司のWキャストで上演するのがこのたびの目玉となっているのだが、私は逸平の方の『豆腐小僧』を観た。
実際の(?)豆腐小僧の実年齢は逸平世代に近いのだというが、何せ80歳の千之丞にアテ書きした台本なので、老人から滲み出る可愛らしさや滑稽感よりも、若輩の妖怪が俗世間に翻弄されつつも、おっとりとした純真さが強調された舞台となり、これはこれで、逸平によって練られていけば、新たな『豆腐小僧』が茂山狂言に根付いていくのだと思う。


■第二部(午後17時30分開演)

◎ 『 蝸牛 』
山伏 茂山千五郎 / 主人 茂山七五三 / 
太郎冠者 茂山あきら
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◎ 『 死神 』
男 茂山宗彦 / 死神 茂山茂 / 
従者1 丸石やすし / 従者2 茂山童司 /
女房 茂山千三郎
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 第一部が掃けて、北参道駅前のSUBWAYのサンドウィッチとコーヒーで有川浩の小説で暇を潰すこと2時間。いよいよ午後5時開場の本日の第二部となる。
前説は茂山茂。彼は6月に千五郎御大を相手に死神を演じたが、今回はモッピーが相手。もともと『死神』は落語のお題を狂言に翻訳して、千之丞が演出した舞台。死神役はずっとあきらが勤めてきたのだという。
あきらが作った死神の芝居は独特の台詞回しと間合いがあるため、千之丞も稽古をつけながらも死神の手本を示してくれないので苦労したエピソードを披露。
『蝸牛』については「普通の狂言」(笑)だそうだ。

 普通の狂言ということは『蝸牛』はスタンダードということなのだろう。もちろん私は初めてだが、観客の多くは様々な配役でこの曲を観てきたに違いない。
しかしおそらく今回の『蝸牛』の配役は茂山千五郎家でも最強の布陣なのではないか。
主人は太郎冠者に、長寿の薬といわれるカタツムリを取りに行かせるが、太郎冠者はカタツムリを見たことがなく、藪の中で寝ていた山伏をカタツムリだと思い込んでしまう。
この曲のキモは面白がってカタツムリに成りすました山伏が、主人と太郎冠者を乱痴気騒ぎに巻き込んでしまうこと。
「狂言には殺しの場面は出てきません。狂言は平和主義です」という茂の解説にあったように、いかにも狂言がハッピーワールドであることを象徴する曲ではなかったか。
「お前、あれは山伏で、まんまと担がれているではないか、山伏を打擲してやれ!」と怒る主人だったが、「でんでんむしむし」のリズムに巻き込まれてしまい、囃し合いながら退場していくというオチは、考えてみれば理論のタテ糸もヨコ糸もなく、ただひたすら面白い方へと吸い込まれる可笑しさに溢れている。

 さて、いよいよ6月の公演で千五郎が演じた役を、茂山宗彦が初挑戦した『死神』。
思えば6月に『死神』の後見役をモッピーが勤めていたのは、この8月を見据えた伏線になっていたのかもしれない。
s_moppie.jpg 借金に追われて死のうとした「男」が、死神に気に入られて金儲けに生きるという話。
紆余曲折のストーリーはややこしいので6月公演の際のブログを参照してもらえばいいのだが、落語で三遊亭圓生が得意としたお題を狂言に翻訳し、千之丞が演出として名を記している新作狂言。
台本は死神退散のおまじない以外は、千五郎御大とまったく同じで、役の実年齢は千五郎よりもモッピーの方が近いのかもしれない。
ただ、千五郎の「男」は本当に可笑しかった。
借金に追われて進退窮まり、首をくくろうか、それとも身を投げようかと思案するあたりの哀れな可笑しみ、そして死神と出会って人生が急展開することに対して、小柄な体躯から滲み出る小市民の滑稽感は半端ではなかった。
モッピーに千五郎が示したハードルを超えろというのは難しい。
初演から演じ続け、たっぷり練り上げた名人の芸と比べても意味はないだろう。
しかし欲に駆られて金儲けに走ってしまった狡猾な感じはよく表現されていたのではないか。
千五郎がファンタジーだとすればモッピーにはギラついたリアリズムがあった。
たまに、しょげたり、驚いて「ええーっ」という仕草に小草若がもろ見えしたのも楽しかったが・・・。
またこの『死神』が実によく出来ていると思うのは、病に伏した金持ちの家に呼ばれた「男」が自宅から移動していく距離感と時間経過のとり方の旨さだ。
最小限の舞台装置の中でも表現は無限に広がるということか。

 同じ役を2か月の内に30歳離れた狂言師同士の競演。
私がこのまま狂言を観続けていくのかどうかはわからないが、こういう時間を少しでも多く過ごすことによって、日々の幸福が数ポイントでも上げられることが出来たならば、それは非常に素晴らしく有難いことなのだと思う。




2011.8.20 国立能楽堂



author:ZAto, category:舞台・ステージ, 22:13
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舞台 『千五郎狂言会 第十一回』 〜国立能楽堂
 
 昔、小学校の国語の教科書に載っていた狂言はこんな話だった。
屋敷に忍び込んだ太郎冠者。しかし主人に見つかり慌てて物陰に隠れる。
主人「はて、そこにいるのは犬か?」  太郎冠者「わんわん」 
主人「いや、猿か?」  太郎冠者「きゃっきゃっ」
主人「いや、鯛か?そうか鯛に違いあるまい」  太郎冠者「タイタイ、タイタイ」。
何ともベタな話すぎて今でも憶えていたのだが、調べてみると『盆山』という狂言。
それが私が狂言に触れた最初の体験で、昨日までの最後の体験だった。s_s_kyogen.jpg

 国立能楽堂は東京メトロ副都心線の北参堂駅を下車。
総ひのき造りの舞台が壁の右端に設えていて、左端に廊下(花道)があり、全部で627の座席が正面、中正面、脇正面と3ブロックに分かれている。
狂言初観劇の私からすればかなり異形の空間だ。
私の席は脇正面で舞台は真横に観る形となったのだが、そのかわり廊下が目の前にあり、入退場はもちろん、その場で演じられる芝居をたっぷりと楽しむことができる。

 さて、毎年6月はコクーン歌舞伎を見るのが恒例となっていたが、今回は『盟三五大切』の再演であり、中村勘三郎が休養中ということで橋之助が主役。
いや再演であることはまったく私の観劇の動機を妨げる理由にはならず、またあのざわざわするような凄惨な殺戮劇を楽しみたいとも思ったのだが、「やっぱり勘三郎の薩摩源五兵衛を見てしまうと橋之助ではちょっと・・・」などと、大した根拠もなくそういうことを書きそうな自分が見えてしまったので、なんとなく二の足を踏んでいた。

 ならば、この機会に違う古典芸能を初体験してみようかと思い、国立能楽堂で茂山千五郎狂言会が上演されていることを知って、狂言を観にいってやろうかとなった次第。
茂山家といえばあの『ちりとてちん』の徒然亭小草若こと茂山宗彦ことモッピーがいることも行く動機となったのだが、結論からいえばいやはや本当に楽しかった。

