自分としては『ダイ・アナザー・デイ』以来の007シリーズとなる。
あの時も随分と久々だったが、さらに十年が経っているのだから驚きだ。
この機会に少々007シリーズの思い出話に触れてみたい。
初めて劇場で見たのが中学3年のときの正月映画『黄金銃を持つ男』だった。
その時は遅れてきたボンドファンのつもりでいたが、何てことはない、あれも今やシリーズ前半の作品になっている。
シリーズを世代別に分類すると、私はロジャー・ムーア世代ということになる。
しかし、その当時から「ジェームズ・ボンドはやっぱりショーン・コネリーだ!」という声が圧倒的だった。
そこで「コネリーこそボンド」と堂々といえる資格を得ようと、TVで見ていたのでは駄目だという規律を勝手に科して、名画座やリバイバルを駆けずり回りコネリー版の初期作品は早々にすべて劇場で観た。
おかげで以来のボンド映画の見方が、コネリーだったらどんな感じに演じ、どんな仕上がりになるだろうかと想像する偏狭な癖が身に着いてしまった。
しかし、何だかんだいってシリーズもロジャー・ムーア以降、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経て、現在のダニエル・クレイグになって、新生ボンドもこれで3作目になる。
もはや「コネリーこそボンド」なんて言い草はオヤジの証明でしかなく、当然、イアン・フレミングの原作もとっくの昔にネタ切れとなって、往年の宿敵スペクターとの対決のバックボーンだった東西冷戦も終息。
母国イギリスもリトル・ハリウッド化して『007は殺しの番号』などというベタな邦題がつけられた時代から50年が過ぎて、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』などと英語音痴を嘲笑うかのように原題がそのまま使われるようになっていた。
そもそも“ゼロゼロセブン”ではなく“ダブルオーセブン”という呼び名が定着した時点でひと世代変わったのかも知れない(嗚呼、淀川長治さんの“ゼロゼロなな”というトークが妙に懐かしい)。
そして『ダイ・アナザー・デイ』を観たときに思った。
オールドファンにはもうレンタルで十分かも知れない、と。
そこにはイギリス野郎のユーモアとダンディズムの欠片もなく、完全にノー天気ハリウッド・エンタティメントが堂々と罷り通っていた。
冒頭、嵐の大海原をサーフィンしながら朝鮮半島に乗り込むボンドの姿は、『オースティン・パワーズ』以上におバカに見え、むしろあっちの方が初期シリーズのテイストを踏まえて微笑ましいぐらいだと感じた。
(消えるボンドカーなど、オースティンでもやらん!)
かつての007には荒唐無稽の中に “情勢”があり、“政治”があった。
あの時、シリーズからショーン・コネリーの面影を追う必要がなくなったのを痛感したのだった。
そしてダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが誕生する。
ファッション誌の表紙モデルになりそうなブロスナンからガラリと趣が変わった。
残念ながらクレイグの前2本は観ていない。
それほど『ダイ・アナザー・デイ』の印象が良くなかったのだが、スチル写真で見る限り無味無臭のロジャー・ムーアやブロスナンのボンドと比べて、クレイグのひと癖ありそうな風貌にはある種の期待感はあったし、そこに製作者側の新生007へのアプローチも感じていた。
これは期待できるかもしれない。実は前2作を見逃したのを後悔もしていた。
そして何よりも『スカイフォール』の監督はサム・メンデスだ。
オスカー受賞監督を起用することの意味に興味をそそられたのも、劇場へ足を運ぶ十分な理由になった。
全世界に散らばっている諜報員たちのリストが奪われるという極めて危険な事態が発生。ボンドはリストを取り返すべく追跡する過程で、味方の誤射により橋から落下し姿を消した。さらにはイギリス情報部本部が何者かによってハッキングされ、爆破される事件が発生する!
確かにクレイグの007はブロスナンとはまったく違うシリーズかと思った。
まずテーマ曲に乗ってボンドがピストルを撃つ有名なオープニングが出てこない。
それより以前にコロンビア映画の自由の女神のトレードマークにも軽く驚いていた。
007といえば我々の世代ではユナイトのイメージが強かったのだが、いつからソニーの映画になったのだろう(そういえば劇中に出てくるノートパソコンもソニーのVAIOだったが)。
メインクレジット前のトルコでの車、オートバイ、列車を駆使した大チェイスはCG満載のド派手なもので、それ自体は時代の流れで仕方がないにしても、誤射されたボンドが海底に沈んでいくイメージから、九死に一生を得て、自暴自棄になって女や酒に溺れ、場末の賭博場でやさぐれる姿に、面喰ってしまったのも正直なところ。
ここまでテイストを変えてしまったことには驚かされっぱなしだった。
シリーズ50年。東西の冷戦が終結し世界情勢がすっかり変質した中での007。
これは否応なしにイギリス情報部の存在理由の矛盾も問われることになり、それがこの物語の根幹にもなっている。
かつてアイディア満載の新兵器をボンドに提供していた「Q」も世代交代し、ITに長け、諜報部員には無線機だけを渡して、あとの行動はすべてこちらがコントロールするという合理性を追求する若造になっていた。
イギリス情報部という組織にも、忠誠を誓った国家にも疎外されようとするボンドは、
アイデンティの揺らぎに苦しみながら、生まれ故郷のスコットランドの生家で敵を迎え撃つことになる。
まさかシリーズでボンドの「自分探しの旅」を仮想体験させられるとは思わなかった。
もはや超人的なスパイがスマートに世界を駆け巡る王道に胡坐をかいてる時代ではなくなっているということだろうか。
このように『スカイフォール』は既成の007とはまったく構成を異としているのだが、
このことの是非を問われれば、私は「是」だったと答えたい。
シリーズの存在証明はワルサーPPKとアストンマーチンで満たされれば結構で、
007が抱える矛盾を堂々とテーマに持っていた勇気は評価されるべきではないか。
イギリス野郎のユーモアは、ボンドガールを落とし込む軽妙なセリフなどではなく、
このIT犯罪全盛の時代に、あえてショットガンひとつで敵を待ち受ける 『真昼の決闘』 ばりのシチュエーションを現出させたことにあるような気がする。
そして、エンディングでようやく有名なボンドがピストルを撃つイメージが流れる。
何だかんだと書いてきたが、これには少し「ほっ」とした。
2012.12.2 TOHOシネマズ海老名