 番組は以下の4曲(狂言では演目を曲というらしい)。
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『 いろは 』  子・竜正 親・千五郎
『 しびり 』  太郎冠者・虎真 主人・千五郎
『 茶 壺 』  すっぱ・七五三 田舎者・千三郎 目代・宗彦
『 死 神 』  男・千五郎 死神・茂 召使・逸平 女房・正邦
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 まず最初の『 いろは 』 『 しびり 』は茂山千五郎と6歳になった竜正(たつまさ)と虎真(とらまさ)の双子の孫との共演となる。
狂言は主役(シテ)と相手役(アド)との掛け合いで構成され、千五郎がアドとなって子方の相手を務めるという曲で、可愛さあふれる微笑ましい舞台と、分かりやすい話が個人的には非常に有難かった。
なんでも去年、子たちの初舞台では千作・千五郎・正邦・竜正、虎真の四世揃い踏みの舞台が実現していたのだという。う〜ん、一年遅かったか。
しかし、こうして親から子へ、子から孫へと伝統は脈々と継承されていくのだろうが、
休憩時間にロビーに出ると双子の子たちが私服に着替えて無邪気に遊んでいるのを見て、この子たちはこれからずっと比べられて生きていくのかと思うと少々不憫な気持ちにもなる。
名家の子に生まれ、物心ついたときから舞台を踏む人生はどういうものなのだろうか。

 『 茶壺 』は道端で寝転んでいた田舎者の茶壺を、すっぱ(盗人、ペテン師)が盗もうとし、田舎者とすっぱが茶壺を自分のものだと主張して、代官に訴える。
ここで代官役のモッピーが登場する。狂言はマイクを使わないので、台詞を腹の底から声を張り上げて発生する。
当然、小草若のイメージはなく、あくまでも狂言師・茂山宗彦の芸を見せてもらう。
そのモッピーの父親・茂山七五三演じるすっぱの台詞の間のとりかたが絶妙で、大いに笑わせてもらった。
茂山狂言は別名「お豆腐狂言」を標榜するほど、分かりやすいとは聞いていたが、狂言を見ながらここまで笑えたのは自分でも驚いた。
確かに聞き取れなかった言い回しもあったし、客席が笑っているのに「えっ、笑うとこ?」という局面がなかったわけではないが、これはもう慣れるしかないのではないか。

 休憩を挟んで、いよいよメインとなる新作狂言の『 死神 』。
落語をモチーフに1981年に初演され、以後、上演を重ねて練り上げてきたという。
古典芸能といってもただ古いものを伝承するだけではいけない。
新作が生まれ、それがまた新たな古典となって受け継がれていく。
新作だけに時代や風俗の制約が少ないのか、この曲では台詞も現代語に近く、感覚としては殆ど新喜劇に近かった。
借金を苦に自殺を図る男の前に死神が現れ、「お前の寿命はまだ先だ、病人の生死を見分ける術を教えるから、それで稼げ」といわれ、おかげで男は評判の名医となって大儲けするが、さらに欲に目がくらみ死ぬはずだった大金持ちの命を救ってしまうという話。
千五郎は死のうとするも死にきれず、目先の欲に囚われてしまう人間の滑稽さを全身で表現し、観るものを大いに唸らせるのだが、死神を眠らせる際に「シューベルトの子守唄」を歌い、死神を退散させる呪文に「蛍の光」のフシが付くなど遊び心満載の舞台となった。
狂言は室町時代のコント。シテとアゴはボケとツッコミだと思えばいいのだろうか。

 このたびは何より当代・茂山千五郎の口跡の鮮やかさに圧倒された。
いやそれ以前に廊下から舞台へとすり足で歩く姿にもの凄い「気」が漂っている。
当然、歩き方にも「所作」もあれば「型」があるのだろうが、
この「気」で能楽堂全体に緊張感を漂わせておいて、可笑しな滑稽話で一気に空気を緩和させる。
この呼吸はちょっとクセになるかもしれない。



2010.6.9 国立能楽堂


author:ZAto, category:舞台・ステージ, 21:17
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『 中島みゆき TOUR2010 』 〜東京国際フォーラム

 「中島さん今晩は。中坊のとき、初めて聴いてから幾星霜。四十路終わりのひとり上手に五十路幕開けの大吟醸。今夜は楽しませてもらいます!」

 開演前、会場ロビーに備え付けの投稿箱に、そんな走り書きの手紙を放り込む。
運が良ければコンサート名物の「お便りコーナー」で読まれるかもしれない。
・・・ということで、昨秋11/25に続いて『中島みゆきTOUR2010』に行ってきた。
東京は東京国際フォーラムにて8公演。5000人超の大ホールを思えば動員力は健在。
過去3回、『夜会』には出掛けているが、純粋なコンサートに行くのは実は今回のツアーが初めてで、ずっと以前、横浜アリーナと両国国技館では抽選で外れたことがあり、その意味でも待ちに待ったコンサートになった。

 ただ、公演内容の詳細については、それこそ全国の中島みゆきファンがレポを書き綴っているので、今更、LIVEビギナーの私が似たようなものを書いても仕方ないと思うのだが、一応、備忘録としてセットリストだけは残しておくことにする。

中島01. 今日以来
02. 翼をあげて
03. 愛が私に命ずること
04. 二隻の舟
05. サバイバル・ロード
06. 時刻表
---お便りコーナー---
07. 夜曲
---15分休憩---
08. 真夜中の動物園
09. 夢だもの
10. しあわせ芝居
11. 銀の龍の背に乗って
12. Nobody Is Right
13. 顔のない街の中で
14. 鷹の歌
15. 時代
---アンコール---
16. 悪女
17. たかが愛



 今回は双眼鏡持参。もう歌とおしゃべりを楽しむというより、中島さんの表情をひたすら見つめていた。
それにしても、例の素っ頓狂なイントネーションで「ようこそおいでくださいました。中島のコンサートは上がったり下がったりのジェットコースターのようなものでございますから、座席にしがみつきながらお過ごしくださいませ」と、いきなり脱力させられかたと思いきや、イントロが聴こえた瞬間にスイッチが切り替わって、彼女自身が歌の世界へ憑かれて別人と化す、その刹那の凄まじさには筆舌に尽くしがたい圧倒感がある。
これは『夜会』の蓄積なのだろうか、歌詞によっては天使の顔と悪魔の顔が瞬時に入れ替わり、まるで観音様から毘沙門天まで一人で演じながら歌っているようで、その表現力と貯めた気を一気に放出するようなパワーに少々怖気づいてしまった。

 スポットライトを浴びた立ち姿の、凛とした美しさには長い髪がよく映える。
『夜会』と違い、ギターを持ってスタンドマイクの前に立つと、改めてシンガーソングライター・中島みゆきという風情となるのがとてもいい。
生で聴く名曲中の名曲、『二隻の舟』がとことん心に染み渡る。
『時刻表』『しあわせ芝居』に懐かしさを思い、お便りコーナーから『夜曲』に移る進行はオールナイトニッポンのエンディングを演出して見せて何とも心憎い。
コーラスの坪倉唯子もノリノリの『Nobody Is Right』、手拍子で会場がひとつになった『悪女』。そしてアカペラから始める『時代』では思わず泣きそうになった(笑)。
かつて「みゆき怨歌」「失恋ソングの女王」などと呼ばれ、私自身も冗談で「歌う戸板返し」などと(汗)、ファンであることを自嘲のネタにしていた中島さんだが、もう女の機微を切々と歌う領域から、人生の摂理を語る地平まで昇りつめているのではないかと思ってしまう。

 だから、典型的なおんな歌のようでいても、男が歌うととてもいい。
YOUTUBEにアップされていたのを拾ってみる。(クリックしてくんなまし)

 徳永英明 『時代』
 桜井和寿 『糸』 
 福山雅治 『化粧』
 槙原敬之 『ファイト!』
そしてまた出してしまうのが、もう百回以上は観たやつ(笑)。
http://www.youtube.com/watch?v=O9Bsp72aUbM

 さて、当然といえば当然。冒頭に記載した投稿文はあっさりとボツとなる。
でも書いた内容はネタでもなんでもなく、40代から50代へ移っていくタイミングで、自分にとってシンボリックな存在としての中島みゆきを確認するつもりでいた。
だから日程のタイミングとして1/13は見事なくらいだった。

 思えば中学生の時、深夜ラジオでシングル盤『時代』の発売の宣伝が繰り返し流れていたのが中島さんの歌声に初めて触れたとき。
ブログの流れからすれば「そのとき、雷が落ちたかと思うほどの衝撃だった」とでも書いておきたいところだが、すっかり夜引いてしまって、朝を迎えようかという時間帯では「〜まわる、まわる 四時台は回る〜」だと聴こえていた(笑)。
そして高校生になって、キャンディーズの解散とともに歌謡曲を卒業すると、荒井由実のサウンドとは違う、私の趣向にどんぴしゃで馴染む中島さんのメロディや詞の存在が大きくなっていく。

 思い出すのが大学の卒業旅行で8mmを回したときにエンディングに『根雪』を使い、それがあまりにもハマったことに味をしめて、社会人になってから社員旅行のビデオでもエンドロールのバックに、当時は “隠れた名曲”といわれていた『ファイト!』を流してひとり喜んでいたこと。
中島さんの曲に映像をあてるとつまらない素人映像が途端に意味を持つようになるのが面白くて仕方がなかった。
もう、その旅行からも20年が経つ。

 もちろん、中島みゆきを神か仏か菩薩かと崇めて奉っているようなコアなファンから比べると、映画にプロレスに野球にと夢中になっていた私の日常が、常に中島さんとともにあったなどとはとてもいえない。
だから殆どのコンサートも『夜会』もチケット争奪戦をやり過ごし、どちらかといえば、たまにアルバムを聴き直しては「ああ、こんないい曲だったのか」と改めて感銘するというファンではあった。
やはり転機となったのは2002年のシアターコクーン『夜会vol.12 ウィンターガーデン』で生の中島さんを観て、これはアルバムを聴いて貧相な世界観を思い浮かべている場合ではないと痛感させられたことだろう。

 とにかく私自身が人生の節目の年齢に来たとき、この境目でこうしてあらゆる意味で圧倒するまでのインパクトを与えてくれる存在がいてくれたことは本当に有難い。



 2010.11.25&2011.1.13 東京国際フォーラム ホールA


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『 M−1グランプリ2010 準決勝 』 〜両国国技館
 
 「皆さんは芸人が人生懸けて漫才するのを観に来たお笑いスケベですね」
と、MCを勤めるはりけ〜んずが客席を笑わせる。
これで四年連続。M-1グランプリの予選大会をLIVEで観てきた。
これまで東西に分かれて行われてきた準決勝を、今年は24組に絞って12/26の生中継に進出する8組を一気に決めてしまおうという趣向。
両国国技館は6千人観客の観客で埋め尽くされた。

s_CA3I0001.jpg

 かつてプロレスに80回以上行った国技館だが、足を踏み入れるのは十年ぶり。
この大会場が演芸に向いているとはとても思えないが、あえて打って出たM-1。
イベントのキャパシティ拡大という試みとして悪くなかったと思う。
まして格闘技会場でやることで「人生を懸けた闘い」というイメージが膨らんでくるのがいい。
たかが漫才ではあるのだが、「笑って年を忘れよう」などというほんわかムードはなく、一種独特の緊張感が醸しだされるのがこのイベント最大の魅力ではあるのだから。

 館内に入るとステージのモニターに24組の準決勝進出者たちが、本日の登場順を決めるクジを引くバックステージの模様が生中継されていた。

 抽選の結果、登場順は以下の通りとなった。(※印はネタの内容)

■ ナイツ (マセキ芸能社)   ※今年を振り返って
■ アーリアン (よしもと大阪)   ※ファミリーゲーム
■ ハライチ (ワタナベ)   ※刑事になりたい
■ 千鳥 (よしもと大阪)   ※殿様と伝令
■ ピース (よしもと東京)   ※言葉の発音
■ チーモンチョーチュウ (よしもと東京)   ※刑事と犯人
■ スリムクラブ (よしもと東京)   ※知らない人
■ パンクブーブー (よしもと東京)   ※万引き
■ 笑い飯 (よしもと大阪)   ※サンタウロス
■ マヂカルラブリー (よしもと東京)   ※竜を呼んで戦う
■ 笑撃戦隊 (ワタナベ)   ※相方がキャバ嬢に
■ 我が家 (ワタナベ)   ※結婚式でのツッコミ
■ プリマ旦那 (よしもと大阪)   ※ハゲ
■ ジャルジャル (よしもと大阪)   ※ボケとツッコミ
■ 磁石 (ホリプロ)   ※彼女を口説くには
■ 囲碁将棋 (よしもと東京)   ※隣の部屋のカップル
■ タイムマシーン3号 (アップフロント)   ※パンと米
■ POISON GIRL BAND (よしもと東京)   ※英語がわからん
■ ウーマンラッシュアワー (よしもと大阪)   ※居酒屋バイト
■ モンスターエンジン (よしもと大阪)   ※言っておきたいこと
■ カナリア (よしもと東京)   ※輪唱がしたい
■ 東京ダイナマイト (よしもと東京)   ※電気屋へのクレーム
■ ゆったり感 (よしもと東京)   ※50音のプロポーズ
■ 銀シャリ (よしもと大阪)   ※アルファベットの練習

 以上24組が持ち時間4分の中でシノギを削る。
準決勝というのは観客には美味しい。決勝進出を賭けてどの組も勝負ネタで挑んでくる。
しかもオンエアされる決勝のメンバー8組が当然この中から出る。。
それにしても昨年の三回戦見物が48組、一昨年の準決勝でも40組を思うと、東西合わせての24組とはまた絞り込んだものだ。
さすがに本気で出場を狙い、本選でも優勝を伺おうかというメンバーだけが残っているため、全体の印象としては本当に実力伯仲。
その意味ではダイヤの原石を青田買いする楽しみがなくなった物足りなさもあったが、それをいうのは贅沢というものだろうか。
メモをとったり評点していた観客も少なからずいて、私も去年に引き続きそれをやった。
甲乙がつけられないとなると相対評価で星3つが連続する。笑いの平均化現象なのか。
途中でネタが飛んでしまったチーモンチョーチュウは残念だったが、千鳥、POISON GIRL BAND 、東京ダイナマイト、モンスターエンジンといった決勝常連組のネタは過去のオンエアのレベル以上でも以下でもなかったと思うし、ナイツもいつものマイペースぶりで客席を沸かせていた。
何せ3組に1組が決勝に進むわけだし、過去の進出経験者が9組もいる。
とにかく4分間を持て余したコンビは皆無で、客席が引いた場面が一度もなかったのは、やはり24組に厳選されていたからだろう。
客席をドッカンと爆発させたのは笑い飯くらいだったのではないか。
演芸のメリハリとしてショッパいネタがあってこそのドッカンであるのかもしれない。

 トップバッターのナイツからラストの銀シャリまで、ネタはあっという間に終わってしまう。
澤田隆治ら審査員が決勝進出者を審議する間、国技館のステージでは藤井隆の司会でブラックマヨネーズ、中川家、U字工事、麒麟、ライセンスのトークショー。
中川家の礼二がブラマヨ小杉の髪の毛を引っ張ったら予想以上にごっそり抜けて不穏な空気に(笑)。
そしていよいよ決勝進出の8組の発表と、オンエア当日の出場順の抽選会と見せ場が続く。

 以下、決勝進出決定者をオンエア出場順で感想を。

1. カナリア
 去年の三回戦でブログでもベタボメして、準決勝はボンちゃん次第などと書いたと思う。
敗者復活戦でやや精彩を欠いて残念だったが、今年は堂々の決勝進出。
今回はR-1でも行けそうな安達が終始ボケまくったのが成功。この男は必ずピンでもブレイクする。
トップバッターに相応しいコンビとは思えないものの、前回のブログと同文を捧げたい。

2. ジャルジャル
 キング・オブ・コントに続いての決勝進出は若手の中でもピカイチの実力者である証明か。
コンビニをテーマに普通の漫才かと思わせておいて、「この漫才つまらんわ」ときた。
実際つまらなかったが突然のメタ展開にびっくり。
このコンビはコント系かと思いきや、漫才をネタにしたコントを漫才でやってしまった。
ふん、なるほどな、と感心。

3. スリムクラブ 
 「驚くほど成長したと思ったのがスリムクラブ。何せ三年前には“しょうもないネタでスイマセン”とネタ中に謝罪する体たらくだったのだ。『エンタの神様』のフランチェ〜ンなどクスリとも出来ないが、今回はハマった。」
このコンビについて私はブログで絶賛した。なによりも徹底的に異彩を放っている。
ところが敗者復活戦では大コケ。おそらく安定感はゼロに近いのではないか。
しかしボケの重爆は命中すればただごとではない。
おそらくオンエアで、一番緊張しながら観ることになると思う(笑)。

4. 銀シャリ
 なんとM-1初出場がいきなりスタートから4組続く。
銀シャリは正統的な上方漫才という感じで、スリムクラブの後は有利かもしれない。
この日のラストを無難に締めくくった感があるが、正直言うとネタはあまり覚えていない。
銀シャリが決勝進出を果たしたのは番組のためのバランス感覚だったように思えてならない。
などと、書いたことを謝らせるぐらいの爆発を見せてほしい。

5. ナイツ
 さすがに「ヤホー」はやらなかったが、前半はいつものペース。
「ヤワラちゃんの政界進出では裏でカネが動いたんでしょうね。本人も言ってました、田村でもカネ、谷でもカネって」
このあたりのセンスはさすが。今回は後半にひねりを加えて新機軸を打ち出していたのが新鮮だった。
前回はトップバッターでなければ間違いなくグランドファイナルの3組に残っていたはずだ。
優勝候補であることには間違いないだろう。

6. 笑い飯
 「予測不能のWボケ」から「孤高のWボケ」。そして「ミスターM-1」へ。
M-1の歴史は笑い飯の歴史か。9年連続決勝進出は間違いなく金字塔だ。
私の評点では笑い飯のサンタウロス(去年の本選で島田紳助から100点評価だった「鳥人」の変化形で、上半身がサンタ、下半身がトナカイというケンタウロスのもじり)は本日、唯一の当選確実だった。
今回のM-1はおそらくこのコンビのためにあるといっても過言ではないのだが、ここで優勝しないというのも笑い飯らしい気がしてしまうのは何故だろう(笑)。
おそらく「サンタウロス」ならばグランドファイナルは間違いないと思われるが、問題はもうひとつのネタの出来次第か。(去年ズッコケた「チンポジ」はシモだったの?)
どちらかといえば小波のように笑わせるナイツの後というのは期待出来るのではないか。

7. ハライチ
 このコンビはお馴染みの「ノリボケ」以外のネタは見たことないので、澤部君の熱演だけでどこまで行けるのか。
私は一見冷静に見える相方がいきなりネタを飛ばしたオンエアを見たことがあるので、ちょっと冷や冷やしている。
グランドファイナルは正直しんどいと思うが、大健闘の去年の5位をどこまで上回れるのか。
初出場組が多い中で連続出場の貫禄を見せてもらいたい。

8. ピース
 キング・オブ・コントでブレイクし、ダウンタウンによほど気に入られたのか、最近のピースのテレビ露出はすごい。
綾部と又吉という名前もかなり浸透していきているのではないか。
正直言うと今回は勢いで進出を決めた気もするが、実力はある。
個人的にジョン・レノンのネタが大好きで「想像してごらん、みそ汁から味噌と具と出汁をとった世界を」「えっと、それは・・・お湯です」という馬鹿馬鹿しいギャグが忘れられない。

s_m12010.jpg
 会場ではM-1を今年で終らせるという発表はなかった。
おそらく今日のステージに上がった者の誰もが聞かされていなかったのではないか。
結局、継続のための国技館興行ではなく、幕引きのための打ち上げ花火だったか。

 「この大会から、多くの若いスターを生み出してきて目的を達成できた。この先、ステップアップするいい時期として発展的に解消する。今後、新たなイベントに取り組んでいきたい」と主催者。
『エンタの神様』も『爆笑!レッドカーペット』も終了となると、いよいよ世間にネタを見せの機会が失われてしまう。これは由々しき事態だ。お笑いの本質がネタにあることは明々白々で、ますます反射神経だけが勝負のお気軽なスタジオトークが幅を利かすことになるのか。

 もちろんM-1は演芸としての漫才ではなく、M-1というジャンルになってしまったことは否めない。競技としていかに勝ち抜くかという計算のうえで成立するネタが散見される傾向にはあった。
しかしそういうものには自浄作用が働くもので、去年のグランプリにパンクブーブーが輝いたことで変革の兆しは見えてきただけに非常に残念に思う。
確かに島田紳助の「漫才に恩返しが出来た」という個人的な感慨など呑み込むほどM-1は巨大化していた。
今大会のエントリーは4835組だったという。
なるほど巨大化しすぎてしまったことに弊害もあるのだろう。

 とにもかくにも「発展的に解消」という言葉が実となることを信じつつも、12/26のオンエアを注目することにしたい。



2010.12.12 両国国技館




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コクーン歌舞伎 『 佐倉義民傳 』

 毎年、梅雨入り前にBunkamuraシアターコクーンで芝居を観る。
中村勘三郎×串田和美コンビによる「コクーン歌舞伎」で、今回が6回目の観劇(見物か)。
今年の出し物は『佐倉義民傳』。

 歌舞伎の主人公といえばお武家か町人と勝手にイメージしていたものの、これは農民劇。
素人なりに内容は知らずとも、歌舞伎のスタンダードな外題はよく耳にするが、『佐倉義民傳』というのは初めて聞いた。

  配役は以下の通り。

■中村勘三郎:木内宗吾
■中村橋之助:駿河弥五衛門
■中村扇雀 :堀田上野介正信、女房おさん
■中村七之助:甚兵衛の姪おぶん、徳川家綱
■笹野高史 :渡し守甚兵衛、座長
■片岡亀蔵 :幻の長吉
■坂東彌十郎:家老 池浦主計

 例の、紋付と袴姿で勢ぞろい。空港内の「マックカフェ」でくつろぐコマーシャルでお馴染みの方々です(笑)。

 ----- 時は生保年間。
領主による理不尽な年貢の取り立てにより、貧困に喘ぐ下総・佐倉の民たち。
名主の木内宗吾は、もはや一揆寸前まで追い詰められた百姓たちを諌めながら、
命を懸けてお上に惨状を直訴すべく、江戸まで旅立つのだが…!

 佐倉といえば千葉県の佐倉か?本当にどうでもいい話だが、ここは長嶋茂雄の故郷として子供のころから刷り込まれている土地。
それにしても農村など、歌舞伎の舞台になるものだろうか。
『夏祭浪花鑑』の初演と再演、『盟三五大切』、『東海道四谷怪談』、『桜姫』と観てきて、
極彩色の舞台を堪能してきた記憶を、今回は一旦リセットする必要があるのかもしれない。

 今回は勘三郎、迫真の舞台だった。
泣かせどころ満載の芝居で、とくに「子別れ」の場面では観客席のあちらこちらから鼻をすする音が聞こえる。もちろん加齢とともに涙腺が脆くなった私もそれに従う。

 あえて「今回は勘三郎」と書いたのは、去年の『桜姫』があまりに中村七之助の独壇場の舞台だと思ったからだ。
その『桜姫』。感想も書かねばと思いながら、とうとう一年をやり過ごしてしまった。
『桜姫』に関してはとても書けなかったのだ。
何せ衆道関係の僧侶が少年との心中で生き残ってしまい、少年の化身となった桜姫が様々な因果から女郎に身を崩し、慰みものとなる話。
それを見せ物小屋での演目として見立てる構成だったので、世にもケガレな男女の見せ物を勘三郎と七之助の父子が演ずることや、歌舞伎という芸能の出自までも含めて、私には怖しく淫靡で自虐な世界観に映ってしまい、少々怖気づいてしまったのだ。
そうなると見物素人には、何処まで踏み込んでいいものやら躊躇せざるえない。
その躊躇いをごまかして「七之助が素晴らしく艶やかだった」という感想で逃げようと、下書きだけは書いたものの、結局アップすることができなかった。

 
※昨年、観賞のコクーン歌舞伎『桜姫』より

 ところが『佐倉義民傳』はモノトーンの土臭さが覆う。
白塗りに豪奢な衣装は佐倉藩主・堀田上野介を演じた中村扇雀のみ。
舞台のカミからシモへと、ボロを纏い、鍬や鋤を手にした百姓が躍動していく様を観ていると、これが華やかな歌舞伎の舞台なのかと目を疑うこともしばしだった。
さらに場面を繋ぐのは義太夫や浄瑠璃ではなく、全編に鳴り響くラップ。
「つながってるんだYO!400年前と今!走れ!宗吾!ひた走れ!」と叫ぶ。
ラップの歌詞はいとうせいこう。

 歌舞伎といってもコクーン歌舞伎なのだから、和楽器にエレキギターやトランペットが割り込むのは珍しいことではないが、さすがにラップには驚いた。
台詞回しも歌舞伎独特の口跡ではなく、見得を切るわけでもない。
その分、新劇に近い舞台となり、筋書きが信じられないほどわかりやすくなったのは有難くもあった。
しかし、歌舞伎の間口を広げ、古典芸能に一石を投じることがコクーン歌舞伎の意義なのだとしても、ここまで飛躍させてしまうと「歌舞伎」といえるものなのかどうか。



 そのラップ音楽が苦手な私が、初めて「ラップもいい悪くない」と思えてしまったのも事実で、民たちの怒りや慟哭といったエネルギーがラップの叫びとシンクロして思いがけず胸を突かれる瞬間もあった。
それにしてもラップの良さを認識するきっかけが歌舞伎とは妙な話しではある。

 間違いなく串田和美は今回のコクーン歌舞伎で、ラップを使うことで最下層の民たちの怒りを通じて、現代社会に照射させようと試みたのだろう。
現実『佐倉義民傳』は自由民権運動が華やかりし時代によく上演されたという。
そのことを反映してか、今回はかなりメッセージ色の強い舞台となった(もちろん江戸庶民の娯楽として興隆した歌舞伎には、何かしらのメッセージを内向した外題は少なくはないだろうが)。
正直いうと、『戦艦ポチョムキン』ではないのだから、私はこういったプロレタリアートたちが反権力を叫んで隆起する話は苦手なのだ。

 しかし私は「今回は勘三郎、迫真の舞台だった」と書いた。
まるで現実の社会情勢に警鐘を鳴らさんとばかりの流れと相反するように、
歌舞伎役者・中村勘三郎は村名主・木内宗吾を情感たっぷりと演じきった。
木内宗吾は、常に「名主でいられるのも民百姓あればこそ」という感謝の心を携え、人望も厚く、争事は決して好まず、女房、子供思いの温厚な人物。
一揆に雪崩れ込もうとする百姓たちを諌め、悪人にも博愛の情で接して改心させるなど、私がコクーン歌舞伎で見た勘三郎史上、もっとも真面目でマトモな人物(笑)。
豪快な立ち回りがあるわけでもなく、受けの芝居が続くので派手な見せ場も少ないのだが、それでも堂々と役を立たせていくのは「さすが!」の一言だろう。
先述した「子別れ」の場などは、天下のご法度とされる将軍への直談判に追い込まれた理不尽さに耐えながら、溢れるような家族への情愛で涙を誘う。
妻のおさんを演じた中村扇雀(二役)とのやりとりで生まれる空気感は、ラップが奏でる喧噪のステージとは異次元の世界を構築しているかのようだった。

 そうなると、伝統芸能である歌舞伎と新劇の現代性との融合を試み続けてきたコクーン歌舞伎が、『佐倉義民傳』においては敢えて価値観の対立を目指したのではないかとも思ってしまうではないか。



 一転して最大のヤマ場ともいえる刑死の場面は凄絶。
磔にされながら、なおも人格者たろうとする木村宗吾。
もとより民の平和の礎になるべく、この身を捧げる覚悟は出来ていたのだが、
坂東彌十郎が扮する家老は鬼となり、幼い実子三人の命を宗吾の眼前で奪う。
この不条理にさすがの人格者・木村宗吾も狂う。狂いながら絶叫する。
「念仏など唱えるな!成仏などするな!恨め!恨みを持って死んでゆけ!」
抑えに抑えてきた勘三郎の気が一斉に放射され、まさに圧倒の場面だ。
それを受けた長男が「先に弟から殺してください!それを見れば私は成仏しないで済みます!」と懇願する。
コクーン歌舞伎は今まで狂わんばかりの極彩絵図を描出してきたが、
喧噪と情感が次第にシンクロし、ここに最大級の地獄図が展開された。
一家は根絶やしにされ、成仏しないことによって、木村宗吾一家は未来永劫、世の不条理を見続けることになるということか。

 オリジナルの台本がどうなっているのかは知らない。
しかし、義民の心意気を描く物語はコクーン歌舞伎によって暗転した。
暗転して別の顔を見せた。

 橋之助が演じる駿河弥五衛門という男はその象徴なのか、
飄々とした狡猾な表情が、宗吾の内面から闇を抉り出していく。
コクーン歌舞伎しか知らない私にとって、橋之助は常にワルの役どころだ。
台詞回しひとつとっても、民谷伊右衛門を演じた頃より貫禄がついた。
その黒づくめの浪人姿に、大向こうから「成駒屋!」と声が掛かり、
この舞台が歌舞伎と地続きであることを思い出させるのだ。

 改めて、今回の『佐倉義民傳』は素晴らしい芝居だったと思う。
しかし歌舞伎を観たという感慨は希薄だった。
シアターコクーンが大歌舞伎と地続きならば、ビデオで観て以来すっかり興味が湧いた勘三郎の『連獅子』に、いつの日か出会うための心積もりをしておく必要があるのかもしれない。



2010.6.10 Bunkamuraシアターコクーン

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『 M−1グランプリ2009 三回戦 』 〜ルミネtheヨシモト

 クリスマスイルミネーションが瞬く新宿で、『M-1グランプリ』の予選を観た。
これで三年連続のLIVEとなる。

 断っておくが、私はとりわけ熱心なお笑い好きというわけではない。
テレビのお笑い番組は流し見する程度だし、日頃のストレスをLIVEで笑いながら発散させるという情緒も持ち合わせてはいない。
若手芸人やお笑いのトレンドに対する知識も貧弱なもので、本日のLIVEにしても全出演者の大半は顔とコンビ名が一致しないばかりか、知らない顔も多かった。
それでも超プレミアチケットを手に入れてまでしてM-1の予選に行くのは、普段は競馬をやらないが有馬記念だけは買うというのに似ていて、年末イベント参加するという感覚に近いのだが、本質的には笑いに行くというよりも「勝負」を観に行くつもりではいる。

M-1グランプリ2009 毎年、予選のMCを勤めているはりけ〜んずが紹介するところによると、今回の出場者(コンビ)は4600組を超えて、過去最大のエントリー数だったという。
そう思うと大まかな数の符号でこじつけると夏の高校野球に似ていなくもない。
この膨大な出場希望者数は、そのままテレビをつければ必ずお笑い芸人が出ているという業界の成熟度を物語ってはいるが、浮き沈みが激しく、あらゆる芸能でこのジャンルがもっとも「生き馬の目を抜く」状況にあることは間違いないだろう。
当然にして表舞台の「浮き沈み」以前で燻っている連中が掃いて捨てるほどいるわけで、そういった連中を一夜にしてスターダムに押し上げていく装置として『M-1グランプリ』は機能している。
そういう意味ではM-1はお笑いLIVEとしては異質の興行だ。
木戸銭を払って観る「寄席」の概念からすれば邪道であるのかもしれないが、三年前は気持ち悪いだけだったオードリーの春日など、M-1準優勝の実績で何本ものテレビCMに出るなど大ブレイクさせる威力を持っている。
だからたまに映し出されるM-1会場の控え室などは、ある意味で燻り芸人たちの壮絶な見世物になっている。
出場資格は結成十年未満のコンビ。このステージに人生の選択を託しているコンビも少なくないだろう。
「お笑い」のイメージとは真逆の緊張感と焦燥感。目を瞑って集中する者、壁に向かって反復練習をしている者、落ち着きなく通路を行き来戻りつしている者。
まるで格闘技会場の控え室と同じ色合いとなっている。
だからこちらもM-1の予選会は観劇、見物というよりも観戦の気構えとなってしまう。

 今夜は三回戦。東京、大阪で三回戦はそれぞれ3夜連続で行われ、私は東京会場の中日を選んだ。といってもチケット入手の段階ではもちろん出場者は決定しておらず、単にスケジュールの都合で26日の夜になったに過ぎないのだが、「三回戦」であるということには少々のこだわりがあった。
というのも去年行ったのは東京準決勝。去年の11月までブログを遡っていただければ詳細は書いているが、最終決定戦に残ったNON STYLE、オードリー、ナイツを輩出するなど、準決勝のレベルまで進んでしまうとテレビの常連組が大挙顔を揃え、かなり贅沢な興行にはなっていたものの、コンビ芸として完成しているものを観たという思いが強く、会場も大きかったこともあって予選という雰囲気には乏しかったような気がした。
やはり一昨年の三回戦で味わった、玉石混交でカオスみたいなLIVEは強烈だった。
そこで初めて観たオードリー、サンドウィッチマン、ザ・パンチ、我が家たちのオーラは皆無なれど、ギラギラした雰囲気は忘れることが出来ない。
そういった燻りのマイナーパワーを味わえるのが三回戦の大きな魅力だ。
さすがに「観る方も忍耐」といわれる一二回戦に行くパワーはないが、まだ三回戦にはアマチュアや、名も知れぬ事務所の聞いたこともない芸人を残しつつも、テレビの常連芸人やM-1決勝進出経験コンビも出てくる実力伯仲のエリアに突入する。
しかし実績は一切関係なく、すべての芸人がエントリーナンバーで区別されるのみ。
しかもエントリーフィーの2000円を支払っての出演。やはりコンテストともなればこれくらい徹底しているくらいがいい。

 さて、全48組。ネタは各3分の持ち時間で終了が22時半予定という長丁場。
長丁場とはいえ、まごついていると「あっ」という間に入れ替わりでネタが披露されて、帰宅したら個々の芸をまったく消化していないなどということになる。
そこで今までの経験を踏まえ、大会直前にHPで発表されるエントリーをコピーし、エクセルで簡単な一覧を作成して、ネタが終ると同時に簡単なネタ内容と4つ星の採点をつけることにした。
周囲の客席のあちこちに同様の観客がいた。やはりここは寄席会場とは違う。


■ 三回戦出場順(全48組) 青字は準決勝進出

01 オクヨコ (よしもと東京)  ※変身ヒーローネタ ★★
02 スモールート (アマチュア)  ※変身ヒーローネタ ★★
03 井下好井 (よしもと東京)  ※めんどいカフェネタ ★★★
04 ジャングルポケット (よしもと東京)  ※ボクシングネタ ★★★
05 弾丸ジャッキー (ニュースタッフエージェンシー)  ※体操選手+自衛隊ネタ ★★
06 キャン×キャン (ヴィジョンファクトリー)  ※沖縄弁ネタ ★★
07 磁石 (ホリプロコム)  ※料理ネタ ★★★
08 ポケットパラダイス (SMA)   ※拾ったパンツネタ ★★
09 ワタルwithオカン (よしもと大阪)  ※オカンと息子ネタ ★
10 しんのすけとシャン (ワタナベエンターテインメント)  ※クレームネタ ★
11 オオカミ少年 (よしもと東京)  ※応援団ネタ ★
12 髭男爵 (サンミュージックプロダクション)  ※男爵の生い立ちネタ ★★
13 Wコロン (プロデューサーハウスあ・うん)  ※ねずっちの謎かけネタ ★★ 
14 カナリア (よしもと東京)  ※インストラクターネタ ★★★★
15 クレオパトラ (よしもと東京)  ※青春ドラマネタ ★★
16 ヒカリゴケ (松竹芸能東京)  ※叔父と甥ネタ ★★
17 朝倉小松崎 (サンミュージックプロダクション)  ※ギターネタ ★★★
18 メメ (よしもと東京)  ※広島カープネタ ★★
19 アームストロング (よしもと東京)  ※激しいつっこみネタ ★
20 マキシマムパーパーサム (よしもと東京)  ※変身ヒーローネタ ★★
21 ナイツ
 (マセキ芸能社)  ※ドラえもんネタ  ★★★
22 えんにち (よしもと東京)  ※予告編ネタ ★★
23 笑撃戦隊 (フリー)  ※携帯ネタ ★★
24 スリムクラブ (よしもと東京)  ※お悔やみネタ ★★★★
25 あきげん  (マセキ芸能社) ※相方いじりネタ ★
26 イシバシハザマ (よしもと東京)  ※救急車ネタ ★★
27 飛石連休 (サンミュージックプロダクション)  ※入院ネタ ★★★
28 安田大サーカス (松竹芸能 東京)  ※ホテルの案内ネタ ★
29 ツーナッカン (よしもと東京)  ※ネタ忘れ ★
30 虹組キララと研究生 (オフィス怪人社)  ※宝塚ネタ ★★
31 Vステーション (よしもと東京)  ※斬り合いネタ ★
32 ダブルネーム
 (トップカラー)   ※アカペラネタ ★★★
33 どんぴしゃ (よしもと東京)  ※九州ネタ ★★★
34 マヂカルラブリー (よしもと東京)  ※変なポーズネタ ★★★
35  (SMA) ※親子ネタ ★★
36 デスペラード (よしもと東京)  ※イラン人ネタ ★
37 ザ・アンモナイト (ホリプロ)  ※ブラジル娘ネタ ★★
38 コア (ワタナベエンターテインメント)  ※ネタ忘れ ★
39 クロンモロン (浅井企画)  ※シンデレラネタ ★
40 マッドドックス (ニュースタッフエージェンシー)  ※早口ネタ ★
41 ものいい (よしもと東京)  ※JJモデルネタ ★★
42 我が家  (ワタナベエンターテインメント)  ※杉山肥満ネタ ★★★
43 ポテト少年団 (よしもと東京)  ※変質者ネタ ★★★
44 オリエンタルラジオ (よしもと東京)  ※産婦人科 ★★
45 新宿カウボーイ (太田プロダクション)  ※禿げネタ ★
46 ハマカーン
 (ケイダッシュステージ)   ※ごきぶりネタ ★★★★
47 囲碁将棋 (よしもと東京)  ※J-WALKネタ ★★
48 U字工事
 (アミーパーク)  ※栃木ネタ ★★★


 一昨年の状況と違い、業界の成熟もあってそれぞれのコンビも場数を踏んできたのか、レベルは驚くほど高かった。やはりネタ見せ番組が増えたことも大きいのではないか。
今回の予選で準決勝に駒を進めたコンビを青字で記したが、ブレイク済みのひげ男爵、オリラジ、ものいい、響が落選したのも頷けるほどに実力伯仲だったという印象が強い。
準決勝進出組でも我が家、U字工事、ナイツの安定感はそれ以上でも以下でもない気がしたが、今回、もっとも爆笑をとっていたのがカナリアとハマカーン。
それぞれ無名というわけではないが、一気に出て行くだけの爆発力を感じた。
とくにカナリアは準決勝でのボンちゃんの出来次第だか、12月には跳ねそうな気がする。今夜の文句なしの二重丸。
驚くほど成長したと思ったのがスリムクラブ。何せ三年前には「しょうもないネタでスイマセン」とネタ中に謝罪する体たらくだったのだ。『エンタの神様』の「フランチェ〜ン」などクスリとも出来ないが、今回はハマった。

 さて12月の東京と大阪で行われる準決勝を勝ち抜き、12月20日の全国生中継のステージに上がるコンビを今夜の三回戦から輩出されるかどうか。
これも何かの縁であるので、そのときはテレビの前で今夜のルミネに出ていたコンビを応援したいと思っている。



2009.11.26 新宿ルミネtheよしもと



author:ZAto, category:舞台・ステージ, 23:08
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『 中島みゆき 夜会 Vol.16 〜夜物語〜「本家・今晩屋」 』 〜赤坂ACTシアター

 去年の11月30日のブログより。

「赤坂の夜から早くも一週間近く経って、全部が新曲オリジナルの舞台で歌われた曲は聴き直すことも出来ないのだが、ふとしたときにワンフレーズが蘇ってくることがある。それが浮かんでは消える淡雪のようではあるのだが、おそらく完全に消えることなく心に溜まっているような気がしている。」

 などと、綴っているのを読み返してみた。
上の文章の「一週間近く経って」のフレーズはそのまま「ちょうど一年経って」と置き換えてもいい。

夜会Vol.16 赤坂ACTシアター

 観客は中島さんに極上の夜をもらいにいく…。

 『夜会』について「言葉の実験劇場」などと形容されるが、あまた巷に溢れる膨大な情報や様々な解釈をざっくりと削ぎ落としてしまえば、そこに行き着いてしまうのではないだろうか。
淡雪のように蘇ってくるのは「夜いらんかいね」という曲。

♪ 夜いらんかいね〜、夜いらんかいね〜

 リフレインしながら静かに消えていくこの曲こそがこの舞台の、いや『夜会』そのものの唯一無二の概念なのではないかと思う。

 さて、去年の11月25日に観た『中島みゆき 夜会 Vol.15 〜夜物語〜「元祖・今晩屋」』からきちんと一年。
私は再び『中島みゆき 夜会 Vol.16 〜夜物語〜「本家・今晩屋」』が演じられる舞台の客席にいた。
今年の夜会は前回のVol.15の再演ということになっている。
しかし「元祖・今晩屋」から「本家・今晩屋」にタイトルが変更された。
そのことについて中島さん自身のメッセージを引用すると。

  こちらは本家でございます。
  およそ世間に元祖だ本家だと比べるものは、
  すなわち中味は同じというのが相場ではございますが、
  そこはそれ本家としてのナニもございますので、
  いささかの隠し味などもたくらみつつ、
  開演をめざしております。
  お楽しみいただけましたら、幸いでございます。

 こういうことなので、「元祖」になく「本家」に隠されたたくらみを検証していくという構成の記事も考えたのだが(実際にそういう作業は嫌いではない)、
結局は解釈論だけの話になってしまうこともあり(いや、そういうのも大好物なのだが)、
本質として、そこに意味があるのかどうか、どうもわからなくなってもいる。
私は去年「もし除夜の鐘が百九番目を鳴らしたとすれば、百八つの煩悩は行き場を失して、どこまでもさ迷うのではないか」と中島さん自身が自問し、
「前世、今世、来世への移ろいは、ループではなく、螺旋のように昇っていくのだ」との答えに達したのではないかと解釈した。
それは、この度「本家」を観て、ますます確信したことではあるのだが、
「夜いらんかいね」が『夜会』の唯一無二の概念だと定義してしまった以上、
「元祖」と「本家」の間にも厳然たる「夜」があり、その夜は「十二天」を超越した存在として、それ以上でも以下でもないのだという気がしてならないのだ。

 それでも正直いえば、本家・元祖の違いはあれ、この会場に入ってステージに第一幕の縁切寺のセットが設えているのを見た段階では「再演」に対する軽い失望感を抱いていた。
中島みゆきを70年代からずっと聞き続けていても、『夜会』の舞台はまだ3回目。
「今晩屋」という物語についてまだまだ未消化ではあっても、違うアプローチでの『夜会』が観たいと思っていたからだ。
その思いは第二幕の一場「水族館」、二場「船」まで燻り続けていた。
すべてが氷解したのが「夜いらんかいね」が歌われて暗転から“今晩屋”の半被を羽織った中島さんが横顔を見たときだったように思う。

 そうか、中島さんは「夜」を我々に渡そうとしているのだと…。
ゾクゾクとしたものが背中を駆け抜けた瞬間だった。

 去年は中島みゆきという稀代のシンガーが提供するエンターティメントを享受したという印象が強かったが、今年はただ「中島さんに夜をもらった」という思いでいる。
そしてそのことは私の中に『夜会』が浸透した証左だと自覚するのだがどうだろう。



2009.11.25赤坂ACTシアター にて



author:ZAto, category:舞台・ステージ, 23:59
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舞台 『 十二人の怒れる男 』 〜シアターコクーン 

 「私がここで有罪に投票してしまうと、彼の人生はたったの5分で決まってしまう…」
蒸し暑い夏の午後、父親殺しの罪でスラムの少年が裁かれようとしている。
少年の運命は無作為に選ばれた12人の陪審員に委ねられることになった。
証拠と証言は少年に不利なものばかりで、陪審員室に移った12人の投票の結果は、
有罪11票、無罪1票。
無罪票を投じた8号陪審員は室内に満ちる苛立ちと敵意に怯むことなく、
命の尊厳への責任の重さと審議への疑問点を語り、討議は次第に白熱していく。
裁かれるのは誰か、そして評決の行方は…。

十二人の怒れる男

 何故かシアターコクーンで芝居を観る日は雨になる。
肩に落ちる雨の冷たい感触は、今が現実であることを物語るが、
ひとたび劇場ロビーの扉を開ければ、不意に虚実皮膜の別空間が飛び込んでくる。
私は毎度、この瞬間で逡巡してしまう。
映画館はただ無色のスクリーンが観客を待つのみだが、
ステージは、あっという間に時代を超えて仮そめの約束事に我々を誘ってくる。
現実からの来訪者には、別世界を受け入れる「折り合い」の瞬間があるのではないか。
演劇に関しては長年、一線を引いて近寄らずの構えできたものの、
演者にしろ観客にしろ、多くの人々が芝居に憑かれる心理の実体は、
扉を開けた瞬間にやってくる逡巡に集約されるのではないだろうか。
それが例え江戸元禄の宿場町や中世ヨーロッパの古城ではなく、
客席に囲まれるようにポツンと置かれたテーブルと12人分の椅子が並ぶだけのステージだったとしても…。

 映画『十二人の怒れる男』は巨匠シドニー・メルットの手腕が冴えまくっていた。
うだるような暑さの中で、狭い陪審員室にひしめく男たち。
刻一刻とリアルタイムに進行していく時間の中で飛び交う怒号、白熱の論議。
黒から白へ。圧倒的多数を相手にオセロゲームのように覆していくカタルシス。
限定された空間で、ルメットは観客を掌に乗せて緊張と緩和を巧みに操りながら、
最初に無罪票を投じた8号陪審員に扮する名優ヘンリー・フォンダの「静」と、
激昂しながら最後まで我を通す3号のリー・J・コップの「動」をコントラスト鮮やかに対決させていく。
その意味では大スターと名脇役の演技合戦という側面でも特筆される映画だった。
あの映画の素晴らしさは限定空間でありながら、映画本来の魅力を見せつけた点。
これは映画にはカメラワークもあればカット割という技術があることが大きかった。
また8号にジャック・レモン、3号にジョージ・C・スコットというTV版もあった。
これもかなり面白く観ることが出来たのは、あの台本に名作映画の先駆があって、
稀代の名優対決ともなれば面白いのは当たり前だということだろう。
尚、アカデミー外国語映画賞にノミネートされたニキータ・ミハルコフ監督によるロシア版リメイクについては未見。

 2次元の映画作品に対してカメラワークもなければカット割りもないのが舞台。
蜷川幸雄は記者会見で「僕は何もするつもりはない。役者を見てくれ」といった。
芝居が演じられるステージの四方に客席を設け、ステージにはテーブルと椅子のみ。
審理を終えた12人は客席から入場して、それぞれの陪審員番号順に着席する。
私はシアターコクーン独特のバルコニー席で一番左端の席だったため、
芝居を上から俯瞰で眺めるという不思議な観劇体験をすることになった。
遅ればせながら結論を書いておく。この芝居は大変面白かった。

ステージ

原作………………レジナルド・ローズ
翻訳………………額田やえ子

演出………………蜷川幸雄

陪審委員長………石井愃一
陪審員第二号……柳憂怜
陪審員第三号……西岡徳馬
陪審員第四号……辻萬長
陪審員第五号……筒井道隆
陪審員第六号……岡田正
陪審員第七号……大石継太
陪審員第八号……中井貴一
陪審員第九号……品川徹
陪審員第十号……大門伍朗
陪審員第十一号…斎藤洋介
陪審員第十二号…田中要次

  ※幕間にて撮影


 ふと客席の最後部を見ると蜷川がじっと舞台の行方を見つめている。
演劇の演出家はラグビーの監督に似ている。
試合(幕)が始まってしまったら選手(役者)にすべてを託すしかない。
「役者を見てくれ」というのは、別に今回に限ったことではなく、芝居全般にいえることなのかもしれない。
なるほど蜷川は『十二人の怒れる男』という題材を素のままに生かし、特別に大向こうを唸らせる効果を用意するわけでもなく、独自の新解釈を弄することもない。
突然の夕立が窓から吹き込んでくれば、パントマイムのように窓を閉める仕草をするという最小限の舞台セットの中で、役者同士がぶつかり合う様を観客に投げつけたというステージになっている。
物語の骨格は事件を検証し、事実を精査していく推理劇の面白さにあるのだから、
台本を翻訳した額田やえ子氏のミステリーへの成熟度がこの舞台にもたらした功績は大きかったのではないか。
額田氏は残念ながら他界してしまったが、『刑事コロンボ』などは“ウチのカミさんがね”という決まり文句を創造し、あれは「額田やえ子ショー」だったのではないかと今にして思う。
 
 さて、台本はそれこそ十二分に面白く、演出家は早々に「何もしない」と宣言。
舞台がより高みへと昇りつめるのは役者たちの芝居にかかってくるわけだ。
スターと呼ばれる役者もいれば、個性的な脇役で光っている役者もいる。
名前と顔は一致しないが、ドラマの端役でよく観る顔もある。
彼らの中心となるのは対決関係となる8号の中井貴一と3号の西岡徳馬。
中井貴一をヘンリー・フォンダやジャック・レモンと比べる気はないが、
少々鼻持ちならない誠実さという点で、中井の真面目さが生きたのではないか。
荒々しい西岡の熱演を受け止めるのではなく、受け流していくという演技プランは正解だったように思う。

リハーサル風景「演劇ライフ」より 討論はそれ自体がオブザーバーとして眺めていても面白いものだ。
とくに議論よりヤンキースの試合を優先させたい7号の大石継太。
人種差別と偏見で恫喝癖のある10号の大門伍朗。
この二人が議論をことごとく混ぜっ返すマッチポンプの役割を担いながら、議論を白熱の方向へと導いていく。
大石継太は『近松心中物語』で与平衛を演じていたことをプロフィールで知ったのだが、
まさに蜷川ブランドの飛び道具なのかもしれない。
他に進行役に徹しようと常に汗を掻いているような石井愃一の陪審員長。
冷静で堅実な4号の辻萬長、巨体を揺らしながら迫力満点の6号の岡田正。
この辺りの舞台役者は声もよく通り、全体の芝居を締めていたのが印象に残る。
多少、科白を噛んでも激論しているのだから大して気にはならないが、
言葉の応酬による科白活劇の様相となれば、リズムやタイミングも難しいはずで、
徐々に全員の思いが最終着地点に収斂させていくのには、想像以上に感情のコントロールや、テンションの調節が必要になるのではないか。
唯一スラム育ちの5号に筒井道隆を当てたのはミスキャストだったか。
キャスティングの豪華さには一役買ったものの、脇の芝居を上手にこなすほど芝居が熟成されていなかった気がする。
その点、移民として慎ましやかに生きる時計職人・11号を演じた斎藤洋介。
30年前の『ピポクラテスたち』から変わっていない特異な個性を生かし、喧騒を一瞬にして黙らせてしまう妙な説得力が面白く、芝居の流れを要所でコントールしていたように思う。

 仕手と受け手がめまぐるしく入れ替わりながら、幕間15分を挟む150分。
カーテンコールで四方の観客に礼をする役者たちの表情は、
フルランドを闘い抜いたボクサーのようだった。





2009.6.18 Bunkamuraシアターコクーン






author:ZAto, category:舞台・ステージ, 23:59
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